幸福論


一定数好かれても一定数嫌われる。人気があろうがなかろうが数に比例する。だから人気によって人は幸福にはならない。むしろ人気になるほど過激な好意と過激な悪意に晒される。過激な悪意を過激な好意で相対化できると思ったらそうでもない。

だからまずは数を求めないこと、次いで承認欲求そのものを捨てるか、人の悪意に鈍感になる(見ないようにする)他ない。しかし、人間は社会的動物だから承認欲求を捨てることはできない。

好意と嫌悪の比率はある程度は努力で変えられる。しかし、より多くの比率の人に好かれることが正しいわけでもない。基準としては、自分を好いてくれる人が自分の尊敬できる人たちならば、貴方は自分の人生を豊かと感じるだろう。自分を好いてくれる人が自分が尊敬できない人たちならば幸福ではない。

自分を好いてくれる人たちが自分が尊敬できない人たちばかりなのは、自分が望む自分として生きれていないからである。そのため幸福になりたいなら生き方の改善が必要である。数や比率ではなく、自分の周りにいる人たちの質で人生を考えよう。

数や比率で考えるのは愚かである。大衆により多く愛されるには大衆の多数派に迎合しなければならない。大衆に愛されるために迎合すること、これが"普通"ということである。この自分を偽った生き方に魅力を感じないなら、数や比率の向上は諦めて我が道を進むのみである。出会える確率は少なくなっても、本当に自分に正直に自分を貫いていれば、自分の尊敬する人に好かれるという出会いがあるだろう。

自分が尊敬する人に尊敬されたいがために努力する、という方向は必ずしも悪いアプローチではない。しかし、それによって自分とは乖離した背伸びした生き方となっているなら、それは有害となっている。あくまで自分に正直に生きた場合に自分の尊敬する人たちが集まってくる状態が理想である。

自分が嫌いな人に嫌われても、それで関係が切れるならむしろ良かったと思うものである。自分が好きな人に嫌われ、距離を置かれると傷つくものである。よって、自分らしく生きた時に自分の好きな人たちに好かれるのが理想の幸福な人生なのである。

去る者は去り、類は友を呼ぶ。来る者を拒む必要はないが、侮辱する者、尊敬できない者からは離れる必要がある。また、門戸は開かれて流動性を保っている必要がある(閉じていれば新しい出会いはなく、人間関係は減っていくだけである)。

人生は理想通りにはいかない。そして人生は儚いものである。だから人生の幸福も儚いものである。儚いものではあるが、その中でいかに豊かさを感じて生きれるかどうかである。現状に満足している、あるいは不幸でも良いなら何も改善する必要はない。

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