新約聖書『第一コリント書簡』 意訳と概要

第一章
 使徒パウロとソステネスから。コリントの教会へ。また全てのキリスト者へ。イエス・キリストは我らの主であるが、あなた方の主でもある。
 父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安があるように。
 私はあなた方についていつも神に感謝している。それは、キリストの証しがあなた方のもとで確実になされたゆえに、あなた方が主イエス・キリストの交わりへと招かれ、一切の言葉と知識において豊かにされているからである。だから、あなた方は恵みの賜物に欠けることなく、主イエス・キリストの顕現を待望することができているのである。神は忠実な方なので、主の日にあなた方が責めらないように、あなた方を最後まで堅く支えて下さるであろう。
 さて、私はあなた方の間に分争がなくなり、かえって同じ思いと認識においての一致を取り戻すよう呼びかける。というのは、クロエーの家の者たちから聞いたのだが、あなた方は互いに、私はパウロにつくとか、いや私はアポロだとか、ケパ(ペテロ)だ、キリストだ、などと言って分裂してしまっているからである。キリストが分裂してしまっていいのか。私、パウロが何者だと言うのか。感謝すべきことに、私はクリスポスとガイオス、及びステファナスの家の者たち以外には、誰にも洗礼を授けなかったから、私の名で洗礼を受けた、などと言い出して、分派を助長する者はいないだろう。
 さて、私は洗礼を授けるために遣わされたのではなく、福音を伝えるために遣わされたのである。しかも知恵の言葉によって伝えたのではなく、キリストの十字架を伝えたのである。十字架の言葉というのは、滅び行く者たちにとっては愚かな話だが、救われる人々にとっては救いの力だからである。というのは、「我は知者の知恵を滅ぼし、賢人の賢さを廃棄する」と書いてあるように、一体どこに知者や、律法学者や、此の世の論者がいるだろうか。そんな者はいない。神は此の世の知恵を愚かなものと見なされたのである。何故なら、此の世の知恵では誰も神やその知恵を認識することができなかったからである。だから神は宣教という一見愚かな方法で信じる者を救うことをよしとされたのである。ユダヤ人は徴を求め、ギリシャ人は知恵を求めるものだが、我々は十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人や異邦人にとっては愚かしいことだが、信仰へと招かれた人々にとっては、どの国民であれ、神の力、神の知恵なのである。
 だから兄弟たちよ、自分が招かれた時のことを思い出してみなさい。肉的に賢い者や、権力ある者や、生まれの良い者は少なかったではないか。神は此の世的に賢くて強い者たちを反省させるために、此の世的に弱く蔑まれている者たちを選ばれたのである。神は高められた者を低くし、低められた者を高くされたのである。それは、いかなる人間も神のみ前で誇ることがないためである。神のおかげで、キリストが我々にとっての知恵となって下さった。また義、聖化、贖いとなって下さったのである。「誇る者は主にあって誇るがよい」と書いてあるとおりである。

第二章
 だから私はあなた方のもとに行った時に、兄弟たちよ、神の秘義を伝えるために巧みな言葉や知恵によって伝道しなかった。私はあなた方のところでは、イエス・キリスト以外は何も話すまいと決意していたからだ。それも、十字架にかけられたイエス・キリスト以外は。しかも私はあなた方のもとへ、弱々しく、恐れと不安のうちに行ったのであり、決して強そうに振る舞わなかった。私の言葉も宣教も、説得力ある知恵の言葉などではなく、ただ霊と力によっていた。それは、あなた方の信仰が人間的な知恵によらず、神の力によってもたらされるためであった。
 一方、円熟した者たちの間では、私は知恵を語ることにしている。とはいえ、此の世の知恵や、此の世の無力な支配者たちの知恵ではない。(聖書の)秘義の中に隠された神の知恵である。神はその知恵を此の世の基が置かれる以前から我らの栄光のために定めておかれたのである。此の世の支配者は誰一人として、それを認識しえなかった。もしも認識していたとすれば、栄光ある主を十字架につけたりはしなかったはずだ。しかし、「神は、眼が見ず、耳が聞かなかったこと、人間の心に浮かばなかったことを神を愛する者たちのために準備された」と書かれてあるとおりである。
 神は我々には霊(聖書)を通じて啓示して下さったのである。霊は一切を、神の深いお考えをも探り出すからである。人間については、人間の中にある人間の霊以外、誰が知り得ようか。それと同じことで、神については、神の霊以外誰も認識できないのである。しかし、我々は此の世の霊ではなく、神からの霊を受けたのだから、神から恵みとして与えられた知恵を認識できるのである。その恵みについても、伝道する時には、人間的な知恵の言葉よって語ることはせず、霊の教える言葉によって(聖書から)語る。我々は霊的な言葉(聖書)によって霊的な事柄(神の知恵)を判断するからである。しかし、肉的な人は神の霊的な事柄を受け入れることができない。それは人間にとっては愚かしい事柄だからである。彼らは霊的なことは霊的に判断されるべき(聖書から紐解くべき)ということが分からないのである。しかし、霊的な人は一切を(聖書から)判断する。しかしその霊的な人の思いを判断できる人は誰もいないのである。つまり、「誰が主の知恵を知って、彼を教えることができるか」と書かれてあるように、我々はキリストの知恵を持っているので、肉的な人には我々のことが分からないのである。

第三章
 というわけで、私はあなた方に霊的に円熟している人に対するような仕方で話すことはとてもできなかった。肉的な人に対するような仕方で、キリスト者の赤子に対するような仕方で話したのである。あなた方には乳を飲ませたのであって、固形物を与えたわけではないのだ。あなた方はまだ食べられるほど成長していなかったからである。しかも、今もまだあなた方は食べられずにいる。あなた方は肉的ではないか。すなわち、あなた方の間に妬みや争いがある限り、あなた方は肉的な人であって、全く人間的な歩み方をしているではないか。誰かが、私はパウロにつくとか、私はアポロだなどと言っているのでは、とても霊的とは言えまい。
 アポロやパウロが何者だと言うのか。これらの者たちはあなた方が信仰を持つために働いた仕え手に過ぎない。しかも、我々が成長させたのではない。神が与えるままに、私は植えた。そしてアポロは水を注いだ。しかし、神御自身がそれを育てられたのだ。だから、植える者も水を注ぐ者も重要ではない、育てる神だけが重要なのである。実際のところ、植える者も水を注ぐ者も一つなのである。勿論、各人がそれぞれの労苦に応じて報いを得るだろうが、神の同労者という点では同じなのである。そして、あなた方の方は、神の畑、神の建物なのである。
 というのは、私に与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家として土台を据えたのである。そして他の者がその上に建物を建てるのだ。すでに置かれている土台はもう誰も変えることはできない。その土台とは、イエス・キリストのことである。この土台の上にどのように建物を建てるのか、一人一人が注意深くありなさい。その土台の上に、金や、銀や、宝石や、木や、草や、藁で建てるとしても、それぞれの仕事の質はやがて明らかになるからである。すなわち、かの日(主の日)が明らかにする。その日は、火(による精錬)をもって顕れる。そして、それぞれの仕事がどういうものであったかを、その火が検証するであろう。そこで誰かの仕事が焼けてしまうなら、その人は罰をこうむったということになるが、その人自身は火の中を通りつつ救われるであろう。だから自分の仕事に注意深くありなさい。
 さらに、あなた方は神の神殿であって、あなた方の中に神の霊が住んでいるのである。だから、神の神殿を壊すものは誰でも、神御自身がその者をも壊されるであろう。神の神殿は神聖なものだからである。
 というわけだから、誰も自分自身を欺いてはならない。もしも、自分は此の世的に賢いと思う人がいるなら、むしろ(此の世的に)愚かな者となりなさい。そうすれば(霊的に)賢い者になれるであろう。此の世の知恵は神のもとでは愚かだからである。聖書にも、「神は知者たちをその狡猾さにおいて捕らえる」と書いてあるし、「主は知者たちの考えが虚しいものであると知っておられる」とも書いてあるではないか。だから、決して人間を誇りとしてはいけない。何故なら、パウロもアポロもケパも、世界も生命も死も、現在あるものも未来に起こることも、一切はあなた方の(権威に服する)ものであるからである。しかし、そのあなた方自身はキリストのものであり、キリストは神のものなのである。だから人間ではなく神を誇れ。

