残花のススメ

前書き

説明

 このSSはソードワールド2.5の自PCの過去編を身内向けに書いたものです。本来ソードワールド2.5のPCは『冒険者』であり、ギルドに所属するのが一般的ですが、一方でギルドに所属せず旅をしながら冒険者では対処不能な悪をくじく『放浪者』という設定で遊ぶこともできます。今回の主人公であるザンカたちは放浪者であり、彼女らの旅の途中、つまりゲーム中のシナリオとシナリオの幕間としてこのSSは書かれています。
 冒頭のみリプレイの要素を含み、次々と出てくるキャラクターたちは実際のPCとなります。

あらすじ

 アミナスという町での騒動を治めた放浪者たちは、次なる目的地への道中で野営を行っていた。放浪者のひとりであるザンカはアミナスでの騒動をきっかけに自分の半生を振り返る。


本文

【回顧】

 夜の樹海を歩く者たちがいた。ここはセブレイ領の大森林。比較的寒冷なこの場所では、夜になると気温はさらに低下する。
 夜の闇の中では、夜目の効かない種族は活動を阻害され、夜風は体力を奪っていく。
 歩みを止めて野営を行うという判断は、彼らにとっても当然の流れであった。

 彼らが野営に選んだのは、小さな川の畔であった。
 この場所は森がひらけており、見上げれば夜空が目に入る。
 森林の中にあっては、時間と方角を読む事ができる貴重な場所と言えるかもしれない。

 彼らはテキパキと野営の準備を進める。
 小さな角の生えた初老の男と前髪が長い長身の男はテントを用意した。
 薄桃色の髪をした鎧の少女は薪を集めて立てるように組み合わせると、その薪に軽薄そうな三眼の男が手も触れずに火をつけた。
 緑の鱗をした大柄な竜人は倒木を長椅子に見立て、それを焚き火のまわりに並べていった。
 小さなウサギの姿をした少年は、大きな鍋に川の水を汲み、よろよろと焚き火の近くへと持っていった。
 そして、小柄な褐色肌の少年は、他の皆を見ながらチューバを吹いていた。

 彼らの姿を見て、普通の旅人と思う者は珍しいだろう。
 彼らはヴァグランツ。放浪者とも呼ばれる彼らは、それぞれに目的を持ちながら旅をしてきた。
 そして今は"タイヨクキョウ"なる者を追うために、サイレックオードを目指して旅をしている最中なのだ。

 寝床と焚火の設営が終わり、簡易的であるが野営地という風な場所が出来上がった。焚火に鍋がかけられ、粥の材料が鍋に入れられる。火の周りには木の枝に刺した魚が数本並べられ、パチパチと音を立て始めていた。
 放浪者たちは倒木の長椅子に腰掛け、しばらくぶりの休息を堪能する。

「やれやれ、またもやレッグがスティックだぜ。いつになったらハールーンに着くんだ?」

 倒木の長椅子にどっかと座りながら三眼の男が言う。彼の名はレン。シャドウと呼ばれる種族だ。

「馬車が必要ですわね。前にも同じ会話をしましたが。」

 薄桃色の髪をした少女がそう返した。彼女の名はザンカ。慈愛と復讐の神ミリッツァの神官であり、鎧を纏う重戦士だ。
 彼女は人族ではなかった。人族と敵対する蛮族に産まれながら蛮族として不完全な存在、所謂"ウィークリング"と呼ばれる者たちの一人であり、種族はバジリスクであった。

「馬車か……いや、この森の中では身動きがとれないのではないだろうか……。」

 初老の男性がおずおずと話す。彼の名はペッシェ。ナイトメアと呼ばれる種族だ。彼はその見た目ほど歳をとっていないらしいが、仲間たちはそれを知らない。

「でも馬車ですのよ……?いいではないですか、馬車……。」
「あ、ああ、うん……馬車は、良い……良いと思う……。」

 ザンカの妙な圧にペッシェはたじろいだ。

「僕も馬車があったほうがいいかも……。いちいちゴーレム出すのも面倒だし……。」

 うさぎの少年が言う。彼の名はカウノ。若いタビットだ。

「僕はロバがあるからいらないかな。なんで皆はロバ持ってないの?」

 褐色肌の少年が言う。彼はチンチキという名のグラスランナーだ。

「ロバ……ロバか……。いや、必要ないな……。馬のほうがいい……。」

 物静かな男性が返す。彼の名はファラデー。アルヴという珍しい種族であるが、その特徴的な黒い目は前髪によって隠されている。
 理知的な彼は続けて言う。

「馬車があるのは楽だし歩みは速いかもしれないが、ペッシェの言う通り身軽さに欠けるのは間違いないだろう。足止めを喰らって時間がかかっては元も子もない。」
「はあ……皆様はそれでいいのかもしれませんが、私は荷物が多いので結構苦労してますのよ?この鎧も盾もメイスも重すぎて馬やロバ1匹に積むのはかわいそうですし……。」

 不満げなザンカの言葉に大柄な竜人がこう返す。

「ザンカよ、それほど苦労しているなら俺が荷物を半分持ってやってもいいぞ!ははは!」

 彼の名はスレン。リルドラケンの拳闘士であり、ザンカとは信仰が異なるものの彼も神官である。

「結構です。私だってずっとこれで旅をしていましたし?今更誰かの手を借りようなんて思っていませんわ。ただ、ちょーっとだけ、馬車があったら楽だって思っただけのことで。」

 スレンの言葉にザンカは余計気を悪くしたようだ。するとペッシェが何か察したのか、すかさずフォローしようとする。

「ま、まあ、ザンカ嬢の言うことも一理ある……。なにせ一番の重装備なのだから……。なにかその鎧を運ぶ手段があればいいのだが……。」
「あー、そういやレーゼルドーンだかテラスティアだかにはそういう道具があったと思うぜペッシェ爺。」

 レンが意外な見識の深さを発揮する。レーゼルドーン出身の彼だからこその知識である。

「ポータブルドレッサー?みたいな名前だったか?今度どっかの街についたらそれ探しに二人でショッピング行こうぜ?ザンカちゃん。」
「一人で探せますから大丈夫です。あ、お鍋が噴いてますよ。」

 ザンカはむべもなく返した。レンは心底残念そうだ。

 ペッシェは焚火の木を少し崩して火力を調節すると、粥を小鉢に注いで皆に配っていった。魚もちょうどいい塩梅で焼けており、皆はそれぞれに舌鼓を打ちながら談笑し、この穏やかな時間を楽しんだ。
 それぞれが使命や目的を帯びて歩むこの旅の中で、こういった小さな幸福をしかと噛みしめる。それこそが彼らのような放浪者にとっては重要なことであった。



 食事を終え、彼らは休息を取ることにした。この場所は見通しがよく、焚火までしているため立ち上る煙から野営していることがすぐにわかってしまう。獣はもちろん野盗や蛮族の襲撃も想定して、交代交代で見張りをする運びとなった。最初の見張りに名乗り出たのはザンカだった。
 他の皆はそれぞれ寝床に就いていく。だが、レンは一旦寝床に向かったものの、しばらくすると長椅子に戻ってザンカに話しかけてきた。

「ヘイ、ザンカちゃん。見張りは暇だろうし俺が話し相手になるぜ?」
「貴方は……女性と会話したいだけではなくて?私は大丈夫ですから早く寝なさい」

 目を細めて話すザンカを気にせずレンは話し続ける。

「ふーん、鎧着て歩き回ってるから一番疲れてると思って気遣ったつもりなんだけどな」
「さっきも言いましたが慣れてるので平気です。それに、少しひとりで考え事をしたかったので。」
「……それって、こないだのウィークリングのことかい?」

 レンの言葉にザンカは目を丸くした。どうやら図星だったらしい。

「え、ええ、そうです。彼がああなってしまうまでにどんな目に遭ってきたのかと、それをずっと考えていました」

 "彼"とはザンカたちが2日ほど前まで滞在していた”アミナス”という町で起きた事件の主犯の男のことである。ミノタウロスの出来損ない、ウィークリングとして生まれた彼は魔剣を手にしたことで力を得、自分の家族を皆殺しにすると今度はアミナスの人々を害するために妖精を操り始めた。
 結果的に凶行は放浪者たちの活躍により防がれ、ザンカにボコボコに殴られたうえに魔剣もへし折られた彼は"ゴンベエ"という名を授けられアミナスの冒険者ギルドに預けられたのだった。

