魂の選別の時代の再来

人類は誰のために努力しているのだろう。新たな可能性を開き、社会を良くするためか。自分たちはその恩恵に決して預かることはないのに。未来の子孫たちのためか。

未来の子孫たちのために利他的奉仕をする。個人は社会貢献して無に帰るべし。これが労働の理念の核にある。

社会貢献に幸福を感じる魂は幸いである。社会貢献に幸福を感じない魂は不幸である。これが魂の選別である、と。

個は無に帰すならば、社会のために生きる以外に生きる意味はない、という論理は正論である。ゆえに、社会貢献に幸福を求める魂に生まれなかったなら、人生に幸福を感じることは決してないだろうから、そのような魂に生まれて来なかったこと(利己的な魂に生まれてきたこと)は人生の敗北である。

数千年、人類はこの理念によって文明を築き民の労働力によって繁栄してきた(利己的な人をも文明社会に取り込むために死後の世界と裁きの観念を導入したのである)。しかし、19世紀頃からこの理念は崩壊したのである。そしてその崩壊は加速している。それによって人間は元々利己的な生物だということになり、人生の意味は消失したのだ。

そして、民は利己的だけど文明は繁栄する仕組みとして資本主義が発明された。これは初めから歪んだ理念なのである。そしてこの歪んだ理念も再び限界に近づいている。

だから資本主義の限界と崩壊の先に訪れるのは、再び魂の選別の時代なのであろう。そこでは、人間の生物としての利他性が見直され、社会貢献に幸福を感じる魂と感じない魂が選別される。そして感じない魂は文明社会から排除または疎外されることになる。

ところで、私は社会貢献したいという強い気持ちが今いち湧かないから、生きる意味も意欲も湧かない。私は選民(人間)ではないのだろうか。この先どのように生きたら良いのだろうかと真剣に悩んでいる。自分のために生きても意味はないのだから。


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