見出し画像

朝焼けと蜘蛛

 美味しそうだと思った。
 か細い足を伸ばし、懸命にひとの手の上を這う、それが。

***

 冷たく乾き、されど何故か澄んでいる。冬の温度は嫌いではなかった。
 吹き抜ける風が今は朝だと細く鳴き、無防備な葵の身体を刺激する。つきりと痛む鼻の奥に、じんわりと滲む視界。起き抜けの脳に残っていた睡魔は、簡単に逃げ出した。
 葵は彼の部屋へ 続く扉をさも当然ように開け、静かに暗い玄関へと足を伸ばす。隣の部屋で生活している幼馴染は、昔から他の侵入を良しとしない。彼の領域へ踏み入り、浸り、動かし、或いは制止を掛ける。それは彼の実妹と、幼馴染である葵だけの特権であった。
 しんと静まり返った室内を、朝が仄かに照らしている。部屋の主である青は、行儀良く布団にくるまり、これまた静かに眠っている。傍目から見て、布団の塊にしか見えない。彼は非常に寒がりだ。冬の朝は常にこの風景を見る事が出来る。因みに得は何も無い。
 物音一つ立てず其処に近寄り、葵は青のベッドに潜り込む。慣れたものだ、と自画自賛する。もう数えるのが面倒な程繰り返した。だが掛け布団がもそもそと無遠慮に喚くのだけは止められない。それの持ち主たる青がうっすらと瞼を引き上げる。薄い海が垣間見えた。
「……なに」
「僕も入れて」
 何度目かの会話。青を押し退ける事も無く、葵は彼のベッドへ侵入する事に成功した。眠るとき、壁側へと寄っていく青の癖はもう何年も直る気配を見せない。葵はそれを知っている。
 見知った温度が冷えた空気を連れ、青の傍へと滑り込んできた。晒されている肌が刺激され、体へ環境の変化を伝えてくる。寒い、と思わず呟くと、ごめん、と同じくらいの小さな声が返された。悪気を感じていない声だ。
 首筋から生まれ、二の腕の辺りへ駆けた寒気は、葵が布団へ潜り大人しくなった事で遮断される。先程よりも幾分か冷えてしまった安寧の空間は、それでも辛辣に肌を刺す。青が一晩かけて培った温度で冷えた体を暖める。悪いものではない。彼の温度は心地良い。固く結ばれた空気が解ける前、微かに冬の吐息の匂いがした。
「……、あおい」
 暖かく薄暗い安らぎへと誘われていた青だが、玄関の施錠をしているか、それが急に気になった。己であれば常にする事。当然と言えば当然、青がそれを欠かす事は極々稀である。葵がこの部屋の合鍵を持っていたか否か、何故かぼんやりと霞がかっていた。問い掛けると決め、青は掠れた声で葵の名を呼ぶ。掠れた声しか出なかった。
「閉めたよ。鍵、青が僕にくれたでしょ」
 間髪入れぬ肯定。尋ねたい事の間合いを把握している葵の、そういうところが青は好きだった。解らない部分もあれど、黙っていても悟ってくれる処。昔から、葵は人の考える事に対して聡い面がある。何処か冷えた目で、凍りかけた水溜まりのような薄い拒絶をしながら、それでも他人に気を遣う。訳の解らない部分。自分のように人が嫌いなのか、未だに聞けない。
 突然、少し粗雑に布団を引き寄せ、葵が嘆息する。その吐息は、微かに震えていた。
「どうした」
「……悲しい夢を見たんだ」
 自分よりもはっきりとした声音。しかしそれは問い掛けの後、仄かな灯が小さく消えるように、密やかなものへと変わってしまった。口元まで掛け布団に埋もれながら、かなしかった、と葵は呟く。彼がふと、煙の如く掻き消えてしまいそうな気がした。
 冷えた空気の境界が曖昧になっている事に気付く。慣れ過ぎた印象のある距離。動こうとしないふたりを包む閉ざされた空気は、先程よりもほんの少し暖かくなっている。
「青、今日の朝焼け、綺麗だったよ」
 二人の狭間、無防備に放られた葵の右の小指を青は緩く掴んだ。うん、と微かな声が遠く聞こえる。言葉は必要無かった。
 朝と夜の色。葵がそれを好む事を青は知っている。代わりに昼間や黄昏には、悲しそうに目を伏せて視線を泳がす仕草も見ていた。けれども青は、彼の何を、知っていると謂うのだと時折あまりにも軽々しく夜闇に放られるような寂しさを覚えていた。未だにある距離。触れられる。そんなものではなかった。