「詮索はしないけどさ、何か思うところがあったんだろ?じゃなきゃあんな殴らないもんな」

 レンの言葉を聞いて、ザンカは少しうつむいて考えるような仕草をした後、こう言った。

「私の母だったら、きっとそうするだろうと思ったから……」
「お母さん……?ふーん……お母さん、か……」

 レンは何か納得したような表情をした。

「結局、それがアイツとザンカちゃんの差だったのかな……まあでも、安心したよ」
「安心?」

 ザンカはきょとんとした様子でレンの話を聞く。

「そういう自分の中の柱みたいなもんがあればさ、歪まないもんだろ?ザンカちゃんがお母さんから貰ったもんを今度はアイツにくれてやったんだ。だったら安心かなって、俺はそう思いたいね」

 レンの口からこんな言葉が出てくるのは心底意外だったようで、ザンカは驚いた。軽口ばかり叩く女たらしの男は、彼女にとっては相容れない存在だと考えてきたからだ。そんな彼を普段は軽蔑していたザンカだったが、この時ばかりは尊敬の念を覚えたのだった。しかし……。

「そ、そうですね……そう考えれば少し気が楽に……」
「でもアレだよな、ザンカちゃんはもっと遊びを覚えるべきだと思うぜ?お母さんはそういうこと教えてくれなかったのかい?なんなら、俺が手とり足取り教えてやってもいいぜ?」
「は?」

 さっきまでザンカが覚えていた尊敬の念はすっかり消えてしまったようで、彼女の顔はだんだんと赤くなっていく。一瞬でもこんなチャラチャラした男に気を許した自分を彼女は恥じた。

「貴方という人は……」
「いや~、キツめの女性も好みだけど、そんなツンツンしてたら人生損しちゃうぜ?やっぱり楽しまなきゃさ?」
「もうっ!もういいですからあなたは!とっとと寝やがりなさい!ほら!早く!!」

 すっかり頭に来てしまったザンカの怒気に、レンはしまったという表情をして倒木の椅子から飛び跳ねると、いそいそとテントへと戻っていく。
 頭をかきながら歩いていく彼の背中を見ているうちに、ザンカの頭に上った血が冷めていった。そして彼に聞こえないぐらいの小さな声で言った。

「レン……ありがとう……」



 ひとりになったザンカは、倒木の椅子に座りパチパチと音を立てる焚火を見つめ、時々薪をくべた。バジリスクである彼女は寒さが苦手であったが、焚火のおかげで我慢はできた。
 しばらく見張りをしているが、周りは獣の気配ひとつない静かな夜の森といった風だ。油断はできないが、襲撃など起きそうにはないと彼女は思った。
 そのうち彼女はなんとはなしに空を見上げる。月は月神シーンの慈愛を体現したように優しく輝き、星々は地上のあまねく生命を祝福するように瞬いている。
 空を眺めながら、彼女は自分の人生を振り返る。自分を否定した生みの親の事。自分を受け入れてくれた育ての親の事。神から力を授かった時の事。そして、放浪者になった時の事を……。



【オウカ】

 彼女が母親の胎内にいる時、彼女は愛されていた。
 彼女が産声を上げた時、その瞬間に彼女は親の愛を失っていた。

 時は300年前に遡る。ザンカが生まれた時代は魔動機文明末期の動乱の時代だった。人族の世は魔動機術によって隆盛を極め、まさしく輝かしい時代と言うに相応しかった時代である。しかし、その裏では蛮族による人族に対する戦争の機運が高まり、各地の蛮族の士族たちは密かに連携を取り、その牙を磨いていたのだ。

 彼女の父親はバルバロス(蛮族)の貴族を自負するバジリスクの一人で、名を"クロタラス・ユーガルイ"といい、ランドール地方の森林に領地を持っていた。
比較的人族領域から離れていた彼の居城は、その力を誇示するかのように巨大で複雑な迷宮と化しており、人族や敵対する士族からの攻撃に耐えうる構造をしていた。
 クロタラスはその気位の高さからか、他種族の協力要請を無視し続けており、現在でいうところの"大破局"に積極的に関わろうとはしていなかった。
 自らの血族の繁栄のみを第一に考えた行動は他の蛮族種、とりわけディアボロたちからは批判の的にされ、関係性は敵対まで行かないものの険悪そのものであった。

 クロタラスの妻、すなわちザンカの母も無論バジリスクであり、名を"アリル"といった。アリルは美しい薄桃色の髪をしていた。
 アリルは優れた魔法的才能の持ち主であり、操霊術の研究者でもあった彼女はクロタラスに心酔しており、持てる全てを彼のために使っていた。

 アリルが身ごもった時、彼女は歓喜した。
 下級蛮族の繁殖力の異常な高さに対して、上級蛮族であるバジリスクは人並みの繁殖力しか持っていない。出産までの1年ほどの間、アリルは毎日胎内の子供に話しかけ続けた。その言葉はバルバロスの貴族たる夫と自らの血を継ぐ者に対する期待、その血の責任、そして使命をまだ見ぬ我が子に課すものだった。
 しかし、その言葉は全て無為なものへと変わった。
ある年の春。配下である下級蛮族に介助をさせ、アリルは子供を産み落とした。産声を上げた子を取り上げ、アリルは歓喜の声をあげた。

「女の子……私の血……!私の血だわ!ふふふ……あはは……!」

 彼女は笑いながら我が子の頭を愛おしそうにそっと撫でる。しかし次の瞬間、彼女の表情は絶望へと染まった。

「め、眼が……!眼が……違う……!」

 バジリスクの両眼は邪眼と呼ばれる魔力の眼である。アリルの両眼とも白目のない大きく蛇のような眼をしている。しかし、彼女が抱く我が子の片目は、まるで人間のように小さく透き通った瞳をしていた。
 アリルの慟哭は、まるで呪いのように城内にいつまでも響いていた。



 それから5年ほど経った。
 "オウカ"と名付けられた少女は出来損ないの烙印を押されながらも処分はされず、城内での生活を許されていた。その名はバジリスク語で"半分"を意味していた。

 オウカは母親によって邪眼と逆側の眼に眼帯の装着を義務付けられていた。通常、バジリスクはその邪眼が暴発しないよう両目を目隠しするのだが、母は自らの娘が出来損ないであるという事実を許容できず、人間ような眼を隠して邪眼のみを見せることで完全な姿であるかのように見立てた。オウカの邪眼は未だ微弱な力しか持っていなかったため、せいぜい小さな虫を石にする程度のことしかできなかった。

 親子は城内の小さな部屋で話をしていた。最低限の寝具と何も入っていない小さな棚しかないこの部屋がオウカの私室だ。
 オウカは城内で暮らすことを許されたものの、その生活は最低限の物しか与えられておらず、バルバロスの貴族としての華美なものではなかった。
服と髪だけは母に整えられ、みすぼらしい姿ではなかったものの、オウカにとってはそんなことはどうでもよかった。
 どんな服を着ていようと、この部屋から一歩出れば、そこでは両親の配下の下級蛮族にさえ侮蔑を込められた目で見られる。一応は主君の娘であるオウカに対して手出しは許されてはいなかったが、その視線だけは隠す者はいなかった。ときに蔑まれ、ときに無いものとして扱われることが幼い少女には耐えがたい苦痛であった。
 それでもオウカは母からはバジリスクとしての教育を受けており、自分に貴族の血が流れていると教え込まれていた。彼女にとって、その血と両親の存在はわずかに残った誇りである。そして何より、彼女にとって母は唯一自分に微笑みかけてくれる存在だった。

「お母様、次にお父様に会えるのはいつですの?」

 オウカが母に問う。すると母は微笑みながら答える。

「数か月に一度の食事会ですから……あと半月ほどです。でもオウカが頑張ればもっと早く会えますよ」

 その言葉にオウカは少しビクついた。オウカと母にとって"頑張る"ということがどんなことか、彼女の身にはしっかりと刻み付けられていたからだ。

 母に連れられ、オウカは城内の研究室に来た。そして何も言われないまま部屋の中央の台に寝そべる。
 オウカはこの部屋が嫌いだった。壁や机にありとあらゆる薬品が並び、その匂いは胸を悪くした。いつも寝そべっているこの台の周りには何に使うかもわからない怪しげな道具が並び、台には幾何学的な模様が描かれている。そして一番嫌いだったのは……。

