近似性について

主観と客観の二元論的前提はしばしば批判されてきた。我々は主観的にしか対象を見ることはできないと。

しかし、その前提の場合でさえ、主観世界の外部には不可知な領域が存在する二元論が前提されている。すなわち、主観と不可知なる客観が前提としてある。

そもそも、我々の見ている世界が主観だと述べるからには、対立項である客観も存在することを前提としている。客観のない主観というのは論理的には破綻しているからである。

だから、主観のみの世界を論じるには、客観はどこかに存在するが、我々には客観は不可知であるという条件を、客観性に付与する必要がある。

したがって、「主観的にしか見れない世界」を論じるということは、「認識が可能な主観世界」と「認識が不可能な客観世界」の二元論的な相関主義なのである。

しかし、ここで疑問に思うのは、本当に我々が主観的にしか世界を見れないのならば、如何にして我々は客観世界と接続(アクセス)できるのだろうか、ということである。全く相容れない水と油の関係ならば、関係性は結べないはずである。しかし、我々は認識可能な主観世界と認識不可能な客観世界の間のギャップをある程度までは予測することができ、妥当性や近似性というものを体感している。

果たして、この予測して妥当性や近似性を獲得しているという体感それ自体は主観的なものに過ぎないのだろうか。我々が客観世界と接続しているという感覚は錯覚に過ぎないのだろうか。

論理的には、認識可能な主観世界と認識不可能な客観世界の間を接続するには、何らかの中間的な媒介(メディア)が必要である。この媒介は、主観でも客観でもないものなのだから、両面性を有しているはずである。

媒介となり得るものの中には、情報、理法、身体が挙げられる。

・情報とは主観世界に訪れる通信可能な記号群である。これは言語と言われる。
・理法とは、情報を通信するためのプロトコルである。これは論理と言われる。
・身体とは、我々は意識や心も含めて不可知なる客観世界に埋没した状態で存在していることである。これは世界内存在と言われる。

すなわち、認識可能な主観世界は身体を通して認識不可能な客観世界に埋没した状態で接続している。また、情報を通して認識不可能な客観世界と通信を行なっているが、その通信を行うために理法を通して接続している。

したがって、「認識可能な主観世界」と「両面性を持つ媒介」と「認識不可能な客観世界」の三つの世界の相関関係と、「身体(世界内存在)」「情報(言語)」「理法(論理)」の三つの媒介(メディア)の相関関係が成立しなければ、相互の世界が接続(アクセス)されることはない。

しかし、我々は客観世界と一切接続しておらず、媒介は何も存在せず、ただ主観世界のみの中で活動している可能性はないか検討する必要がある。

まず、我々が主観世界のみで活動しているのならば、客観世界との接続はないので、主観世界を自由自在に操作できるはずである。また、認識と世界の間にいかなるパラドックスも見出せず、論理実証主義が通用するはずである。しかし、我々は意識を失うことで世界との接続を切断することは自在にできても、主観世界を夢のように自在に操作することはできない。我々は主観世界と客観世界のギャップを絶えず反復的に調整しつつ活動する他ないのである。

確かに、我々の主観世界からは全く接続さえ不可能な客観世界の領域(超越世界)が存在する可能性自体は否定できない。その可能性は、媒介(身体、情報、理法)の有するパラドックスと接続されるからである。同様に、論理実証主義では客観世界全体は語り得ないからである。しかし、超越世界の存在は絶対的に不可知なので、パラドックスはその"可能性"と接続しているに留まる。したがって、パラドックスは超越世界の可能性を示す第四の媒介(メディア)とも言える。

したがって、我々が主観世界のみで活動しているというのは論理にも経験にも即していない。

新たな項が追加されたのでもう一度整理すると、「認識可能な主観世界」と「両面性を持つ媒介」と「認識不可能だが接続可能な客観世界」と「認識不可能かつ接続不可能な客観世界(超越世界)の可能性」の四つの世界の相関関係と、「身体(世界内存在)」「情報(言語)」「理法(論理)」「パラドックス」の四つの媒介(メディア)の相関関係が成立しなければ、相互の世界が接続(アクセス)されることはない、と言える。

我々はこうして媒介を通して相互に世界と接続することで、主観世界と客観世界の間を予測し、妥当性や近似性というものを獲得しているのである。しかし、同時に、媒介が有する両面性は、我々が主観世界を脱して媒介(身体、情報、理法、パラドックス)自体とならない限り、主客一体に至れる可能性をも否定する。

私は、この四つの世界と四つの媒介の相関と接続関係の構造全体を、ホーリズム的な「実在」と呼ぶ。また要素に分節した対象を「存在」と呼ぶ。ホーリズム(全体論)とは、全体を要素の加算的集合体として捉えるのではなく、各要素を分離不可能な全体と捉える見方のことである。


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