形而上学について

形而上学とは、自然科学的な手法では証明不可能なものについて研究することである。

数学・論理学・自然科学以外の学問、哲学、思想、倫理はすべて形而上学を含む。しかし、数学・論理学・自然科学だけでは社会は成り立たない。形而上学こそが社会に価値の意味づけを提供する。

数学・論理学・自然科学はトートロジーであり、自然と認知との対応関係を「論理」によって提供するだけである。その対応関係を「事実」と呼ぶ。その事実に対して何らかの意味、価値、目的などを決めるのはすべて形而上学である。

主観的感覚(クオリア)については「共感」によってしか対応関係を示すことはできない。主観的感覚の伝達による共感は、それ自体は形而上学ではない。それは対応関係が示唆される間主観的事実である。その間主観的事実に何らかの意味、価値、目的を付与する時に形而上学となる。

意味、価値、目的といった主観的感覚による概念を共感し合えるなら問題は生じない。しかし、意味、価値、目的といった主観的感覚による概念を共感し合えない場合、主観的感覚を論理付け、論理的に納得し合う必要が出てくる。それゆえ形而上学の必要性が生じる。

主観的感覚は科学的手法では確かめられない対象である。だから主観的感覚を論理によって記述することは形而上学となるのである。形而上学の目的は主観的感覚に論理的根拠を提供することである。そうすることで曖昧な共感という手法に頼り切らずに、共通の理解(合意)に至ることを目標としている。

主観的感覚を冷静な論理によってではなく、好き嫌い、感情、欲情、巧みな話術などをもって共感させ、説得させようとすることをレトリック、修辞、弁論術、詭弁などと言う。これは形而上学ではない。

このようなレトリックな表現は、宗教、政治、倫理、芸術などで多用される。これらはカタルシスな共感によって感情を高揚させ、共同体の団結力を高める効果がある。

しかしその反面、共同体の外部への説得力を持たないし、共感しない個人に対しても説得力を持たない。それゆえ、レトリックではなく、論理的に主観的感覚について記述する必要がある。それが形而上学である。

勿論、これは共同体でなく、個人的な命題ともなる。自分でも自分の主観的感覚や概念や科学的客観的事実の意味、価値、目的は分からないからである。心は物質的対象のように目には見えないので、科学的手法では確かめられないため、論理によって記述することを試みるしかない。そこで形而上学が必要となる。

信仰、信念とは、何らかの形而上学的な見解を支持し、それを人生の指針とすることである。科学的な客観的事実、感覚的な主観的事実は、それ自体では信念とはならない(厳密には科学的前提には論理と物理現象の対応関係が成り立つことに対する信念が必要であるが)。信仰は意味、価値、目的といった形而上学を事実(または原理)と認めることである。

主観的感覚は目に見える物質ではないので、論理との対応関係がトートロジーかどうか確認できない。それゆえ、形而上学的見解は論理を用いるとはいえ証明や実証はできない。傍証に留まる。傍証の蓄積は一つの判断材料となるが、最終的にはその対応関係の論理的解釈が妥当かどうかは共感に頼るしかない。

ここまでで、主観的感覚について説得させるには、レトリックを用いる弁論術と、論理を用いる形而上学があることが分かる。またどちらも最終的には共感を用いるしかないことが分かる。それゆえ、普通これらは程度の差はあれ混合して用いられることが多く、そうすることで思想の説得力を高めようとする。

間違ってならないのは、科学的な客観的事実、感覚的な主観的事実は、どれだけ事実に関する知識が増しても、それ自体で意味、価値、目的は生成できないということである。それは事実を提供するだけであり、形而上学の資料とはなるが、それだけでは人生を意味付けるものとはならない。我々は何としても形而上学に取り組まざるを得ない。

また主観的感覚の論理的記述の妥当性は実証できないので、原理的にいかなる意味付けに対しても反抗が可能である。科学的に実証された事実(知識)に関しても、科学の大前提は主観的感覚の信念に基づくので、原理的に反抗が可能なのである。共同体の一般的に多数が共感を示すような事柄でも、原理的に反抗は可能である(ただし共同体に殺されかねない)。これは人間の自由の原理的な保証となる。

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