「オウカ、準備ができましたよ」
「はい、お母様……」

 オウカは虚ろな目で答える。
 すると母は魔法文明語で何やら呪文を唱える。次第に辺りの空気が張り詰めていく。次の瞬間、オウカの全身に激痛が走った。痛い。涙が溢れてくる。
 例えるならば全身の血管から無数の毒虫が侵入してくるような、言いようのない激烈な不快感と痛みが彼女の心までも苛んでいく。
 しかしオウカは声をあげなかった。叫び声を上げれば母を苛立たせ、失望させる。
 激痛の中では時間の感覚は失われる。実際にどれほどの時間苦しんでいたのかは分からなかったが、痛みが終わるまでの時間は彼女にとって永遠のように感じた。
 これこそが彼女たちの日課、不完全なバルバロスを完全な物へと矯正するための実験だ。

「この術式でもダメ……何故?!どうして……?!オウカ、次の術式を試しますよ……!」

 苦痛の時間が一旦終わる。しかし、壮絶な痛みの余韻に母の声すらもはやオウカには届いていなかった。
 母は苦悶の表情を浮かべ、次の術式を構築し始める。この壮絶な苦しみに晒されてもなお、オウカは実験が成功することで自分が完全なバジリスクになることが出来、その暁には自分が両親に今よりも愛してもらえるようになると信じていた。
 結局、この日の実験も結果を残せないままに終わり、頭を掻きむしりながら次の術式を求めて唸り続ける母を尻目に、オウカはよろよろと私室へと帰っていくのだった。



 その後の数日間は母が長考期間に入ったため、オウカはしばらく苦痛と離れることができた。
 時折姿を見せなくなる母に、オウカは寂しさよりも安堵を覚えるのであった。

 オウカは城内を歩き回ることは許されていたが、そのようなことはめったにせず、ほとんどの時間は何もない部屋で過ごしていた。
 オウカは何も入っていない棚の裏やベッドの下から何か取り出す。これは紙や絵の具だ。
 彼女は絵を描くのが好きだった。彼女が描くのは想像の中の世界。本を読んで得た僅かな知識から城の外の世界を想像し、それを描く事だけが彼女を陰惨な現実から救い出した。
 この絵画道具のセットを与えたのは給仕のコボルトだ。オウカの食事係をしているコボルトは彼女の唯一の話し相手であり、友人と呼べる存在だった。不完全なバルバロスであるオウカと、バルバロスでありながらその弱さのために蔑まれるコボルト、両者には何かシンパシーがあったのかもしれない。
 このコボルトは何かとオウカを気にかけてくれた。粗末な材料でもなんとか美味しいものを食べさせようと工夫してくれていたようで、オウカも彼の料理が好きだった。

 オウカが絵を描いているとガチャリと戸が開いた。彼女は驚き、咄嗟に絵と道具を隠したが、すぐにその表情はほぐれた。
 戸を開けたのは例のコボルトだった。どうやら夕食の時間だったらしい。汎用蛮族語で彼は話す。

「オジョウサマ、ショクジ、モッテキタ」
「ごきげんよう。そうだ、ちょうどあなたの絵を描いていたのよ」

 オウカは隠していた絵を取り出し、コボルトに見せる。年齢相応の稚拙な絵であったが、一生懸命描いたことは芸術を理解しないコボルトにも伝わったようだ。

「オジョウサマ、スゴイ」
「そうかしら?気に入ったならこれはあなたに差し上げますわ」
「ホントニ?ウレシイ」

 コボルト目を丸くして絵をじっくり見たあと、肩に下げた鞄に収納した。
 その様子を見ていたオウカは自分が絵にタイトルをつけていなかったのを思い出した。コボルトの絵を描いたのだから、ここにいる本人……いや、本犬?の名前をタイトルにしようと思ったのだが……。

「……そういえば、あなたはなんて名前でしたっけ?」
「ゴ」
「ゴ?」

 ゴ、というのは汎用蛮族語で"エサ"を意味する。最弱の蛮族として生まれ、時に非常食として扱われるコボルトらしい名前と言えばそうであるのだが……。
 前々から感じてはいたことではあったが、彼が城内で酷い扱いを受けているのをオウカは察した。

「そんなひどい名前……誰に貰った名前ですの?」
「ワカラナイ、ミンナ、ソウヨブ」

 オウカは自分の名前の意味を思い出して悲しくなってしまった。名前は一種の呪いであり、他者に呼ばれることで自分の在り方を強いられるような、そんな感覚を幼いながらに彼女は覚えていた。

「……だったら私が新しい名前をあなたにつけてあげますわ!」

 オウカの突然の申し出にコボルトは何を言っているのか理解できないようなふうであったが、そんな事お構いなしに彼女はぶつぶつと自分の考えを口に出す。

「うんと……えっと……なににしましょう……」
「オ、オジョウサマ?オデ……」
「そうだ!なにかバルバロスの偉い人のお話から取りましょう!」
「エ……」
「このまえ図書室で見たような気がしますわ。一緒に取りに行きましょう?」

 オウカに手を引かれたコボルトは戸惑っていたが、楽しそうなオウカの表情を見て素直に従うことにしたようだ。

「私と歩いてるところを見られると貴方もいじめられますから、少し後ろを歩くんですのよ?」
「オジョウサマ、オデ、ミツカラナイルート、シッテル」
「本当ですの?だったらそれで行きましょう」

 日陰者ゆえの知識か、複雑な城内の通路の中で利用者が少ないルートを歩いていく。途中で玉座のある部屋の近くも通った。気にはなったが、オウカは入ることを固く禁じられていたし、ここはいつ他の者が現れるかわからないので無視して先を急いだ。
 コボルトの言う通り、誰とも会うこと無くすんなりと図書室に着いた。この部屋は利用者がほとんどいないため、入ったとしても見つかることはない。
 オウカは図書室を歩き回り、目当ての本を探す。探す、と言っても背が低いオウカとコボルトでは低い位置の本しか探せないのだが。
 しばらくして目当ての本を見つけた。豪華な装丁の本だ。この本の著者はバジリスクのようで、教育を受けていたオウカはこれを読むことができた。

「イグニスの……けんぞく?たぶんこれですわ。えっと……」

 オウカは手にした本を読む。バジリスク語らしく難しい表現が多いため幼い彼女には理解できない部分も多かったが、飛ばし飛ばし読んでいく。すると彼女は興味深い文章を目にした。

「ミリッツァ……?」

 裏切者の神、ミリッツァ。かつてバルバロスでありながら子を慈しむ心のためにライフォスの軍勢へと寝返った裏切者の神であり、これを信仰する者を我々は許してはならない。本にはそう記されていた。

「バルバロスの裏切者……ふとどきものですわ!これはあなたに相応しくない名前です!」

 オウカは語気を強めて言う。しかし、子供のために裏切りまでしたという記述に、オウカは胸の内にだんだんと締め付けられるような感覚を覚えた。母が自分に向ける微笑みは私を愛しているからなのだろうか?実験が成功すれば皆は本当に愛してくれるのだろうか?こんなに苦しい目に遭い続けて本当に報われる日が来るのだろうか?
 そんなことを考え始めたら涙が滲んできてしまった。

「オジョウサマ……?」

 心配するコボルト。しかしオウカは涙を拭って気丈に振舞う。
 余計な事を考えるのはやめよう。自分は誇り高いバジリスクなのだから。そう考えることで必死に自分を誤魔化し、本の続きを読む。

「……宥和神アメース?アルフレイム大陸では殆ど信じられていない神様で、バルバロスの神の中でも協調と譲り合いを信条とする。……これですわ!」
「エッ」
「皆と仲良くできる神様ってことですわよね!だったらあなたにピッタリ!」
「デ、デモ、カミサマノ ナマエ ナンテ……」
「あまり知られてない神様なら皆も知らないから大丈夫。それにあなたをこの名前で呼ぶのは私だけだから」
「ソ、ソレナラ、イイカモ……」
「いいこと?貴方が誰になんて呼ばれていようとも私の中ではあなたはアメースですのよ。それを忘れないでね」
「アリガトウ、オジョウサマ……」

 オウカはこの時間違えて覚えてしまったが、件の神の名はアメースではなく正しくは"アーメス”である。結果的には間違えたことで大それた名前にはならなかったのであった。

 ふたりは図書室を後にした。アメースと名付けられたコボルトはどこか誇らしげであった。不完全なバジリスクであるオウカだったが、自らの高貴な血を信じる彼女の心が、この一時だけは貴族としての振る舞いを見せてコボルトの心を導く事ができたのだろう。