第四章
 というわけで、人は我々をキリストの従者、神の秘義の管理人とみなすべきなのである。なお、管理人には信用できることが求められる。とはいえ、私はあなた方に批判されようと、あるいは人間の法廷で批判されようと別に構わない。私は自分自身を批判することはしないし、やましいことも何もしていないからだ。だからといって、義とされたわけではないが、私を批判するのは主なのである。それに、主は闇に隠れた事柄を明るみに出し、心の企てを暴かれるであろう。そしてその時、各人は神から賞賛を受けるのである。だから主が到来される時までは、先走って何事も裁いたりしてはならない。
 兄弟たちよ、私はあなた方のために、パウロとアポロに例えて話をしてきた。それは我々が(聖書に)書かれている事柄を越えていないということを学んでくれるためである。そして、あなた方がある者に賛成し、他の者に反対したりしてふくれ上がらないためである。だいたい、どうしてあなたは自分を特別視するのか。あなたは我々から教えられたもの以外何を持っているというのか。全て我々から教えられたものであるとすれば、どうして教えられたものではないかのように、最初から自分が知っているかのような顔をして自分を誇るのか。それとも、あなた方はすでに満腹し、富んでいるとでもいうのか。我々からの教授抜きで、自力で王として支配し始めたのか。いや、王になってくれることを願う。そうすれば、我々もあなた方と共に王となることができるのだから・・・。
 つまり、私が思うに、神は我々使徒を最後に競技場の見せ物として登場させたのだ。我々はこの世界にとっても、天使たちにとっても、人間たちにとっても、まるで見せ物のようだからだ。実に、我々はキリストの故に愚かな者とみなされ、一方あなた方はキリストの故に賢い者たちとなっている。我々は弱く、あなた方は強い。これまでも、我々は飢え、渇き、裸で、打たれ、泊まる所なく、自活している。嘲られても祝福し、迫害されても忍耐し、辱められても呼びかけている。我々はこの世界のくずとみなされてきたのだ。
 私はあなた方に敬意を表してこうしたことを書いているのではない。愛すべき我が子らとして、考えを正すために書いているのである。あなた方にとってキリストの教育係がたくさんいたとしても、父親がたくさんいるわけではない。そうだ、キリスト・イエスに対する信仰に限り、私こそ、あなた方を生んだ父親なのである。
 だから、私を真似る者となりなさい。そのために、私はあなた方のもとにテモテを遣わすことにした。彼は私の愛する子であり、主にあって信用できる者である。彼があなた方にキリスト・イエスにおける私の道を思い出させてくれるだろう。私があらゆる場所で、あらゆる教会で、どのように教えているかを。それとも、私自身があなた方のもとに行かなかったので、何人かの者はふくれ上がってしまったというわけか。だとしたら、主が望まれるなら、すぐにでもあなた方のところに行きたいところだ。そしてふくれ上がってる者たちの、言葉ではなく(実践)力を見せていただこうか。神の国は単なる言葉にあるのではなく、(実践)力にあるのだから。はたして、あなた方はどちらを望んでいるのだろうか。私が鞭の棒を持って懲らしめに行くことか。それとも愛と柔和な霊をもって慰めに行くことか。

第五章
 そもそも、あなた方の間には淫行があると聞いている。それも異邦人にさえ見られないような淫行で、父親の妻と寝たという。それなのに、あなた方はふくれ上がってしまった。むしろ悲しんで、こういうことをしでかした者をあなた方の間から追放すべきではなかったのか。実際、私はといえば、身体は離れていても霊においてはあなた方と共に居て、その場に居る者として、そういうことをしでかした者をすでに裁いてしまった。我らの主イエスの名においてあなた方が集っていることろに、私の霊も臨席し、主イエスの権限によってその者の肉(の欲望)を滅びのためにサタンに引き渡したのである。それは、あなた方の霊が主の日に救われるためである。
 こうした点で、あなた方が誇るのはよくない。僅かなパン種がパン粉全体をふくらませるということをあなた方は御存じないのか。いつまでも新しいパンでいられるように、古いパン種を取り除いて、教会を清めなさい。実に、あなた方はパン種のないパンなのだ。キリストが過越しの犠牲としてほふられたのだから。だから、我々は古いパン種、つまり悪を教会から取り除いて、純粋と真理の(種なしの)パンで祭りを祝おうではないか。
 私は以前送った手紙の中で、淫行の者とは付き合うな、と書いたが、それは此の世の淫行者や、貪欲な者や、偶像礼拝者などと全く付き合うなということではない。そうだとしたら、あなた方は此の世界から外に出ないといけなくなってしまう。だから、今回はもっと厳密に書くことにする。付き合ってはならないのは、兄弟と呼ばれている者で、かつ淫行の者、貪欲な者、偶像礼拝者、誹謗する者、酔っ払い、略奪者、そういう者とは一緒に食事さえしてはならない。私には外部の者を裁くことなど関係ないからだ。しかし、あなた方は内部の者を裁き、外部の者を裁くのは神に任せればよろしい。「その悪人を教会から取り除け」とあるように。

第六章
 よく考えなさい。あなた方のうちの誰かが他の人に対してもめごとがあるとして、それを聖者たちのところ(教会)で裁いてもらおうとせず、敢えて不義なる者たちのところ(此の世の裁判所)で裁いてもらったりするだろうか。やがて聖者たちが此の世界をも裁くことになる、ということをあなた方は御存じないのか。あなた方によって世界そのものが裁かれることになっているのだとしたら、もっと小さな事柄を裁く能力がないなんてお話にならない。まして、日常的なことくらいきちんと裁けないようではいけない。教会でごく日常的なことを裁く必要が生じた場合、あなた方は教会で蔑まれている者(此の世の裁判官)に裁かせるのか。これはあなた方に敬意を表して言っているのである。それとも、あなた方の中には、兄弟間のことを裁くことができる賢人は一人もいないのか。兄弟が兄弟に裁判沙汰を起こして、しかもそれを非信者に裁いてもらっている、などという話は本当なのか。
 そもそも、教会内で裁判沙汰があるということ自体、あなた方にとっては負けである。自分の兄弟を訴えたりして、どうして損害を受けたままでいなかったのか。どうして奪われたままでいなかったのか。むしろ、自分の兄弟を訴えることによって、あなた方の方が自分の兄弟に対して損害を与え、奪っているのが分からないのか。
 それともあなた方は、不義の者が神の国を受け継ぐことはない、ということを御存じないのか。勘違いしていけない。淫行の者も、偶像礼拝者も、姦通者も、柔弱な者も、同性愛者も、泥棒も、貪欲な者も、酔っ払いも、誹謗する者も、略奪者も、神の国を受け継ぐことはないのだ。あなた方の中にも、かつてはそういう者もいたが、あなた方は主イエス・キリストの名と我らの神の霊によって洗われ、清められ、義とみなされたのである。
何でも許されているが、何でも役に立つというわけではないのだ。何でも許されているが、私が何かの権威に服する(自制できなくなる)ということはないのである。食物は腹のため、腹は食物のためにある。だが、食物も腹も罪を犯すためにあるのではないはずだ。
 同じように、身体も淫行のためではなく、主のためにある。そして主も身体のためにあるのである。つまり、神が主の身体を甦らせたように、我々の身体も甦らせて下さるということである。さらに、あなた方は自分の身体がキリストの肢体であるということを御存じないのか。私がキリストの身体の一部を取って、売春婦の肢体とするとでも。とんでもない!それとも、売春婦と寝るということは、売春婦と一つの身体になる、ということを御存じないのか。聖書にも「二つが一体になるであろう」と書いてあるではないか。しかし、主と共になる者は、みな一つの霊(の身体)となるのである。だから、淫行を避けよ。人が罪過を犯す場合、それは全て身体の外(相手を傷つけること)の事柄だが、淫行という罪だけは、自分自身の身体に対する罪(自分を傷つけること)なのだ。それとも、自分の身体は聖霊の宮である、ということを御存じないのか。あなた方はその聖霊を神から受けているのだから、もはやあなた方(の肉体)は自分自身のものではないのである。何故なら、あなた方は(キリストの命という尊い)代価を払って買い取られたのだ。だから、何が何でも自分自身の肉体によって神を反映しなければならない。

