私の「神の存在証明」



「彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。ローマ1:21


あらゆる思考や感覚を疑っても、何かが存在する。これを否定することはできない。しかし、いかなる思考も「〜かもしれない」という存在可能性が残る。この存在に関する偶然性の絶対性は超越的推論である。裏を返せば、これは絶対的な自由な対象(他者)でもある。

しかし、我々は絶対的に自由な対象が秩序と安定を保っていることを無条件に信頼している。だからこそ、我々は論理的・経験的な推論や行動が可能なのである。次の瞬間に世界そのものの法則や構造が変わってしまうなら、我々は日常生活すらままならないはずだからである。

では、この絶対的な偶然性なる対象が、秩序や安定を保っていることに対する無条件の信頼は、何を意味するのか。いかなる思考も絶対的な偶然性なる対象であることを知るのは存在の事実的な推論である。しかし、これがこれまでも、これから先も、秩序や安定を保っているということに対する信頼は希望的な推論である。この希望的な信頼は対象の善性(当為)に対する信頼に相当する。すなわち対象の人格化に相当する。それゆえ、存在本性的に絶対的に偶然かつ自由な対象が、秩序という"意志"や"行為"を示すことに対する無条件の信頼とは、人格的な神への信仰と同質である。だから我々はみな、自覚しようと無自覚だろうと、潜在的に人格神を信仰しているのである。この信仰による前提なくして、いかなる論理的・経験的な推論の正当性は成り立たないからである。

想定できる批判としては、この潜在的な人格神への信仰は、神の存在証明ではなく、信仰証明であり、我々が世界を認識する自分自身を信じていること、もしくは人格神を想像することなくして世界を認識し得ないことの証明にしかならない、という批判である。しかし、存在の本性的な人格神が我々の想像に過ぎないのであれば、他のあらゆる存在も想像でしかなくなるが、それは最初の"何かが存在する"という直観的推論に反するため否定される。存在は外在への信仰と不可分であり、信仰証明は存在証明と不可分なのである。

だから、人格神(の存在とその善性)を否定することは、自らが神を信仰していることを意識的に否定する行為なのであり、それは論理的な誤りであり、事実に対する意図的な嘘であり、自己と人格的他者の関係性における不正(罪)なのである。そして、そうした罪は本源的な対象(神)以外の対象(偶像)への固着、または虚無主義(ニヒリズム)へと誘われる。しかし、神を否定するいかなる信念や観念も、潜在的な神への信仰を否定することはできない。

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