 オウカの部屋に戻るべく来た道を引き返す。しかし、玉座の間の前を通った時に異変が起きた。
 来たときには固く閉ざされていた扉が、少し開いており、中から言い争いのような声が聞こえるのだ。オウカにはその声の片方が自分の父だとすぐに分かった。

 彼女にとって父は憧れであった。父とは殆ど触れ合ったことはない、しかし、時折母から聞かされる彼の英雄譚はオウカの心を躍らせた。数か月に一度の食事会にはオウカも同席を許され、同じ物を食べた。その席でも会話をすることすらなかったが、父の堂々とした姿は正に高貴なるバルバロスの貴族そのものだと感じた。いつか完全なバジリスクになって父に認められたいという欲求が幼いオウカの胸の内には生まれていた。

 ここから先に足を踏み入れることは許されていなかったが、少し覗くぐらいならとオウカは考えてしまった。
 部屋を覗こうとするオウカをアメースは心配して引き留めようとしたが、彼女の好奇心は止めることができなかった。

 オウカが目にしたのは玉座に構える父とその横に立つ母、そしてそれに対峙する大柄な男であった。
 男の皮膚は蒼白く、体のいたるところに宝玉と突起を生やしていた。
 大柄な男は食って掛かるように話す。

「この度の作戦に挙兵しないというのはどういうことだ貴様ァ!バジリスクの貴族たるものが臆したのかァ?!」
「貴様らディアボロの作戦に手を貸すなど無駄だといっているのだ」
「なんだとォ?!」
「聞こえなかったのか?貴様らディアボロ種のように正面からの戦いしか頭にない者たちに従うのはいたずらに兵を消耗するだけだといっているのだ」
「き、貴様ァ!」

 状況は理解できていないが、一触即発という雰囲気にオウカは腰を抜かしてへたり込んでしまった。すかさずアメースが身体を支える。しかし、本当に恐ろしいのはこの後だった。

 大柄な男が体の突起を引き抜く。するとみるみるうちにその体躯は数倍に膨れ上がり、恐ろしい悪魔のような姿へと変貌した。

「ま、魔神……?!」

 あまりの恐ろしい姿にオウカはこれが以前に本で読んだ魔神なのだと思った。実際のところ、ディアボロ種はバルバロスと魔神の融合体であるのであながち間違いともいえないのであったが……。
 オウカは反射的に両親の身を案じて彼らの前に飛び出したくなった。しかし、あまりの恐怖に身体は言うことをきかない。アメースも怯えきって震えている。彼女は目を伏せたくなる気持ちを抑えて玉座のほうを見やると、当の両親たちはいたって冷静に構えていた。

「この玉座の間でそのような姿を晒すと言うのがどういった意味を持つか、貴様には分からないようだな?」
「知ったことではないわ!貴様のようなすくたれ者には手を借りる価値もないとこの場で証明してやるというだけの事!!さすれば他の士族にも示しがつく!!」
「御託が多いな。なんにせよお前はここから帰ることはできない」
「なにィ?!」
「私の……この姿を見るのだからな」

 父は玉座から立ち上がると両目を覆うように撒いた布を外した。
 突如として父の首は伸びていき、身体はどんどんと肥大化していく……。
 禍々しい脚が次々と生え、そして全身に鱗が生成されると、その姿は悍ましく巨大な邪龍へと変貌していた。
 その巨躯はディアボロを遥かに凌駕し、存在の全てが絶望的な力の差を物語っていた。

「……!!」

 オウカは悲鳴を上げそうになったが、咄嗟に口を押えて我慢した。
 この場から逃げ出したいと切に思ったが、やはり足が動かない。最初は恐怖のためだと思ったが、その本当の理由にこの時は気づけなかった。
 今にも何かが起きそうな雰囲気の中、突如オウカの身体は強い力で引っ張られた。アメースが必死にオウカの身体を持ち上げ、そのまま逃げだしたためである。
 遠ざかっていく扉を見ながらオウカはこの場から離れられる事への安堵を感じながら、それに反して父の雄姿を見れなくなることを残念に思う自分がいることに気が付いた。

 逃げ込むように私室へと戻ったふたりだったが、心臓の高鳴りと冷や汗はしばらく止まることはなかった。
 ここに戻る途中、誰かの悲鳴が聞こえた気がしたが、ふたりはそのことを胸にしまった。

「アメース、ありがとう……。私、完全に腰が抜けて……」
「ゴシュジンサマ、コワカッタ……」
「お父様は……本当のバジリスクはあんな力を持っていたんですのね……」
「オジョウサマモ、ヘンシンスル?」

 アメースは震えながらオウカに質問した。

「私はまだなれないの。でもいつかは変身できる……と思う……実験が成功すれば……」

 そんな確証はないと、話してるうちにそう考えてしまい悲しい気持ちになったオウカだった。しかし、震えるアメースを見て気持ちが切り替わった。

「いえ、私は本当のバジリスクになってみせます。それでね、あなたを守ってあげるの」

 それを聞いたアメースはきょとんとしてしまった。

「オデヲ……?」
「そう、あなたを。」
「ドウヤッテ?」
「私はお父様と同じぐらい強くなる!それでお父様のあとは私がこの城を継ぐの。それでね、そうしたらあなたを側近にしてあげる!」
「ソッキン?」
「私の、この城の主の側近よ。そうしたらもうあなたをいじめる者はいなくなるでしょう?」
「オジョウサマ……」

 アメースのつぶらな目が潤む。こんなに優しい言葉をかけられたのは彼にとって初めての事だった。

「オジョウサマ……オデモ、オジョウサマヲ、マモル!」
「ふふ……ありがとう、アメース。私、期待してしまうけど大丈夫?」
「ヤクソクスル!」

 暫くして、アメースは自分の仕事に戻った。
 彼はまた他のバルバロスにいじめられながら仕事をするだろう。しかし、オウカとの約束が彼を支え続けるのだった。

 アメースが戻った後、オウカはベッドに寝っ転がって天井を見る。
 そして、あの父の姿を思い出していた。
 父と、その力への憧れ。アメースとの約束。本当に自分が完全なバジリスクになれるのかという疑問。
頭の中がグルグルと回って、眠りたいと思っても眠ることができなかった。
 そしてそのうち彼女は、絵筆を手に取っていた……。



 それから十数日ほど経った。
 相変わらず母の実験はオウカを苛み続けたが、未だに成果を上げられずにいた。
母は嘆き悲しみ続けたが、オウカはじっと苦痛に耐え続けた。彼女の中の信念が彼女自身を支えていたのだ。
 そして、そうするうちに父親との食事会の日が訪れた。

 食事会は専用の大部屋で行われる。
 たった3人だけで食事をするには大きすぎる机に、ぎっしりと様々な料理が並べられる。
 下級バルバロスの宴なら人肉などが供されたかもしれないが、そこは上級バルバロスであるバジリスク。人族を家畜のエサ程度にしか思っていない彼らの食卓には、選りすぐりの穀物や魚、獣肉などを丁寧に加工した食事、いうなれば人族の貴族の食事と比べても遜色ない手の込んだ料理が供されていた。
 本来であれば、この広い机にはユーガルイ家の血筋の者が同席し、賑やかに会食を行うのが伝統であった。しかし、ここにいる3人以外は魔動機という新たな武器を得た人族の前に次々と命を落としていった。
 実のところ、クロタラスが他の蛮族と協力しなかったのは、自らの血筋を守り、力を蓄えるためであったらしい。

「オウカ、おいしい?」
「はい、お母様」

 母の無機質な問いにオウカはそう答える。
 しかし内心ではここに並んだような繊細な味の料理よりも、アメースの作る味の濃いコボルト料理のほうが美味しいと感じていた。

「……それで、実験はどうなっている。もう5年にもなるのは分かっているな?」

 父が口を開くと、空気は張り詰めた。

「実験はまだ結果が出ていません。しかし……」
「潮時……ではないのか?」

 父の言葉に、母は一瞬たじろいだが、すかさず反論した。

「わ、私には責任があります!高貴なるバジリスクの血にかけて、出来損ないの子を産んだ責任が!」

 出来損ない。オウカはその言葉を母の口から直接聞いたのは初めてだった。
 胸が締め付けられる。だがなるべく深く考えないようにした。自分が出来損ないだからこそ、母は自分に手をかけてくれているのだということで理解していたからだ。