第七章
 では、あなた方が手紙で質問してきたことについて返答することにしよう。
 人間にとっては、女に触れない(独身を保つ)方がよい。しかし、淫行がはびこっているから、それぞれ自分の妻を持つのがいいだろう。女も同様にそれぞれ自分の夫を持つがよい。妻に対して夫は(性的な面で)義務を果しなさい。妻もまた夫に対してそうすべきである。妻は、自分の身体に対して、自分が権限をもっているのではなく、夫が持っている。夫も同様である。互いに相手(の性的必要)を拒んではならない。ただし、お互いの合意のもとに一定期間控えることにする場合は別である。その期間の間祈りに専念し、その後また一緒になればよい。そのようにするなら、あなた方の自制心のなさの故に、サタンがあなた方を誘惑することはないだろう。以上は譲歩して言っているのであって、命じているわけではない。私が本当に望んでいることは、全ての人が私のように独身でいることである。しかし、それぞれが神から独自の賜物を与えられているのであって、みなが私のようになれるわけではあるまい。
 結婚していない人および寡婦に対しては、私のように再婚せずにいるのがよい、と言っておこう。しかし、もしも我慢できないのであれば、結婚すればよい。情欲において燃えさかるよりは、結婚する方がましであるから。すでに結婚している人については、私は指示を与える。いや、私ではなく主御自身が指示しているのであるが、妻は夫と離婚してはならない。もしも離婚するのであれば、以後(他の者と)結婚せずにいるか、夫と和解して再婚するがよい。同様に夫も妻と離婚してはならない。
 以下の点については、私が言うのであって、主が命じているわけではないが、もしもある兄弟に非信者の妻がいて、その妻が彼と共に住みたいと望んでいるのなら、離婚してはならない。また姉妹についても同様である。その非信者の夫は、信者である妻によって聖められているのである。さもなければ、あなた方の子どもは汚れているということになるが、実際は聖いではないか。しかし、もしも非信者の方が別れることを望んでいるのであれば、別れなさい。兄弟姉妹は、こういう場合、束縛されているわけではないからだ。神があなた方を招いたのは平和においてである。しかし、女よ、自分が夫を救えないなどと考えてはいけない。男よ、自分が妻を救えないなどと考えてはいけない。(だからできる限り離婚しないように努めなさい)。
 もしもそのような特殊な事情にいないのであれば、それぞれが主が与えられた分に応じて、神がそれぞれを招かれた最初の状態に留まるべきである。私は全ての教会でそのように命じている。割礼を受けた状態で召されたのなら、その跡を消す必要はない。割礼を受けていない状態で召されたのなら、割礼を受ける必要はない。割礼や無割礼などどうでもよろしい。神の掟を守ることこそ重要なのである。それぞれが、自分の招かれた時の状態に留まるべきである。召された時に奴隷であったなら、気にすることはない。とはいえ、もしも自由になることが可能であるなら、自由になるがよい。何故なら、主に招かれた奴隷は、主にあって解放された者なのだ。同様に、招かれた時に自由人であった者は、キリストの奴隷となる。あなた方は(キリストの命という)代価を払って買い取られたのだから、もはや人間の奴隷とはなるな。兄弟たちよ、それぞれが招かれたままの状態に留まっているべきである。
 童貞の者については、私は主の命令を持っていない。しかし、主に恵まれて信用できる者となった者(使徒)として、自分の意見を言わせて頂きたい。現在の(世の)切迫した状態の故に、独身のままでいることは良いことだと思う。もしも女に縛られているなら、それを解こうとするな。もしも女から解放されているなら、女を求めるな。しかし、すでに結婚しているとしても、それは罪ではない。また、童貞の者が結婚したとしても、それも罪ではない。だが、結婚する者は肉体に苦悩を経験することを弁えていなさい。このように言うのは、あなた方に遠慮して、譲歩してあげているのである。
 兄弟たちよ、独身の方がいいと私が言うのは、定めの時が近づいているからである。だから、女を持つ者は持たない者のように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有していない者のように、此の世を利用する者は利用しない者のようになって、(主の仕事に専心)しなさい。何故なら、此の世の形相は過ぎ去るからである。あなた方が気を散らさないでいられることを私は望んでいるのだ。つまり、独身の者は、いかにして主に喜んでもらえるかと、主のことだけを気遣える。しかし、結婚した者は、いかにして妻に喜んでもらおうかと、此の世のことを気遣って(思いが)分裂してしまうのである。同様に、結婚していない処女は主のことだけを気遣って、身体面でも霊的な面でも聖なる者であろうとするが、結婚した女は、いかにして夫に喜んでもらおうかと、此の世のことを気遣うのである。こういったことを言うのは、あなた方の福祉を気遣っているからであり、なにも束縛しようとしているわけではない。あなた方がひたすら主に対して良い姿を取り、良く思われるために言っているのである。
 さらに、もしも誰かが自分の処女性に対してさまにならないようなことをしていると思うなら、彼女が十分に成熟しており、かつそうすべきであるなら、結婚するがよい。それは罪を犯すことではない。しかし、自分の心の中で無理せずにしっかり立つことができ、自分の意志を制することができる者が、自分の処女性を守り通そうと決意するならば、それは立派なことである。だから、結婚する者はそれでもいいが、結婚しない者はもっと立派なのである。
 加えて、女は夫が生きている限りは拘束されている。しかし夫が亡くなったのであれば、自分の望む男と再婚する自由がある。ただし主にある(者とだけ)である。しかし、私の見解では、独身の状態のまま留まっている方が恵まれている。私は神の霊によって語っていると思う。

第八章
 次に、偶像に供えられた肉についてだが、これについてはみなが知識を持っていると思う。だが、知識は人を傲慢にならせる。知識ではなく、愛が人を築き上げるのである。もしも誰かが何かを知っていると思っているなら、その人はまだ知るべき仕方で知ってはいない、ということだ。つまり、誰かが神を愛しているなら、その者はみな神に知られている(大切な信者)なのだから、(弱い人に対して上辺の知識ではなく、愛のうちに知識を用いなければならないのだ)。偶像に供えられた肉を食べることについては、世の中に偶像などというものは存在せず、唯一の神以外に神は存在しない、ということを我々は知っている。天であろうと、地であろうと、神々と呼ばれるものは多数あるけれども、現に多くの神々は(悪霊として)存在してはいるが、我々にとっての神は唯一、父のみである。その神が一切のものの源なのであり、我々はその神のために存在している。また主も唯一、イエス・キリストのみ。キリストによって一切のものが存在するようになったのであり、我々もまたキリストによって存在しているのである。
 しかし、全ての人にそういった知識があるわけではない。ある者たちは偶像に供えられた肉を食べる時に、今まで偶像に関して持っていた習慣のせいで、まだ意識(良心)が低いので、汚されるのである。しかし、食べ物が我々を神のもとへ連れて行ってくれるわけではないし、食べないからといって何かに欠けるわけでもないし、食べたからといって何かが増すわけでもないのである。(だから儀式として崇敬の念を込めて食べるのでない限り、偶像礼拝というわけではない)。けれども、あなた方のその知識が、意識の低い人々にとって障害とならないよう気をつけなさい。すなわち、もしも知識を持っているあなたが偶像の神殿でそれを食べようとして座っているのを誰かが見かけたら、意識の低い人は偶像に供えられた肉は(儀式的な行為であっても)食べたっていいんだと判断してしまうだろう。(しかし、儀式として食べるならばそれは偶像礼拝と一緒なのだから、その判断は根本的に誤りであるし、)それによって意識の低い人は罪を犯して滅びてしまうことになる。キリストはそれらの兄弟のためにも死んで下さったのだ。だから、そのようにして意識の低い兄弟の意識を誤導させることは、あなたがキリストに対して罪を犯すことなのである。だから、私は食べ物が自分の兄弟を躓かせてしまうくらいなら、以後肉は食べないことにする。我が兄弟を躓かせないためである。

