岡本太郎

岡本太郎 1911-1996

神奈川県橘樹郡高津村(神奈川県川崎市高津区二子)出身
父:岡本一平(漫画家)
母:かの子(歌人、小説家)

父は有名人だが浪費家だった
母お嬢様育ちだが、母は愛人を家に住まわせる

1917(6歳)
東京青山の青南小学校に入学するが一学期で退学
その後も転校を繰り返す
勉強は最下位だった
絵が好き
中学から「何のために描くのか」と悩む

1929年(18歳)
東京美術学校入学

1930年(19歳)
ロンドンへ(親子三人と母の愛人と共に)

1930年1月(19歳)
パリに到着
以後10年間ここで過ごす
リセの寄宿舎で生活

1932年頃(21歳)
パリ大学で美学を学ぶ
両親は帰国する。母親とはこれが最後の別れとなった
パブロ・ピカソの『水差しと果物鉢』を見て強い衝撃を受け、ピカソを超える芸術家になることを決意する

1936年(25歳)
後にこのジョルジュ・バタイユとの出会いが一生を変えたと供述
バタイユを中心に組織された秘密結社に参加

1938年頃(27歳)
マルセル・モース(『贈与論』1924)の下で民俗学を学ぶ

1940年(29歳)
ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する

1942年(31歳)
兵役され、陸軍兵として中国に出兵

1945年(34歳)
太平洋戦争終結、中国から日本に帰国
自宅と作品は消失していた
東京都世田谷区野毛にアトリエを構え、制作に励む

1947年(36歳)
「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言する
新しい芸術=アバンギャルド芸術(前衛芸術)

1948年(41歳)
花田清輝(作家)らと共に「夜の会」を結成
埴谷雄高(思想家)、安部公房(小説家)も参加
ここで岡本敏子と出会い、彼女は太郎の秘書となり、事実婚となり、後に太郎の養女となった

1950年代~
テレビ番組に多数出演しはじめる

1951年(43歳)
東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける

1954年(46歳)
東京都港区青山に自宅兼アトリエを建てて拠点とする
光文社社長から”中学二年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ”と依頼され、

今日の芸術』を出版し、ベストセラーとなる
…芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説く

1960年代後半
メキシコに滞在する
現地のホテル経営者から壁画制作の依頼を受ける→『明日の神話

明日の神話』(1968-1969)
第五福竜丸(アメリカの水爆実験に被爆した漁船)が被爆した際の水際の炸裂の瞬間がモチーフ
メキシコで制作されたが長年行方不明で、2003年に発見されて、2018年から東京都渋谷駅に設置された

1970年(62歳)
大阪で万国博覧会が開催
岡本は『太陽の塔』をプロデュースする
科学技術による調和や進歩に疑念を抱き、建築家の丹下建三が建てた屋根を突き破る案を出した

太陽の塔』(1970)
高さ70メートル
塔の内部は「生命の樹」という生物進化がモチーフ

1970年代以降
テレビ番組に多数出演
芸術は爆発だ」「何だ、これは!?」というフレーズが流行語になる

1996年(84歳)
パーキンソン病による急性呼吸不全により死去
本人の意志を尊重して葬式は上げなかった

1998年
青山の岡本の住居兼アトリエが「岡本太郎記念館」として公開

1999年
川崎市岡本太郎美術館」が開館

2003年
メキシコで行方不明となっていた『明日の神話』が発見された


岡本太郎の芸術論
・芸術は新しくなければならない
・対極主義…対立するものを対立したまま緊張感を保たせ、ぶつけて戦わせる
・新しい芸術の三原則…上手くあってはならない、きれいであってはならない、心地よくあってはならない

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