「魂の穢れこそが我々の力の本質。ウィークリングは穢れが少ないために不完全となる。だが後天的に穢れを与えても姿形は我々と同じにならず、結局はレブナントになるだけ……そんなことは最初から分かっていたはず」
「そうです!だから魂と身体を一度切り離して再構築し、産まれなおしをさせようとしているのです!」

 産まれなおし?オウカには母が何を言っているのかが分からなかった。

「お前の発想にはいつも驚かされる。お前を伴侶に選んだのはそのためだ。だからこそ、成功する見込みの薄い研究はもうやめにして、別の研究をしてもらいたい。それこそが私のためになるのだから」
「し、しかし……」

 父と母の話を聞いて、オウカは咄嗟に立ち上がり、声を上げてしまった。

「お、お父様!」
「オウカ!?慎みなさい!」
「い、嫌です!」

 オウカの言葉に母は唖然としている。彼女は生まれて初めて母に逆らった。
 自らの考えを、気持ちを父に伝えなければいけないと思ったのだ。

「私は、貴方のように偉大なバジリスクになりたいのです!」
「……お前が?」
「はい!だから……だからどんなに苦しい実験でも耐えてみせます……!」
「……献身的だ。お前に似たようだな?」

 父の言葉に母の顔がこわばる。
 オウカは話すのに必死でそれに気づくことはなかった。

「貴方に憧れています……!強く気高い貴方に……この前だって……」
「オウカ……?!何を……」

 オウカは懐に入れていた物を取り出した。
 それは一枚の絵で、幼稚な絵柄だが誰が見ても何を描いていたかは一目瞭然だった。
 巨大な身体には重厚な鱗が全身にびっしりと走り、禍々しく光る両の邪眼は相手を威圧する……。それは、あの時にオウカが偶然目撃した父の変容した姿だった。
 オウカは父の姿に憧れるあまり、あの時の光景が瞼の裏から離れることがなかった。そして、気が付くとこの絵を描き上げていたのだ。
 それは紛れもなく純粋な願いの結晶であり、オウカの気持ちを伝えるには十分な熱量を持っていた。子が父の絵を描く。人族社会であればあれば微笑ましい事である。
 ただし、この場合は相手が悪かった……。

「貴様……出来損ないの分際で……」
「え……?」

 父はゆらりと立ち上がりオウカのほうを向いた。目隠ししているはずの両目から威圧的な視線を感じたオウカは、立ちすくんだまま動けなくなってしまった。

「お、オウカ……なんてことを……」

 母が狼狽えるのも無理はなかった。バジリスクにとって、著しく知性が下がり、精神的にもコントロールが効かなくなる邪龍の姿は醜いものとされ、他者に見せることは恥なのである。彼らが本当の姿を見せる時……それはすなわち相手を確実に滅すると決めた時だった。
 オウカはそれを知らなかったために、ただひたすら憧れを絵にしてしまった。
 父への愛の強さは、それだけ強く反転し、彼に屈辱を与える結果となってしまったのである。

 みるみるうちに邪龍へと変貌した父を前にして、オウカは声も上げることができなかった。
 そして次の瞬間には、彼女の身体は信じられないほどの力で壁に叩きつけられていた。

「がっ……はっ……」

 何をされたのか一瞬理解できなかった。次第に痛みが身体をめぐる。
 直後、壁から跳ね返って床に伏した。
 衝撃で紐が外れたのだろうか、眼帯がはらりと落ち、人間によく似た眼があらわになる。
 胸が熱い。どうやら肋骨が折れて肺を傷つけたようだ。むせかえって咳をすると口から血が噴き出た。出来損ないとはいえバルバロスだからだろうか、人間の子供なら確実に即死していただろう打撃でもオウカは死ねなかった。
 必死に足に力を込めて立ち上がろうとする。しかし両手両足を床に着けて這いずることがやっとだ。

「お、おとうさ…………ご……め……」
「貴様のような出来損ないはァァガガガ!!!死にすら値しないィィィィ!!!」

 許しを請うオウカに対し、邪龍と化した父の両眼が無慈悲に光る。
 直後、オウカの身体はつま先から石化していった。

「あ、あああ……!」
「貴様の魂は輪廻の輪には戻さないィィィ!!!!五体と魂を石に変え、ダルクレムの元にもライフォスの元にも永遠に辿り着かぬまま現世に縛り付けてやるゥゥゥゥアアアァアガアアアアア!!!!!!!」
「お、お母さま……助け……」

 オウカはすがる気持ちで必死に手を伸ばし、その両眼で母を見つめた。
 しかし、母が声を荒げて叫んだ言葉に、オウカは耳を疑った。

「どうして……どうして貴方なんかが私から産まれたの……?!貴方さえ産まれてこなければ……私の血は完璧なままでいられたのに……!!私の血……完璧な、私の……ああっ……」

 母の身勝手な言葉に、オウカはもはや何も言うことができなかった。
 母は、私を愛してはいなかった。
 愛していたのは父と自らに流れるバジリスクの血だけだったのだ。
 父にとっても私は母のオモチャ程度の認識でしかなかったのだろう。
 オモチャが意見なんかしちゃいけなかったんだ……。

 次第に薄れゆく意識の中でオウカは思った。
 振り返り見て、今までの自分の一生は何か意味があったのだろうか。
 あんなに苦しんで耐えるばかりの毎日の中で、ようやっと生きる目的を見つけられたと思ったのに……
 ごめんね、アメース……。

 それを最後にオウカの思考は途切れた。


【二人目の母】

 オウカが石になってからしばらくの後、"大破局"と呼ばれる蛮族たちの未曽有の攻勢は、隆盛を極めた魔動機文明を終焉させるに至った。

 そこから300年ほど経った現代のこと。難攻不落と言われたバジリスクの根城であるクロタラス城に踏み入り、見事に制圧してみせた冒険者の一団があった。
数々の罠と無数の蛮族を無慈悲かつ滅茶苦茶に薙ぎ払う彼女たちの姿を伝え聞いた吟遊詩人はのちに「どっちが蛮族かわからないな」と言葉を漏らしたという……。

 冒険者たちのリーダーは"スー・シャノウ"と言う名の人間の神官戦士で、彼女はミリッツァの復讐神官(アベンジャー)であった。
 ブロンドの髪を後ろで結わえている彼女は、その全身を鎧で覆い、巨大な盾と剣を装備している。そして右目は潰れているようで、ミリッツァの聖印が刻まれた眼帯を装着していた。

 滅茶苦茶に破壊された玉座の間で彼女は独り言ちる。

「いやぁ~……こんなボコボコにするこたぁ~ねーよなぁ~……まだ使えただろうよこの城さァ~……ここ売り払ったらアタシたち死ぬまで遊べてたんじゃねェのォ~????」
「お前だ」
「あ?」

 スーに食ってかかるのはルーンフォークの魔動機師、アルゴスだ。灰色の髪をした彼は金属鎧に身を包んでいる。

「お前がめちゃくちゃに暴れたんだろうが!!」
「ちげーって!ほとんどはあのトカゲ野郎だろ!!あのリンカルスとか名乗ってたさぁ!」
「ゴッドフィストで天井ぶち抜いたのはどこのどいつだ!!」
「ゴッドフィスト……はっ、ってことは犯人はミリッツァ様!?!?よっし!アタシ無罪ッ!!」
「貴様は~!!!!」

 えんえん口論を続ける二人。そんな彼女らを冷ややかな目線で見つめるのはエルフの深知魔法使いのクローネだ。特徴的な眼鏡をかけている彼女は、美しい黒い髪をしていた。

「スーさ〜ん、アルゴスく〜ん、ちょっとい〜い?」

 クローネの気が抜ける声に、二人は口論をやめて話を聞く体制に入った。

「なんだよ、疲れたから寝るんじゃなかったのかよ?」
「うん、使える寝室がないかペイルと一緒に探してたんだけど、気になる部屋を見つけて……」
「気になる部屋?」
「うん、たぶん宝物庫」
「なにィ!!」
「それを早く言わんか!!」

 スーとアルゴスの眼の色が変わった。二人でクローネを抱え、全速力で宝物庫へと向かう。宝物庫らしき部屋の前にはペイルが居た。ティエンスの彼は優れた射手であるとともに、戦場では騎獣を駆るライダーでもあった。彼は集まった仲間たちを見て無機質につぶやく。