第九章
 さて、私の使徒としての権利について、私を批判する者たちに対して弁明しよう。私は自由ではないのか。私は使徒ではないのか。私が我らの主イエスを見なかったとでもいうのか。あなた方を導いたのは、この私ではないか。たとえ他の人々に対して私が使徒ではなかったとしても、あなた方に対しては使徒である。すなわち、あなた方自身が、私があなた方の使徒であることの証拠なのだ。
 我々は(あなた方にもてなしてもらって)食べたり飲んだりする権利はないのか。我々は他の使徒たちや主の兄弟たちやケパ(ペテロ)のように、姉妹を妻として連れて歩く権利はないのか。あるいは私とバルナバだけが働かずにいる権利がないのだろうか。
 自分で自分の賃金を支払って兵隊になる者がいるだろうか。葡萄園に葡萄の木を植えて、自分でその実から食べない者がいるだろうか。あるいは羊の群れを飼っていて、その乳を飲まない者がいるだろうか・・・。
 私は単に人間的な見地から言っているに過ぎないのだろうか。いや、律法も私と同じことを言っているではないか。すなわち、モーセの律法には、「脱穀している牛に口籠をはめてはならぬ」と書いてある。神は牛のことを気遣ってこう書かせたとでも思うのか。いや、基本的に我々のために言っているに違いない。「耕す者は希望をもって耕すべきだ。脱穀する者はその穀物にあずかる希望を持つのである」と書かれてあるのは、我々のためである。我々があなた方に霊的な(種)を蒔いたのだとすれば、あなた方から肉的なもの(金銭)を刈り取るというのは行き過ぎた行為だろうか。他の者(祭司たち)もこの権利にあずかっていたのだとしたら、まして我々にもその権利はあるはずだ。しかし、我々はこの権利を利用することはしないで、一切黙っていた。それがキリストの福音を宣教するための障害とならないためである。しかし、神殿で奉仕をしている祭司たちは、神殿から食物を得ており、祭壇で奉仕する者は祭壇の捧げ物にあずかっている、ということを御存じないのか。同様に、主は福音を伝える者が福音によって生活できるよう命じておられるのである。
 しかし、私はこれらの権利を一切利用しなかった。私がこのことをあえて書いたのは、自分がその権利にあずかりたいと思っているからではない。そんなことをするくらいなら、死んだ方が・・・。というのは、私が福音を宣べ伝えるとしても、その事業は託された義務だから、それは誇る理由とはならない。いや、もし宣べ伝えなかったとしたら私は災いである!それが私の意志に逆らうことだとしても、やはり私にはこの管理人としての仕事が託されている。しかし、私が自ら進んで福音を宣べ伝え、自分の権利をすら利用せずに、無償で宣べ伝えるなら、私は神から報いを受けるであろう。だから、この点で誰も私の誇りを砕くことはできない。
 すなわち、私は本来いかなる人からも自由の身であるが、自発的に全ての人の奴隷となったのである。それは、より多くの人の心を勝ち得るためであった。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになり、律法下にある者には律法下にある者のように、律法のない者には律法のない者のように、弱い者に対しては弱い者のようになったのである。私はすべての者を勝ち得るために、何にでもなったのだ。幾人かでも多く救うためである。福音のために私は何でもしてきた。それを(すべての人と)分かち合うために。
 あなた方は、競技場で走る者はみな走るが、賞を得るのはたった一人だけだ、ということを御存じないのか。だから、あなた方も絶対に賞を獲得してみせるぞ、という気概で走りなさい。実に、競技をする者はみなあらゆることに節制する。それは朽ちる冠のためであるが、我々は朽ちぬ冠(永遠の命)を得るために走っているのだ。だから、私は決して曖昧な走り方はしていないし、空振りするような仕方で闘ってはいない。むしろ自分の身体に的確にパンチをくらわして、自分の身体を従えているのだ。それは、他人に対して宣教しながら、自分自身が失格者とならないためである。

第十章
 では兄弟たちよ、次のことを思い出しなさい。我らの先祖はみな雲(の柱)の下にあった。みな(紅)海を通りぬけた。みな雲と海の中でモーセへと洗礼を受けた。そしてみなが霊の食べ物(マナ)を食べ、みなが霊の飲み物を飲んだ。つまり、(モーセが叩いた)霊の岩から飲んでいたのである。この岩はキリストのことを表している。しかしながら、神は彼らの大部分をよく思わなかった。彼らは砂漠で倒れたのであるから。
 これらのことは現在の我々のための型である。彼らと同じような悪を我々が行なわないように警告するためである。だから、彼らの一部がそうであったように、偶像礼拝者となってはならない。「民は座して食べ、飲み、戯れた」と書いてあるとおりである。また彼らの一部がそうであったように、淫行に走ってはならない。彼らは淫行をなし、結果、一日に二万三千人も倒れたのである。さらに彼らの一部がそうであったように、主を試みてはならない。彼らは(パンがないと不平を言って)試みた結果、蛇に滅ぼされた。さらに、彼らの一部がそうであったように、つぶやいてはならない。彼らは(カナン人と戦うのは怖いと言って)つぶやいて、(荒野をさまよって)滅ぼす者(天使)に滅ぼされた。これらの事が生じたのは、予型である。すなわち、現在の我々の考えを正すための警告として書かれたのだ。(彼らが約束の地を目指して荒野を旅していたように、)我々にも世の終わりがさしせまっているのだ。だから、(信仰のうちに)立っていると思うなら、倒れないように気をつけるがよい。あなた方を襲った試練で耐えられないものはない。神は忠実な方だから、あなた方が耐えられないような試練を容認することはされないからだ。むしろ、試練と共に、それに耐えることができるような出口を用意して下さるであろう。
 そういうわけだから、我が愛する者たちよ、偶像礼拝を避けよ。私は今、あなた方に(肉的な人に対するような仕方ではなく、)理解力のある者に対するような仕方で語りかけているのである。私が述べることを自分自身でよく考えて判断しなさい。我々が祝福する杯は、キリストの血との交わりではないのか。我々が割くパンは、キリストの身体との交わりではないのか。パンは一つだから、我々もみな一つの身体である。何故なら、我々みなが一つのパンにあずかっているからである。肉的なイスラエル人を見よ。犠牲の捧げ物を食べる者は、その犠牲に捧げられた祭壇と交わっているではないのか。ならば、偶像に供えられた肉について、また偶像について、どう結論することができようか。異邦人が犠牲を捧げているのは、悪霊に捧げているのであって、神にではない、ということだ。私は、あなた方が悪霊と交わる者になることを望まない。だから、我々は主の杯と悪霊の杯を両方とも飲むことはできない。主の食卓にあずかっておきながら、同時に悪霊の食卓にあずかることなどできやしない。(だから偶像に供えられた肉を祭壇から食べることはしてはならない)。それとも、そうやって神を試し、主を嫉妬させようとでもいうのか。我々は主よりも強いわけではないだろうに。
 (少し前でも言ったが、)何でも許されている。しかし、何でも役に立つわけではない。何でも許されている。しかし、何でも建設的であるわけではない。みなが、自分の益を求めないで、他者の益を求めるべきである。というわけだから、今後、市場で売られている肉はすべて、いちいち良心に照らさずに食べてよい。地と、地に満ちているものは、すべて主のものだからである。しかし、非信者の家に招待され、肉を出された時はどうするべきか。それもいちいち良心に照らさずに出されたものを食べればよい。ただし、相手が、「これは神殿に捧げられた肉ですが大丈夫ですか?」と親切に言ってくれるのであれば、そのことを伝えてくれた家の人の良心に配慮して、食べない方が賢明である。良心というのは、自分の良心ではなく、相手の良心を躓かせないためだ。私の自由が他人の良心によって裁かれていいはずはないし、私がやましい気持ちなどなく感謝して食事にあずかるなら、それを他人につべこべ言われる筋合いなどないからだ。(だから、自分の良心ではなく、相手のことを気遣って食べるか食べないかを判断しなさい)。
 というわけだから、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにしても、一切を神の栄光のためにせよ。ユダヤ人に対しても、ギリシャ人に対しても、神の教会に対しても、躓きの原因とならないようにしなさい。私が全ての人に気に入られるように行動しているように、あなた方も自分の利益を求めず、相手の利益を求めなさい。そのようにして、彼らが救われるためだ。私がキリストを真似ているように、あなた方も私を真似るがよい。