***

 無遠慮な機械の鳴き声がする。ぴぴ、と断続的に軽々しく、されど眉間に響く音。嫌な音だ。のそ、と布団を掻き分け、布団の皺に飲まれていた携帯電話のアラームを止める。そろそろ置時計でも欲しい頃合だ。気付いたら何処かへ遣ってしまっているから、ベッドには何も置きたくない。ともすれば壁との細い隙間に逃げている事さえあるのだ。
 起き上がり、緩く両腕を頭上へ上げて伸びをする。隣で丸まっている温度が、僅かに身動ぎした。
「葵。あーおい」
 隣で眠っていた幼馴染が再び夢の世と逢い引きに行こうとするのを、髪を些か雑にかき混ぜて止めようとする。青が朝食を作る間、葵は特にする事が無い。彼は進んで手伝いをするのだが、その為にはこの頃合いに起こしておかないとならなかった。葵は寝起きが大変宜しくない。青はそれに何度となく困ってきたのだ。
「……、何時」
「六時半」
 そっと布団を剥がす体勢になる。時刻を聞いた葵の瞼がうっすらと開きかけるが、天井に僅かに反射した朝日により眩しそうに閉ざされてしまった。
「二度寝禁止」
「うー……」
 掛け布団を剥ぎ取る姿勢になる。布団が大きく擦れた。動いた冷気が容赦無い勢いで肌を刺し、葵が身を縮こまらせる。眠気を隠しきれていない露骨な不機嫌さを物ともせず、青は起きろと催促する。だが早朝から彼が居る事はそう多くは無い。朝の空気を緩和する為にエアコンをつけるか否か、青は迷いふと黙した。昔から、隣に居るのが当たり前。そんな幼馴染と言えど、流石に身体の事は分からない。薄暗く冷え込む早朝に彼が忍び込んできた理由。もしかしたら体調が良くないのだろうか。嫌な言葉が浮遊する青の思考を振り払うように、嫌々ながらといった体で葵が身を起こす。つけなくて良いよ、と低く言葉を落とし、羽織ってきたらしいカーディガンの釦を外す。どうやら一旦着替えに帰るつもりらしい。
「目玉焼き、中は半熟が良い」
「おー。パンで良いだろ?」
「えー……」
「ええー?」
「嘘。少し焼いてほしいな」
 彼の好きな卵の具合が未だにいまいち分からず、青は苦笑した。葵の気分によって変わるものだが。
 ベッドの縁からシーツを絡ませながら立ち上がろうとする葵が、ひたりと動きを止めた。冷蔵庫から卵を二つ取り出した青は、その扉を閉めながら挙動を見遣る。基本的な動作。彼はその育ち故かよく滑らかで時に美しいとも見える所作をするが、時折それを止めてしまう。
「蜘蛛が居る」
「え、」
「ほら、此処」
 掌の上の小さな白い蜘蛛を、穴よ空けと言わんばかりに見詰める幼馴染が、薄く唇を開いたのを青は見逃さなかった。
「あッ……葵!」
「……あ」
 何故か大きな躊躇いにぶつかり、声を出すのが遅れた。しかしその代わり素早く動いたのは己の手
 葵の口をその手で覆い、蜘蛛がひょこひょこと歩く手を掴み、その唇から遠ざける。大きく揺れた手のひら。蜘蛛は驚いたのか飛び降りてしまった。
 朝が顔を出している。されど室内は暗く、薄闇は未だゆたりと部屋の隅に蹲って動かない。
「……何してんだよ」
「や……何か、美味しそうだなあって」
「美味しそうって」
「真っ白くて小さくてふわふわしてて、なのに華奢で動いてて。何か……食べてみたくなったんだ」
 葵はこのような発言をする事が稀にある。それには期間があり、度々起こる事ではなかった。女性の常識、月一のそれのような。昔から必ず、葵はどこか虚空に居たがる。葵の定期的な虚への憧れに、青は危うささえ感じた事もあった。
「葵、何処にも行くなよ」
 ひた、と葵の呼吸が刹那止まった。
「ねえ、知ってる?」
「……なにを」
 赤い目が、緩やかに細まる。
「何時も先に行ってしまうのは、青なんだよ」
 小さな白い蜘蛛は、朝から零れた光から逃げるように、何処かへ去ってしまった。二人だと言うように。
 まだ二人きりだと言うように。