「……来たか」
「あれっ、まだ開けてねぇのかよ」
「扉だけではなく、部屋自体に何か高等な術式がかけられている。これを無理矢理開ければ部屋自体にどのような影響があるかわからん。それに……」

 ペイルが指差した先は扉の取っ手だ。その上には何やら複雑な言語で記述があり、その直下には算盤のようなものが並んでいる。これもまたペイル達には分からない言語で記述されていた。算盤を見たスーは少し考えるような素振りをする。

「ふーん……この長ったらしい記述はバジリスク語だな。見ろ!長ったらしすぎて釦にギチギチに文字が書いてある!」
「御託はいい、何なんだこれは」

 アルゴスはうんちくに興味がないらしかった。彼が興味を持っているのは扉の先の部屋にあるであろうお宝だけだ。

「数式のパズルみたいだな、まあ見てろって……」

 スーは算盤に付いた釦をポチポチと押していく、するとガチャリと音を立てて鍵が開いた。

「流石スーさん」
「ま、学者様だからな!アタシは!」

 スーは学識が深く、地頭もよかった。特に秀でているのは語学の才能だった。

 スーは取手に手をかけ、扉を開ける。倉庫らしいホコリ臭い空気が鼻を抜けるのを覚悟していたスーだったが、意外にも宝物庫の空気は淀んでいなかった。

「あれ?意外と爽やかじゃん」
「あー、これは……」

 クローネがなにか気づいたようだ。天井、壁、床の6面には細かい装飾が施されていたが、これをよく見るとなんらかの文字であることを彼女は見抜いた。

「この部屋にかけられた術式は空気の質を安定させて中の物の保存状態を良くするものみたいですね」
「あー、なるほど。そんなのがあるなら図書室にも付けておいてくれりゃよかったのによォ〜」

 スーたちは城塞の攻略中に図書室を発見していたが、かなり保存状態が悪く、ほとんどの本は朽ちていた。スーは古い文献が残っている事を期待していたため、この時ばかりは柄にもなく落胆していた。

 宝物庫の中をスーたちはくまなく探す。この部屋にある物は絵画や彫刻などの芸術品だ。その殆どは人族領域からの略奪品と見られ、おおよそ魔動機文明末期の物だと判別できたが、作者不明の作品群にどれ程の値段がつくかは彼女たちでも判断がつかなかった。

「こ〜れ持って帰るのかよォ?」

 スーが不満げに話す。実際、これらの美術品は彼女らがここまで乗ってきた馬車に積載するには大きすぎた。

「……おい、これを見よ」

 ペイルがなにか見つけたようだ。彼が見つけたのは布のかかった何かだ。物陰にひっそりと置かれたそれは、目立たないよう隠されているようにも見えた。

「お、もしかしてこれが本命ってやつかァ?」

 スーは周りの意見も聞かず布を取り払う。するとそこにあったものは……。

「ひっ……」
「な、なんだこりゃ……?」

 クローネが小さく悲鳴をあげ、スーも狼狽える。男二人も眉をひそめた。
 そこにあったのは地に伏し、何かを乞うように手を伸ばす少女の石像だ。その表情は苦悶しているようにも絶望しているようにも見えた。

「……ちっ!出来はいいが、作ったやつは悪趣味な野郎だなァ!胸糞悪ィ……!」
「同感だ。芸術ってクソだな」

 怒りを隠しきれないスーにアルゴスも同意する。彼女の怒りも無理はなかった。
 何故ならば彼女はミリッツァの神官、ミリッツァの教義は弱者を守ることであり、特にスーは子供が傷つくことに激烈な怒りを覚える女であった。

「トカゲ野郎共が作らせたのか人族が作ったのを盗んだのかはわからねェが、これだけ精巧に作れるってのはモデルがいるって事だ……!クソッタレが……!!」

「まて、石像の脇に何かある。ゴミにしか見えなかったが……これは……?」

 頭に血が上っているスーに対し、ペイルは冷静に周りの観察を続けていた。石像の陰に隠れていたので見えにくかったが、よく見るとこれは毛皮のような物の塊だ。
 さらに観察をしているとペイルはこれが何か気づいた。

「……これはコボルトの死骸だ。よく見れば衣服も着ている」
「死骸だと?」
「ああ、かなり時間が経って干からびているようだが、腐敗しなかったのはこの部屋の空気が調整されていたからだろうな……」
「あの〜……」

 さっきまで石像から少し目をそむけていたクローネだったが、何かに気づいたらしく口を挟んだ。

「これ……寄り添ってるように見えない?この石像に……」

 スーたちはもう一度コボルトの死骸を確認する。確かにクローネの言うとおり寄り添ってるようにも見えるが……。
 アルゴスは顎に手を当てて考えを巡らしながら言う。

「だとしても状況がイマイチわからんな。それほど大切な物なら運び出せばいいものを」
「運び出せなかったのかもしれねェな。出口を見ろよ」

 スーは、出口を指差した。入った時には気が付かなかったが、内側にも算盤が付いている。

「トラップだ。書いてある文章と釦の文字が外と違う」
「なに?俺たちも閉じ込められたのか?」

 アルゴスが少し慌てたように言うが、スーはすぐに答える。

「ナメんな、アタシなら当たり前のように解ける。だがコイツには無理だったようだな」

 スーはつらつらと説明を続ける。彼女はこういうとき早口になる癖があった。

「コイツみたいな下級蛮族が算盤パズルを解いて宝物庫に入る方法を理解してるとは思えねェ。ってことは、入る方法は2つしかない。それは?」

 スーはここまで言うと黙った。これも彼女の悪癖なのだが、何かを推理したとき仲間にも答えを導き出させようとする。そして答えが間違っていたらボロクソに煽るのが彼女の趣味だった。

 三人はやれやれと思いながらも考えを巡らせる。そのうちクローネが口を開いた。

「う〜ん……?開いてるときに忍び込む?」
「それが1つ目だがコボルトに出し抜かれるやつはマヌケすぎるから今回は違う」
「そっか〜」
「それで2つ目は……」
「あ、なるほど分かったぞ」

 アルゴスがスーに割り込んで言う。

「シンプルな話、他のやつが釦を押してる所を覗き見して順番を覚えたってところか。だけど出る時は外からじゃ見えないから分からなくて閉じ込められた」
「正解〜!アルゴスにしては上出来だなァ」
「一言多いぞ!」
「……そんでまァ、たぶん次に誰かが入ってくるまでに餓死したってとこだが、餓死なァ……。そうなる前にもっと暴れそうなもんだがな」

 スーは、そう言いながらコボルトの遺体の衣服や鞄を調べ始めた。すると、鞄の中から1枚の紙が出てきた。彼女はその紙を検めると、一言呟いた。

「なるほどな……」

 スーはその紙を仲間たちに見せた。そこには絵が描かれていた。稚拙な絵柄でこそあるが、それは間違いなくコボルトの絵であったのだ。
 絵を見たアルゴスがつぶやく。

「これは自画像……?いや、コボルトの手では無理か……という事は、まさか……」
「気がついたか」
「この子に描いてもらったってのか?」

 クローネとペイルも事態を察したようだった。ここにいる全員が石像の正体が石化した少女であると気がついたようだ。

「当たり前といえば当たり前だったな……バジリスクの城なのだから……」
「寄り添って守ってたんだ……お友達だったんだね……きっと……」
「しかし、そうと分かると見えてくるものがある……この子の目を見よ」

 ペイルは石像の少女の眼を指差す。石化しているため分かりにくかったが、よく見ると左右の眼の大きさが違うように見える。
 それを確認したクローネは驚いたような表情をして言った。

「バジリスクのウィークリング……!」

 なり損ないの蛮族であるウィークリングの存在はアルフレイムにおいても珍しいものであり、一般人であればその存在を認知していないものも多い。大概は落伍者として蛮族社会の中で死んでいく存在である彼らの姿を見るのは、冒険者であるスー達でも稀であった。

「蛮族共が……テメェのガキを石にしたってのかよ……!!」

 身を震わせて怒るスーに、仲間たちはかける言葉が浮かばなかった。彼らにとってもウィークリングの少女の不幸な生い立ちは想像せざるを得ず、その事を考えると胸が痛むのだった。