第十一章
 さて、あなた方が私が伝えた伝承をきちんと守っていることを誉めよう。
 それなら、次の点も守るがよい。女の頭(かしら)は男であり、全ての男の頭はキリストであり、キリストの頭は神である、ということだ。であるから、(男の前で)祈ったり預言したりする時に、髪が長い男は、自分の頭の権を辱めているのである。また(男の前で)祈ったり預言したりする時に、頭を覆わない女は、自分の頭である男を辱めているのである。すなわち、それは女が頭を剃っているのと同じことだ。だから、女が頭を覆わないのであれば、その女は髪を剃ってしまえ。女にとって髪を剃ったり切ることが恥であるなら、頭を覆うべきである。
 何故なら、(創造の順序として、)男は神の像に造られており、神の反映(として造られた)から、頭を覆うべきではないのだ。しかし、女は男の反映(として造られた)のである。つまり、男(アダム)が女(エバ)から造られたのではなく、女が男から造られたからである。また男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからである。それ故、女は頭の上を覆って権威(に対する服従のしるし)をつけるべきあって、それは(長子であるキリストに服している)天使たちのため(の手本)でもある。もっとも、主に関しては、(つまり天で王となる特権に関しては、)男も女も平等である。というのは、女が男から造られたのと同じように、男も女を通して生まれたからである。しかし一切が神から出て来たのであるから、(全ての者の主権は神にある)。
 あなた方は自分で判断するがよい。女が頭を覆わないで(男の前で)祈るのが正しいことかを。男が髪を長くするのは恥ずかしいことであり、女が髪を長くするなら栄光あることだと、自然そのものが教えているではないか。長い髪はベールの代わりとして女に与えられたのだ。この点について反論があるかもしれないが、我々にそれ以外の習慣はないし、神の諸教会にもない。
 さらに、次の点も指示する。あなた方が集う時に、悪い方向へと向かっていることを誉めるわけにはいかない。あなた方が教会に集う時に、分争があると聞いている。その噂はそれなりに信用できるものだ。とはいえ、誰が正しい信仰者として合格かをはっきりさせるために、この分派争いも必要なのかもしれない。だが、それではせっかく一つの場所に集い、主の晩餐を食べたとしても、身体において一つになっているとは言えまい。すなわち、あなた方の中には、集会場で夕食をとっている者がいるらしい。だから、腹が減っている者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だ。あなた方には食べたり飲んだりする家がないのか。それとも神の教会を軽んじ、食事を持ってきていない人に恥をかかせる気か。あなた方を誉めてさしあげようか、いいや、この点で誉めるわけにはいかない。
 私があなた方に伝えた、私が主から受け継いだ、正しい主の晩餐のやり方はこうである。すなわち、イエスは引き渡される夜に、パンを取り、それを感謝して割き、「これはあなた方のための私の身体である。私の記念として、これを行ないつづけなさい」と言われた。杯についても同様に、「この杯は私の血による新しい契約である。あなた方はこれを飲む度に、私の記念として、これを行ないつづけなさい」と言われた。すなわち、このパンを食べ、この杯を飲む度に、あなた方は主の死を宣べ伝えているのである。そして主の到来の時までこれを行ないつづけるのである。
 だから、ふさわしい仕方で(つまり、集会場で夕食を食べて酔っているような状態で)主のパンを食し、主の杯を飲む者は、主の身体と血に関して責任がある。みな各々自分の心を検証すべきであって、心をよく整えてからパンを食べ、杯を飲まなければならない。そうしないならば、自分自身に対する裁きを食べたり飲んだりしていることになるのである。それ故、あなた方の間では、多くの者が(霊的に)弱く、病気で、かなりの人数の者が(霊的に)死んでいるのである。きちんと心を整えていれば、裁かれることはなかっただろうに・・・。しかし、こうした裁きを受けるのは、(最終的に)我々が世と共に断罪されることのないように、主が懲らしめ下さっている、ということを示している。
 だから、我が兄弟たちよ、主の晩餐の時に集う時は、各自自分の家で夕食を食べてきなさい。もう裁きを受けるために集うことのないように。その他の(細かい)ことについては、私がそちらに行った時に指示を与えることにしよう。

第十二章
 次に、霊の賜物(異言)について話すことにしたい。あなた方がまだ異邦人であった時、生きていない偶像のもとに引き寄せられていたということを憶えておいでだろう。だから知らしめる。神の霊によって語る者は誰も「イエスは呪われよ」などと言うことはできない。あるいは聖霊によって語るのでなければ、誰も「イエスは主なり」と言うことはできないのである。
 恵みの賜物には様々なものがある。しかし、霊は同一である。奉仕の仕事も様々なものがある。しかし、主は同一である。力の作用にも様々なものがある。しかし、神は同一である。つまり、それぞれが様々な霊の顕れとして配られているが、その全てを同一の霊が行なっているのである。ある者には知恵の言葉が、ある者には知識の言葉が、ある者には力の作用が、ある者には預言が、ある者には霊の判別が、ある者には異言が、ある者には異言を解釈する能力が与えられているのである。
 例えていうならば、身体は一つであっても多くの肢体を持っているように、キリストも同様なのである。というのは、我々はみな一つの霊によって一つの身体になるために洗礼を受けた。ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つの霊を飲んだのだ。
 実に身体には多くの肢体がある。だから、もしも足が、私は手ではないから身体の一部でない、と言っても、足も身体の一部であることに変わりはない。もしも耳が、私は眼ではないから身体の一部ではない、と言っても、耳も身体の一部であることに変わりはない。すべてが眼であったら、どこで聞くのか。すべてが聞くことであったら、どこで臭いをかぐのか。神は肢体の一つ一つを、そのお考えのままに、身体の中に配置されたのだ。だから、肢体は多くても、身体は一つなのである。眼は手に対して、あなたは必要ない、などと言えないし、頭も足に対して、あなたは必要ない、などと言えない。むしろ、身体の中のより弱いと思われている肢体こそ、必要な肢体なのである。また身体の中の無価値に思える肢体にこそ、我々はますます価値を付与する。教会の中で格好悪く見える人こそ、実はより良い姿を持っているものだ。格好の良い部分は、わざわざ価値を付与する必要はないではないか。神は劣っているように見える部分に価値を与えて、身体を一体化させているのである。それは、身体の中で分裂が生じたりしないようにするためであり、また互いが同じような気遣いを受けるためである。だから、一つの肢体が苦しめば、すべての肢体が共に苦しむし、一つの肢体に栄光が与えられれば、全ての肢体が共に喜ぶのである。
 あなた方はキリストの身体である。そして一人一人がその肢体なのだ。したがって、神は教会の中のある者たちを、まず第一に使徒とし、第二に預言者、第三に教師、それから力ある業、治療の賜物、援助、舵取り人、異言とした。みなが使徒であろうか。みなが預言者であろうか。みなが教師であろうか。・・・それぞれより大きい賜物(霊的な特権)を熱心に求めていきなさい。

第十三章
 霊の賜物(異言)を求めるのもいいが、更に優れた道を教えよう。
 人間の舌で私が語るとしても、あるいは天使の舌で語るとしても、愛を持っていなければ、鳴りひびく鉢か、騒がしいシンバルとなってしまう。また、私が預言の賜物を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じており、あるいは山を移すほどの信仰を持っていたとしても、愛を持っていなければ、何の意味もない。あるいは自分の全財産を人に提供し、自分の身体を焼かれるために死に渡そうとも、愛を持っていなければ、だれも救えない。
 愛は辛抱強く、親切である。愛は妬まず、自慢せず、高ぶらず、無礼でなく、我を張らず、挑発せず、悪を数え上げず、不義を喜ばないで、真実と共に喜ぶ。全ての罪を覆い、全てを信じ、全てを希望し、全てを忍耐する。
 愛は決してなくならない。預言はいずれ廃され、異言もいずれ廃され、知識もいずれ廃される。我々が認識しているのは部分的なものでしかないから、我々が預言することも部分的なものでしかないのである。将来より完全なものが到来した時には、そういった部分的なものは廃されるのである。幼児であった時には幼児のような話し方をし、幼児のように考えるものだ。だが大人となってからは、幼児のようなやり方を止めるのだ。すなわち、今は鏡を通してぼんやりとしたものを見ているに過ぎないが、将来、もっとくっきりと見ることができるようになる。私はまだ真理を部分的にしか知らないわけだが、将来(天に昇れば、)自分が神から正確に見られているように、私も神を直視することができるようになるのだ。
 しかし、信仰と希望と愛、この三つだけは永遠に残る。このうち最も重要なのは愛である。

