哲学のプラグマティズム宣言

論理と現象を信用せずにしていかなる妥当性を措定できるか。不可能である。

この信用は生活上の行動における信用であり、真理としての信用ではない。

妥当性の追求は生活上の行動の精度を高めることを目指すものであって、これも真理としての信用ではない。

形而上学の真理としての妥当性は不可知である。なぜなら、それは直観以上のものではなく、証明も再現も不可能だからである。論理と現象が真理として何を意味するのかは不明なのである。

形而上学については可能性としてのみ記述できる。したがって、哲学は思弁的な可能性の描出と拡張が目的であり、形而上学の真理としての措定は目的ではない。

哲学は論理的な可能性は存在するという生活上の信用に基づいているのであり、実在として可能性がどのように存在するかは不可知なのである。


一方、神学は信仰(ある前提に対する真理としての信頼)に関わる哲学的説明の試みである。

しかし、哲学は思弁的な可能性の描出が目的なので、信仰と哲学を接続する以上、信仰も形而上学の数だけ説明可能である。

だから、どの哲学的説明がその信仰の前提の正しい説明に相当するのかは断定できない。

また、信仰それ自体の確実性には何の根拠もなく、どれも真理としては肯定も否定もできない。

信仰は主に倫理的な措定のために要請されるものである。したがって、信仰は共同体の秩序の安定のために不可欠である。

論理的には倫理は形而上学に相当するので相対的なものとして扱わざるを得ない。したがって、現実社会では倫理は非論理的な欲動的な力または権力によって措定されている。したがって信仰や倫理は目的を持った権力である。

学問さえも、妥当性の措定を目的として論理と現象を信用する権力である。しかし、学問は自らの前提をも相対化する点で形而上学的な信仰とは異なる。


したがって、学問は生活上の行動の妥当性を措定するために論理と現象を信用するものである。そのうち、哲学は論理的に形而上学の可能性を措定し、これを拡張する。自然科学は論理的に現象の妥当性を措定する。信仰はある前提に対する真理としての信頼であり、主に倫理的な措定のために要請されるが、実際には欲動的な力と権力により行使される。神学は信仰の哲学的な説明の試みである。


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