 皆おし黙ってしまい、宝物庫の中はしんとしてしまったが、すぐに静寂は破られた。黙って怒りに震えていたスーが、突如として頭を抱えてうずくまり嗚咽をもらし始めたのだ。

「うっ!?あァ?!な、なにィ……??」

 驚いた仲間たちは、すかさずスーを取り囲み介抱し始めた。スーはぶつぶつと何か言いながら苦しんでいる。アルゴスは怒りすぎたスーの頭の血管がとうとう切れたのかと思い、彼女の死を覚悟した。
 しかし仲間たちの心配をよそに、スーはすっくと立ち上がり、仲間たちにこう告げた。

「うん、アタシ、ママになるわ」

 時間が止まった。
 何を言ってるんだこいつは、と仲間たちは思った。
 彼らは彼女が怒りすぎてとうとう頭がおかしくなったのだということで理解した。

「ん?どうしたお前ら」

 スーは皆の反応にきょとんとしている。

「ハルーラよ、この哀れな女を導き給え……!」
「ライフォスよ!生まれて初めて祈る!このクソアマの頭をなんとかしてくれ〜!」
「キルヒア様〜!アステリア様〜!ミィルズ様〜!!誰でもいいからスーさんの頭を治すお知恵を〜!」
「バラエティ豊かな神々に祈ってんじゃねえぞ!!テメェら!!」

 スーは別に狂ったわけでも頭が壊れたわけでもなかった。スーいわく……。

「ご神託だよ!ご神託ゥ!!ミリッツァ様はアタシにこいつの母親をやれって言ってんだよ!変な勘違いすんなァ!!」
「いや、苦しんでたので勘違いした……」
「ミリッツァ様は何故か神託と一緒に頭痛もくれるんだよ。私にだけな!」

 ペイルのいう事はごもっともだった。スーが神託を受ける場面を見たのは全員初めての事であったし、まさか神託で苦しむとは当然誰も思ってなかったのだった。

「さて、とりあえずこいつを石から戻すぞ。ペイル、キュアストーンポーションは持ってたな?」

 作業を始めようとするスーの肩にアルゴスは手をかけて止めた。

「ま、まて、本当にこの子の母親になるつもりか?お前が?」
「ああ、ご神託だからな。しょうがねえだろ」
「俺たちとの冒険はどうするつもりだ」
「……」
「お前が孤児院の子供たちの為に戦ってるのは俺たちも知ってる。だが、今までみたいにたまに帰って金だけ置いてまた冒険に出る、なんて話じゃないんだろ。母親になるってのは。」

 アルゴスの言葉に少しうつむいたスーだったが、その場で振り返り、彼の目を見てハッキリと言った。

「わりィ、別の神官を見つけてくれ」
「……本気なんだな」
「ああ」
「人族じゃないぞ。この子は」
「見りゃわかる」
「……苦労するぞ」
「覚悟はしてる」
「……わかった」

 アルゴスは深くため息をつくと近くの壁にもたれかかり、スーに向かって言った。

「負けたよ。頑固なお前を説得するのは邪竜退治より骨が折れるからな」
「……そうかもな」
「その子を、お前のところの孤児院まで連れ帰る。それを俺たちパーティの最後の仕事にしよう。」

 クローネとペイルはアルゴスの言葉に少し驚いて顔を見合わせたが、まあしょうがないなという風に微笑んで頷いた。

 スー達のパーティは、なんだかんだ言って長い付き合いであった。サブリーダーのような立場だったアルゴスには複雑な思いがあるのだろう。彼の気丈な振る舞いに、スーは珍しく微笑む。

「……あんがとな」
「よせ、気持ちが悪い」

 スーのらしくない言葉にアルゴスは悪態をつきながら照れくさそうに笑った。

 しばらくの準備の後、スーたちはあらためて石化の解除を試みる事にした。
 ペイルはキュアストーンポーションを用意する。スーの神聖魔法を使わずにポーションを利用するのは、彼女のマナを温存するためだ。彼らはバジリスクと戦うことを想定していたため、強力な薬効の物をいくつか用意していた。

「……始めるぞ」

 ペイルは手持ちの中でも最も高い薬効を示すポーションを石化した少女にたらす。すると、少女の頭からゆっくりと石化が解け始めた。このポーションは特殊な作用により、対象にかけられた石化の呪いの効果を打ち消すことができるのだ。

「想定よりも解呪のスピードが遅い……」
「それだけ強力な呪いがかけられてたってことね……」

 1分ほどかけて頭部まで石化が解除された。それにより、少女は意識を取り戻し、か細く声を上げる。

「うぁ……?……ッ?!」
《動こうとするな、少しじっとしていろ》
「?!」

 状況が理解できず混乱する少女に、スーはすかさずバジリスク語で忠告する。解呪が不完全な状態で下手に暴れられると、石化箇所との境目がひび割れて致命的なダメージを受ける可能性があるためだ。幸いにも少女は聞き分けがよく、じっと耐えてくれた。

 さらに3分ほどかけて全身の石化が解けると、少女は体制を崩し、糸が切れたように倒れた。石化のために止まっていた血が傷から吹き出し、床に血だまりを作る。
 スーはすかさず眼帯に手を当て、祈りを捧げる。次第に聖印が輝きはじめ、辺りを優しい光が包んでいく……。

「慈愛と復讐の女神ミリッツァよ、この娘の命を救う力を私に……」

 スーが手をかざすと、少女の全身の傷はまるで時間が巻き戻ったかのように治癒されていく。これこそが神から授かりし原理原則を超える神秘の力、その一端が現出した瞬間であった。
 少女はもう痛みを感じてはいなかった。しかし、それでも彼女にはうずくまって震える事しか出来なかった。彼女にとって今は300年前のあの悲劇の直後の出来事であり、正常に状況を理解できるほどの気力を持ち合わせていないのだ。

「少し眠っていろ。クローネ、頼む」
「は〜い!」

 スーの指示でクローネは少女に真語魔法"ナップ"を行使する。すると少女は微睡みの中に沈んでゆき、そのまま深い眠りについた。

《おかあさま……》

 微睡む少女が弱々しい声で呟くのを、スーは聞き逃す事はなかった。



 3時間ほど経った頃だろうか、少女は目を覚まし、見覚えのない天井に戸惑いながら上体を起こした。 毛布がはらりと落ちる。

「ん……?目が覚めたか。寝心地はどうだった?お姫様。……って言っても分かんねェか」

 少女が目覚めたのに気がついたスーが話しかける。スーは少女が眠っている間ずっとそばに居て見守っていたのだ。彼女は武装を解除し、動きやすい布の服に着替えていた。

 ここは城主の寝室であり、少女が寝かされていたのは上等なベッドで、少女がこの部屋に入ったのは初めてのことだった。

《貴方は誰……?》

 少女は目の前にいる見知らぬ者にバジリスク語で問いかけた。すると同じくバジリスク語で言葉が返ってくる。

《私はスー・シャノウ。石化状態にあったお前を元に戻してやった者だ》

 石化。その言葉で少女は今までの事を思い出した。両親が自分にした仕打ちを。少女の表情が曇り、両目に涙が溢れる。

《お母様……お父様……どうして……》

 少女は両手で顔を覆い、シクシクと泣く。
 すると、その姿を見ていたスーが、身を乗り出して寄り添った。そして、そのまま彼女を優しく抱きしめた。

「?!」

 少女は、産まれてから一度も、たったの一度も誰かに抱きしめてもらったことはなかった。だから自分が今なにをされているのかも理解できなかったが、なぜだか余計に涙が溢れてきて、大声でわんわんと泣き叫んでしまった。
 スーは、そんな少女を黙って受け入れていた。

 しばらくして、落ち着いた少女にスーは色々と説明をした。自分たちが人族の冒険者であること、少女がおおよそ300年間石になっていたこと、そして、この城がどうなっていたかということ。

《ひとつ確認することがある。お前の父親の名前は?》
《クロタラス・ユーガルイ……》
《ユーガルイ……なるほど……》

 スー達はこの城がクロタラス城と呼ばれているのは確認しており、それが城主の名であるという事も調べがついていた。彼女たちは当然、クロタラスという名の城主と戦うつもりでいたが、実際に戦ったのはリンカルス・キブラという若いバジリスクだった。
 つまりは、経緯は不明ながら、本来の城主とその一族はここから離れるか滅びるかして、後に他の士族がここに住み着いた、という事になる。

《私達が倒したのはお前の両親じゃない。姓も名も違った、別の士族のようだな。だが、300年も経っているからな……お前の両親や一族はもしかすると……》
《……ええ、もう絶えているかもしれませんわね》

意外な反応にスーは少し驚いた。

(ちっこいのに随分と物分りのいい……やっぱり苦労してたみてェだな……)