第十四章
 だから愛を追い求めよ。霊の賜物(異言)を熱心に求めるのもいいが、むしろ預言の賜物を求める方がいい。何故なら、異言を語る人は神に向かって話しているのであって、人間に対して話しているわけではないからである。異言を話す人はただ霊に対して秘義を語っているのであり、それを理解できる人がいないならあまり意味がない。それに対し、預言する人は人々の信仰を築き上げる呼びかけをする。だから、異言を語る人は自分を励ますのだが、預言する人は教会を励ますのである。もちろん全ての人が異言を語れる方がいいが、預言してくれる方がもっといい。預言する人の方が異言を語る人より優れている。異言はそれを解釈する人がいる場合に限って優れている。
 兄弟たちよ、もしも私があなた方のところへ行ったとしても、異言で語るだけなら、何の役に立てるのか。啓示や知識や預言や教えをもって語るのでなければ、何の役にも立たない。命のない楽器でさえ、音階がはっきり出なければ曲にならないではないか。またラッパだって不明瞭な音ならだれも戦闘準備をしないではないか。さらに世界にはたくさんの言語があるけれども、その言語の意味が分からなければ、空に話しているのと同じではないか。だから、霊の賜物を熱心に求めるのは素晴らしいことだが、教会を築き上げることを目的として求めていかなければならないのである。
 というわけだから、異言を語る人は、自分でそれを解説できるように祈りなさい。たとえ私が異言で祈ったとしても、霊は高揚しても理性は何も満たされない。そういう場合は、霊によって祈ると同時に、理性によって翻訳すればいい。また霊によって歌うと同時に、理性も働かせて歌えばいい。あなたが霊によって祝福を述べても、一般人があなたの言っている意味が分からないとしたら、その人は何に対してアーメンと言うことができようか。それでは相手は全く築き上がることはない。という私自身は、感謝すべきことにあなた方の多くよりも異言を語るのが上手であるが、しかし教会では異言を一万語語るよりも理性的な言葉を五つ語ることの方を好む。そうすれば他の人々を教えることができるからである。
 兄弟たちよ、理性の点で子供であってはならない。悪の点では赤子のままでいいが、理性の点では大人となれ。律法にも「私は異なった言語を話す者たちによって、この民に語りかけるが、彼らは私の言葉に耳を傾けない、と主は言われる」と書いてある。だから、異言は信者のためではなく、非信者のための徴なのである。それに対し、預言は非信者のためではなく、信者のための徴なのだ。考えてみなさい、教会全体が一つの場所に集って、みなが異言を語っているのを非信者や一般人が見たら、気が狂っていると思うに違いない。しかし、みなが預言を語っているなら、それを見る非信者や一般人の心はただされ、批判を受け、心の奥底に隠れたものが暴露され、それによってひれ伏して神を崇拝し、「本当に神はあなた方の間にいる」と告げることだろう。
 兄弟たちよ、ではどうすればいいかお分かりか。あなた方は集う時に、それぞれが讃美歌、教え、啓示、異言、解釈を持ってくるが、それらは全て教会を築き上げるために用いられるべきということだ。もしも異言を語るのであれば、せいぜい二、三人にして、かつ交代に誰か一人が解釈するがよい。もしも解釈できる人がいないのであれば、教会では黙っていて、家に帰ってから自分一人で神に対して語ればいい。また預言する人も二、三人にとどめ、他の者たちはそれを黙って判断すべきである。そして、もしも座っている他の者に啓示が降りたなら、最初の人は黙って譲りなさい。あなた方全員が預言することができるのだから、みんなが学んで、みんなが励まされた方がいい。それに預言者の霊は預言者自身によって制御されるべきものなのである。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからである。聖者たち全ての教会でそのようにするように。
 また女は教会では黙っているがよい。女が発言することは許されていない。女は従属しているべきだということは、律法にも書いてあるではないか。もしも学びたいことがあるなら、家で自分の夫に聞きなさい。女が教会で語ったりするのは、恥ずべきことなのである。
 それとも、あなた方から神の言葉が全て出て来たとでも言うのか。いいや、違う。ならば、自分は預言者であり、霊的な人だと思う者がいるなら、その人は私が書いたことを認めるべきである。それは主の掟だからである。しかし、それを無視する者は、神の預言者とは言えない。したがって、兄弟たちよ、預言することを求めつつ、異言を禁じてもいけない。それでも一切が行儀良く、秩序正しく行なわれるべきである。

第十五章
 兄弟たちよ、あなた方に福音を知らしめる。あなた方にすでに伝えた福音を。あなた方がすでに受け取った福音を。あなた方も守っていた福音を。あなた方が救われることになる福音を。私はいかなる言葉によってあなた方に福音を伝えたか、あなた方が無駄に信じなかったのであれば、憶えているはずだ。
 第一に、私は自分が受け取ったことをあなた方に伝えたのである。すなわち、キリストは聖書に従って、我らの罪のために亡くなり、葬られた。そして聖書に従って三日目に復活した。その後ケパ(ペテロ)に現れ、次いで十二使徒に現れ、その後五百人以上の兄弟たちの前に現れた。その中にいた多くの者は現在もまだ生きている。何人か亡くなった者もいるが。それからヤコブに現れ、次で全ての使徒に現れた。全ての最後に、生れそこないのような私に対しても現れた。
 私は使徒たちの中で最も小さな者であって、使徒と呼ばれるに値しない者である。かつて神の教会を迫害したのだから。ただ神の恵みによって今の私の立場を得ている。私に注がれた神の恵みは無駄ではなかった。他の使徒たちの誰よりも私は労苦したからだ。いや、私が働いたというより、私と共にある神の恵みが働いたのであるが。だから、私であろうと、他の使徒たちであろうと、ただ神の恵みの故に宣べ伝えてきたのである。それをあなた方は信じてくれたのだ。
 さて、今話したように、キリストは死人になった後に復活したと宣べ伝えられているのに、あなた方の中に「死人の復活など起こらない」と言う人がいるというのは、一体どういうわけか。死人からの復活が起こらないとすれば、キリストも復活しなかったことになるではないか。それが真実なら、我々は神の偽証者ということになってしまう。キリストが復活しなかったとすれば、あなた方の信仰は空しく、あなた方はいまだに罪のうちに留まっていることになってしまう。だとしたら、キリストのために死んでいった者たちも滅んでしまったことになってしまう。我々がキリストに託した希望が今ある命だけだとしたら、(キリストの故にこんなに労苦してきた)我々はどんな人々よりも哀れである!
 だが、キリストは死んでいった者たちの初穂として最初に甦らされたのである。一人の人間(アダムの罪)によって全ての人が死ぬようになったように、一人の人間(イエスの忠誠)によって全ての人が生かされるのである。それ故、それぞれが自分の順番に応じて復活してくるのだ。初穂がキリストであり、次いでキリスト者がキリストの臨在の時に。次いで終末が来る。その時キリストは、あらゆる支配と権威と力を無効にして、支配権を父なる神に返還する。全ての敵がキリストの足下に置かれるまでは、キリストが支配しなければならないのである。最後の敵として残るのは、死であり、その死は必ず滅びる。「一切を彼の足下に服せしめた」と書かれてあるとおりである。すなわち、一切を服せしめた、と言う時、一切をキリストに服せしめた神はその中に入らないのは明らかである。だから、一切をキリストに服せしめた時に、御子自身も神に服するのである。こうして、神が一切の支配者となる。
 だとすれば、死ぬために洗礼を受ける我々は、一体何をしていることになるのか。そもそも死者が復活しないのだとすれば、何故死ぬために洗礼を受ける必要があるのか。我々はいつも命の危険を冒して生きなければならないのか。兄弟たちよ、我らの主キリスト・イエスにかけて言うが、私は日々死にかけているのだ。私がエフェソスで獣と戦ったのが肉的な戦いであったとしたら、私にとって何の意味があるのか。もしも死人が復活しないのであれば、「我々は明日死ぬかもしれないから、今日一日を楽しんで生きればいい」という生き方になってしまう。間違ってはいけない、悪い付き合いが良い習慣を駄目にするのだ。罪を習わしとせず、正気に戻れ!神について無知な者がおいでになるが、恥を知るがよい。
 だが、「ではどのようにして死人が復活するのか、どういう身体で来るのか」と言う者がいるようだ。道理を知らぬ人だ・・・。あなたが蒔く種は、種として死ななければ芽を出すことはできないではないか。あなたが種を蒔くときに、成長したものを植えるのではなく、丸裸の種を蒔く。(その種は張り裂けて死に、)そこに神が望まれた形の身体が新たに与えられて芽となるのである。しかもそれぞれの種独自の身体を。だから、全ての肉がみな同じ身体を持っているのではないのだ。すなわち、人間の身体、家畜の身体、鳥の身体、魚の身体、どれも異なる。同様に天界の身体と地上界の身体があるのである。さらに天界の輝きと地上界の輝きは違う。太陽の輝きと、月の輝きと、星の輝きはどれも異なるのと同様に、星はそれぞれ異なった輝きをもっているのだ。
 したがって、死人の復活も同様である。朽ちる身体によって蒔かれ、朽ちない身体で甦らされる。尊厳のない身体で蒔かれ、栄光ある身体で甦らされる。弱い身体で蒔かれ、強い身体で甦らされる。肉の身体で蒔かれ、霊の身体で甦らされるのである。肉の身体があるなら、霊の身体もあるのだ。最初の人間「アダムは生きた生命(肉の身体)となった」と書いてあるように、最後のアダム(イエス)は生きた霊となったのだ。さらに、最初に肉的な生命があって、次に霊者が地上に来たのである。最初の人(アダム)は大地から生まれたので地的だが、第二の人(イエス)は天からやって来たから天的なのである。したがって、地的な人と同じ身体を持つ我々は、次に天的な者と同じ身体を持つようになるのである。兄弟たちよ、肉と血は神の国を受け継ぐことはできないのだ。朽ちるものが朽ちぬものを受け継ぐということはあり得ないからだ。
 見よ、秘義をあなた方に告げよう。我々全員が死ぬわけではないのだ。しかし、みな変えられる。瞬時に、一瞬で、最後のラッパが鳴る時に。すなわち、ラッパの音が響き渡ると、死者たちは朽ちぬ身体で復活するが、生き残った我々は朽ちぬ身体へと変えられるのだ。つまり、朽ちぬ身体が(死を経験しないで)朽ちぬ不滅の身体に(一瞬で)着替える時、「死は勝利に呑み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか、死よ、お前の刺はどこにあるのか」という御言葉が成就するのだ。
 死の刺とは罪のことである。そして罪の力(人間を罪と宣告していた力)は律法のことである。我らの主イエス・キリストによって、これらのものから我らに勝利を与えて下さる神に感謝!であるから、我が愛する兄弟たちよ、しっかり立って、揺らいだりしていけない。あなた方の労苦は主にあって空しいものではいと確信して、常に主の業に邁進するがよい。

第十六章
 (エルサレム教会の)聖者たちに対する寄付については、ガラティアの諸教会に命じておいたのと同様になすがよい。週のはじめの日ごとに、自分の都合に応じて寄付しなさい。くれぐれも、私がそちらへ行ってから寄付を開始するなどということがないように。私がそちらへ着いたら、保証人たちに手紙を持たせてエルサレムまで送り出すことにしよう。私も一緒に行った方がいいなら、私も彼らと一緒に行く。
 マケドニアを通った後に、あなた方のところへ行くことにする。つまり、マケドニアは通るだけで、多分あなた方のところに滞在することになろう。あるいは冬を越すかもしれない。そうなれば、私が次にどこに行くとしても、あなた方に見送ってもらうことになる。というのは、あなた方に今の(仕事の)途中で会いたくない。主が許されるなら、あなた方のところに一定期間滞在したいと思っている。だからペンテコステまではエフェソスに留まる予定だ。何故なら、今、大きく力強い扉が私に開いているからである。その分、敵対者も多いのだが。
 テモテがそちらに到着したら、あなた方のところで心配せず滞在できるよう、配慮しなさい。彼も私と同様に主の仕事をなしているのだから、彼を軽んじたりしないように。彼が私のもとに戻って来れるよう、平安のうちに送り返しなさい。私は兄弟たちと共に彼の帰りを待っている。兄弟アポロについては、兄弟たちと共にあなた方のもとに行くようにと、何度も声をかけたのだが、今は全く行く気がないようだ。機会があれば、行くだろう。
 目覚めていよ。信仰のうちに立て。男らしくあれ。力強くあれ。全ての事が愛によってもなされるように。
 兄弟たちよ、あなた方に呼びかける。ステファナスの家を御存じだろう。彼らはアカヤの初穂である。彼らは聖者たちに奉仕する仕事を引き受けてくれた。あなた方もこういった人々に仕えるがよい。また共に働き、労苦している全ての人々にも仕えるがよい。ステファナスとフォルトゥナトスとアカイコスがいることを私は喜んでいる。彼らはあなた方の欠けたところを満たしてくれた。また私の霊を安んじさせてくれた。あなた方の霊をも。こういう人たちこそよく評価しなさい。
 あなた方に、アジアの諸教会が挨拶している。アキラとプリスカが彼らの家の教会と共に、主にあって盛大に挨拶している。全ての兄弟たちが挨拶している。聖なる口づけをもって、互いに挨拶しなさい。
 最後に、パウロが自分の手で挨拶を記す。”主を愛さない者がいるなら、呪われよ。マラナタ(我らの主は来られる)。主イエスの恵みがあなた方と共にあるように。私の愛もまた、キリスト・イエスにあってあなた方一同と共にあるように。”

概要
パウロが第三回宣教旅行中エフェソスでコリント教会へ向けて書いた手紙。55/56年。

第一章
パウロとソステネスからコリント教会への手紙。全てのキリスト者へ向けて書かれているので諸教会への公開文書だろう。パウロが口述したものをソステネスが筆記したのかもしれない。クロエーの家の者による報告によれば、コリント教会では分派争いが生じていた。そこでパウロが愛によって一致するよう呼びかけるのがこの手紙の主題である。そこでパウロは何度も人間を誇らず神を誇るよう訴える。まず、人々にとってキリストの十字架の話は、ギリシャ哲学などの人間的な知恵ある言葉に比べると、愚かな話に思えるという点を指摘する。しかし、それは此の世的に弱く貧しい人々を高め、此の世的に賢く富む人々を低めるための神の方法であった。こうして一切の者が神だけを誇るようにされたのである。

第二章
パウロはコリント人へ伝道する際、十字架にかけられたイエス・キリスト以外には何も話さず、人間的な知恵の論議によって説得はしなかった。むしろ、聖霊の働きを示すよう徹した。それは彼らが聖書に通じておらず、聖書に秘められた神の知恵を認識する力がまだなかったからである。一方、霊的に成熟した者たちには聖書に秘められた神の知恵を語ることができる。霊的な人は聖霊に導かれつつ、それを霊的な言葉である聖書と照らし合わせて、神の知恵を学ぶ。実のところ、神のことは神の霊によってしか知り得ないからである。

第三章
しかし、コリント教会の人々は霊的に成熟しているとは言い難かった。彼らの中で分派争いが見られたからである。そこでパウロは、人間の奉仕者は教会を世話するための同労者に過ぎず、実際に教会を成長させるのは神御自身であることを思い起こさせる。しかし、教会を立派に建てるためには、各人が霊的に賢くある必要がある。パウロがキリストという信仰の土台を霊的に賢い仕方で据えたように、その土台の上に教会という建物を建てる各成員も、主の日(終末)に耐え得る信仰をもって建てなければならない。そのために人間的な見方や知恵を捨て去り、聖書から学んで神の知恵に精通し、神のみを誇って霊的に一致しなければならない。他方、教会の中に神の霊が住んでいるので、それを打ち壊そうとする迫害勢力もまた滅びる結果となる。

第四章
パウロ、つまり使徒は、神の秘義の管理人(家令)である。何故なら、コリント教会の成員は使徒パウロから信仰の土台となる部分を学んだからであり、いわばパウロはコリント教会にとって霊的な父親であったからである。しかし、人間にとって愚かな神の知恵を語る使徒たちは、此の世的に賢い人々によってくずのように見なされている。けれども、霊的な子は父親たる使徒パウロに見倣わなければならない。パウロは自分が諸教会で教えている指示を与えるために、また恐らくこの手紙を届けるために、テモテをコリント教会へ遣わそうとする。しかし、実際にはコリント教会からの報告はテトスからもたらされたので、恐らくテモテのこの訪問は短期間であった。

第五章
淫行者の処罰について。コリント教会では淫行者が正しく審理されなかったために、裁判沙汰に至りかねない事件へと発展していた(6章)。パウロはこの審理問題を自ら裁き、その淫行者を教会から追放するよう命じる。それは教会を清く保ち、彼らが主の日に救われるためである。少しの腐敗を放っておくと、教会全体に飛び火するからである。またパウロは以前にもコリント教会へ手紙を送っていたことを明らかにしている。クリスチャンは外部の者を裁く権限はないし、此の世の人々と接することを避けるべきでもないが、教会内部の問題を裁く務めがあり、不道徳な兄弟とは交わることを避けるべきである。

第六章
コリント教会で実際に裁判沙汰になったかどうかは不明であるが、パウロは教会内部の問題は裁判沙汰にするのではなく、教会内部で正しく裁かれるべきであると告げる。何故なら、クリスチャンは天へ復活した後王なる祭司となり、地球全体を裁くことになっているので、日常的な事柄を正しく審理できないようではいけないからである。淫行を為す者は、不義な者は神の国を受け継がないということを思い起こす必要がある。また、肉的な身体は主イエスの贖いという尊い代価を払って買い取られたものであり、今やキリストの身体の肢体として各々が聖霊を受けているが故に、自分の身体を淫行に差し出すことは自分の身体を傷つける罪となる。

第七章
結婚について。パウロは淫行がはびこっている故に結婚することを譲歩しつつも、自制できるなら独身を保つことを勧めている。一方、すでに結婚している人については、主御自身の命令として離婚してはならない。しかし、パウロ個人の意見として、非信者の配偶者が離婚を求めるなら別れてもよいが、それでも配偶者を救えるよう努めるべきである。したがって、パウロは、独身であれ、既婚者であれ、割礼者であれ、奴隷であれ、信仰に召された時の状態を保つのがよいと考えている。独身者については、主ではなくパウロの使徒としての意見であるが、定めの時(主の日)が近い故に、また主のことだけに思いを集中させるために、独身を保つ方がよい。とはいえ、結婚は罪ではないので、結婚を禁ずるわけではない。さらに、配偶者が亡くなった場合は、主にある者と再婚する自由がある。

第八章
偶像に供えられた肉について。ギリシャ・ローマ文化では、一度偶像に供えられた肉が、普通に市場に売り出されていた。それについてどう判断すべきかパウロは論じる。パウロは神は唯一父のみで、主は唯一み子のみであると述べた後、それ以外は命のない偶像であると述べる。したがって、偶像に供えられたからといって肉そのものに霊が入り込んだり変化するわけではない。だからその肉を食べること自体は別に構わないのだが、そうした上辺の知識だけでは足りないと述べる。すなわち、クリスチャンは知識を愛によって用い、他の兄弟たちの良心に配慮すべきなのである。それ故、偶像に供えられた肉を食べる姿を見て、未熟な他の兄弟たちの良心が誤導されるような状況では食べないようにと命じる。この議論は第10章でも続く。
 
第九章
パウロは使徒として、信者たちに生活費を養ってもらう権利があると主張する。しかし、パウロは自らその権利に甘んじるのを放棄し、自活しながら宣教もした。それは、福音宣教によって生計を立てることが躓きの元となり、宣教の妨げとならないためである。さらに、宣教自体は義務であり、誇る理由とはならないが、それを自発的に行ない、且つ自活しながら無償で宣教するなら、神から報いを受けるべき誇る理由となるからである。パウロはそのようにして、あらゆる人々の心を勝ち得るために尽くしてきた。それはまさにスポーツ選手があらゆることに節制する時のような厳しい鍛錬である。しかし、スポーツ選手は朽ちる冠のために努力しているが、クリスチャンは朽ちない永遠の命という冠を目指して努力しているので、曖昧で、虚しい努力ではない。
 
第十章
イスラエル人が約束の地へ向かって荒野を旅した記録は、クリスチャンが学ぶべき予型であった。彼らは淫行を犯し、主を試み、つぶやき、その結果約束の地へと辿り着けなかった。クリスチャンはそこから学んで、彼らと同じように倒れないよう気をつけるべきである。神は耐えられないような試練をお与えになはならず、必ず出口を用意して下さる。それから第8章でなされた偶像に供えられた肉についての論議のつづき。知識を愛によって用い、他の人の良心に配慮すべきというのが第8章の結論であるが、ここではより具体的に指示される。パウロは、肉自体は何も変化しないという事実を指摘しつつ、しかし偶像の祭壇で交わることは悪霊を崇拝しているのと同じであることを指摘する。よって、神殿で儀式的に祭壇と交わるような行為を禁じる。ただし、市場で売られている肉については、何も尋ねずに買って食べてもよい。さらに非信者の家に招待された際には、何も聞かれなければそのまま食べてよいが、家の人がそれは偶像に供えられた肉だと言ってくれた場合には、家の人の良心に配慮して食べるのを控えるべきである。
 
第十一章
頭の権威について。創造の順序として、女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は神である。すなわち、アダム(男)から先に造られ、エバ(女)はアダムから取って造られたからである。しかし、主にあっては平等である。これは女が教会で権威を持つことを許可しているわけではなく(コリ一14章)、天で王なる祭司となる特権を平等に与えられているということであろう。しかし、パウロがここで一番言いたかったことは、ユダヤの習慣通りに、女は男の前で祈ったり預言したりする時はベールを被れということである。加えて、長髪は権威に対する服従を表わすベールの代わりであるので、男は長髪であってはならない。主の晩餐について。主の晩餐の執り行い方はルカ福音書の記述とほぼ一致している。コリント教会では集会場で飲み食いをする人々がいたが、パウロは主の晩餐の時は家で食事を済ませ、よく心を整えてから与らなければならないと命じる。
 
第十二章
霊の賜物について。恵みの賜物や奉仕の仕事やその働き方には様々なものがあるが、それらを全て同一霊、同一の主、同一の神が為している。つまり、キリストの身体は一つであっても、多くの肢体があるということである。それぞれの肢体はみんな必要であるので、他を排除しようとしてはいけない。実際には、目立たず無価値に見える肢体の方がより良い姿を持っているものだから、そのような肢体にこそ価値を付与するべきである。こうして、神は全ての肢体が分裂しないよう配慮されている。だから、誰かが苦しめば共に苦しみ、誰かが喜べば共に喜び合い、互いに一致しているべきである。
 
第十三章
霊の賜物を求めることは良いことだが、能力や特権よりも重要なのは愛である。どんな優れた能力や特権があろうとも、そこに愛がなければ無価値である。どんな知識も、預言も、異言も、将来より完全なものが到来した時に廃棄されるものであるが、信仰と希望と愛の三つだけは永遠に残る。このうち最も大切なのは愛である。
 
第十四章
コリント教会では集会中に互いがしゃしゃり出て混乱していた。パウロは霊の賜物を熱心に求めるとしても、異言よりも預言の賜物を求める方がよいと述べる。異言は非信者のための徴としてあるのであり、預言によって解釈されなければ信仰を建てることに貢献しないからである。一世紀の集会では、讃美歌が歌われ、聖書が教えられ、啓示や異言がなされ、その解釈がなされていた。異言は二、三人が交代に行ない、他の者は黙っており、女もしゃしゃり出るのをやめ、集会では一切が行儀良く、秩序正しく執り行なわれなければならないとパウロは呼びかける。
 
第十五章
コリント教会の一部の人は、天の身体への復活は起きないと主張していた。これに対しパウロは、初めに伝えた福音について思い起こさせ、復活が起きないとすれば、キリストも復活しなかったことになると反論する。また此の世の命だけが生命だとしたら、楽しみごとを犠牲にして、日々死にそうな目に遭っているのは無駄であると論ずる。さらに肉の身体は神の国を受け継がない、つまり新しい契約に与れないことを示す。パウロは地上の様々な生物があるように、肉的な身体と霊的な身体があると説明する。イエスは第二のアダムであり、それゆえイエスから生命を受ける者は天的な身体に復活されなければならない。パウロはこの手紙の時点では、自分が死ぬ前に終末が来ると信じており、死を経験せずに瞬時に霊的身体へと変化することを望んでいた。朽ちる人間が死んでから復活することではなく、死を経験せずに変化することこそ、死への勝利を意味する神の秘義であるというのがパウロの主張である。
 
第十六章
パウロはエルサレム教会の聖者たちへの寄付を求め、パウロ自身がコリントを再度訪問した際に金銭を受け取り、それをエルサレムへと運ぼうとした(寄付活動についてはコリ二8、9章へ)。そのために、ペンテコステまでエフェソスへ留まり、マケドニアを経由してコリントへ向かう旅行の計画をした。しかし、この計画は変更される(コリ二1章)。パウロはアポロにコリント教会へ行くよう呼びかけたが行く気がなかった。ステファナスとフォルトゥナトスとアカイコスはコリント教会の信者でパウロと共にエフェソスまで同行した奉仕者。アキラとプリスカも同様。最後にパウロの自筆で、マラナタ(我らの主よ、来て下さい)というアラム語を書いている。

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