 自分を抑えて大人びた考え方をしなければならないのは、そうしなければ生きていけなかった事の裏返しであり、スーには不幸な事だとしか思えなかった。

《お前、名前は?》
《オウカ(半分)》
《半分……?それが名前か?》

 話には聞いていたが、ウィークリングがロクな扱いを受けないというのは本当だったのだなと思い、スーは心を痛めた。
 眉間にしわを寄せて黙り込んだスーに、少女は問う。

《貴方は、私を殺すの?》
《なに?》
《貴方は人間で、私はバルバロスだから、殺すのではないの?》
《殺すために命を救うわけがないだろ!》

 スーは思わず語気を強めて言い返してしまい、少女を少しびくつかせてしまった。咳払いをし、落ち着いて話を続ける。

《私は、お前を連れて帰る。》
《連れて帰る……?どうして……?》
《それはその、なんだ、あの……》

 言い淀むスーに少女は不審そうな顔をした。このままではまた、食料にするためだとか、売り飛ばすためだとかいったような、あらぬ誤解を生むと瞬時に悟ったスーは、意を決して言う。

《お、お前を……お前を私の娘にするためだ》
《む、娘……?私を……?》

 少し、いや、かなり照れくさそうにしてそっぽを向いたスー。少女は口をパクパクさせて驚いている。

《で、でも私はバルバロス……》
《別に構わない》
《しかも出来損ないで……》
《人族にも完璧な奴は居ない》
《それに、それに……》
《いいんだ!》

 スーは立ち上がって少女の肩を強く掴んだ。
 そして目をじっと見ながらハッキリと話す。

《子供はそんなこと考えなくていいんだ!お前がどんな目に遭ってきたかは、敢えて詮索しない!でもな、これからはそんな目には私が遭わせはしない!子供は自由でいて、それを守るのが大人なんだ!》
《……!!》

 こんなことを言われたのは、これも少女にとって初めてのことであった。今まで自分が実の母に言われてきたことは、血の重責とその価値の事だけであった。自分にできることはそれに報いることだけで、そうすることだけが救われる道だと信じてきた彼女にとって、スーの言葉は衝撃的であった。

《……ッ!す、すまない。熱くなってしまった》

 スーはハッとして少女から手を離すと、椅子に座り直してうつむく。
 少女はそんなスーのことをじっと見つめていた。

 寝室はしんと静まり返ってしまった。
 しかし直後、静寂を破る者がいた。アルゴスである。扉をバンと開けた彼は、スーに言う。

「おい、準備ができたぞ」
「ああ、今行く」

 スーは立ち上がり、少女を抱きかかえた。
 少女は少し驚いたが、素直にそれに従った。

《どこに行きますの……?》
《ん……お見送りだ……》
《お見送り……?》



 少女が連れられたのは城の中庭だった。ここもまた彼女にとっては初めて足を踏み入れる場所で、場内の窓から少し覗くぐらいの事しかしたことがなかった。
 その中庭の中心には木材で何かが組み立てられており、その手前には台があった。そしてその台の上にあるものに、少女は見覚えがあった。

《アメース……?!》
「ちょっ……あぶねっ……」

 スーに抱きかかえられていた少女はそれを見ると暴れて腕から飛び降り、台へと駆け寄った。

《アメース!アメース……!》

 少女は台の上のものに呼びかけるが、当然返事はない。他の皆はその姿をじっと見ていた。
 少女がシクシクと涙を流し始めたのを見て、スーは言う。

《こいつは石になったお前に寄り添って死んでいた。なにがあったのか知らんが、お前にとっても大切な者なんだろう》
《アメース……この子は、私との約束を守って……》
《そうか……》

 スーはそう言うと少女の頭をそっと撫でた。

《今からこいつのお見送りをする。それでちゃんとお別れをするんだ》
《お別れ……?》
《そうだ、こいつはお前にずっと寄り添っていたんだ。その魂はきっとまだお前に寄り添っていると思う》
《アメースが……私に……》
《だけどな、やっぱりお別れはしなきゃいけないんだ。どんな魂も、いつかは天に還って生まれ変わるんだよ》
《……》
《次に生まれて来るときに、こいつがもっと幸せでいられるように……そのための祈りの儀式だ。……ちゃんとできるか?》 

 スーの言う死生観は少女にとって馴染みはなかった。しかし、アメースの幸せを祈る気持ちは彼女の中にも確かに存在した。
 葬送とは死者のためであり、遺された者達の為でもあるのだ。

《私……この子のために、祈ります》
《ん……良い子だ》

 スーは懐から紙を取り出し、少女に渡す。あのコボルトの絵だ。
 絵を受け取った少女の目にまた涙がうかぶ。しかし少女は涙を拭い、気丈に振る舞おうとしていた。

《こいつが持ってたものだ。これはどうする?》
《もともとこの子にあげたものです。だから、この子にずっと持っていてほしい……》
《わかった、返してやろう》

 スーはコボルトの懐に絵を入れてやると、その身を抱きかかえて格子状に組まれた木の中に入れた。そして少女の手を引き、木の前に一緒に立つと、着火された松明を持ったアルゴスが歩いてきた。
 スーはそれを受け取り、真剣な面持ちで少女に話す。

《これからこいつを天に還す。お前と一緒にやるんだ》

 スーは少し屈むと松明を少女に渡し、寄り添うように震える手を掴んだ。
 そして松明を組み木に近づけ、着火させた。
 組み木についた火はだんだんと大きくなり、やがて炎になるとコボルトの遺体を包み込んだ。
 煙が立ち上り、その身は灰となり風に流されていく。

その様子を見ながら少女は、生まれて初めて祈りを捧げた。

《さようなら……アメース……》

 スーと仲間たちもそれを見て、それぞれの信じる神に祈りを捧げた。
 そしてスーは呟く。

「次はダルクレムの元になんか行くんじゃねえぞ……」



 "お見送り"が終わり、スーたちは城から撤収する準備を始めた。
 城門の外につけた馬車に数々の戦利品や元々持っていた戦いの道具を積む。
 初めて城の外へと一歩踏み出した少女はキョロキョロと落ち着かない様子でそれを見ていた。

《おい、これを着けろ》
《これは……?》

 スーは予備の眼帯を取り出すと、少女の蛇の目を隠すように着けさせた。スーの着けているものと同じく、眼帯にはミリッツァの聖印が印されていた。

「へ〜、似合う似合う。お揃いでかわいいねぇ〜」

 その様子を見ていたクローネがニコニコしながら話しかけてきた。

「人族領域に入るなら隠しておかないと悪目立ちするからな。いや、これも聖印のせいで目立つけどよ」
「そういえば」

 クローネが唐突に話題を変えてきた。

「この子の名前ってなんていうの」
「あー、オウカって言ってたが……あんまりいい意味の名前じゃないな……」
「そういえばウィークリングってそうらしいもんね……」
「うーん……」

 スーは少女の方に目をやると、物珍しそうにキョロキョロする彼女が目に入った。
 少女の美しい薄桃色の髪が風になびくのを見て、スーはふと故郷で見た花を思い出した。
 オウカ。桜花……。
 そして呟いた。

「散る花よりも、残る花を愛でよ……」
「え?」
「遠い異国の言葉だ。よっし!」

 スーは少女の方を向き、膝をついて目線を合わせて話しかけた。

《お前に、新しい名前を授ける》
《新しい……名前?》
《そうだ、名前というのは、そうあってほしいという祈り、私の願いだ》
《願い……》
《お前は気高く強く美しい心を持つ者、そして、その運命に逆らい残った花……》

《そう、お前の名は……》

 スーは自らの願いを込めた名を少女に与えた。
 かつて出来損ないの烙印を示す名と血の呪縛に苦しんでいた少女"オウカ"はもうこの世に居ない。
 今ここに居るのは純粋なる祈りによって祝福を受け、新たな一歩を踏み出した少女。その名を……。

「ザンカ」


【帰路】

 撤収の準備が終わり、ザンカはスーに抱きかかえられ馬車に乗せられた。彼女は馬車に乗るのは初めてのことであり、そもそも馬というものを見ること自体が初めてであった。

 大量の戦利品と大人4人に子供1人を積載したこの大きな馬車を牽引するのは2頭の馬だ。よく躾けられたこの馬たちはペイルの号令によって足を踏み出す。

 馬車の後ろの柵に手をかけ、遠ざかる景色をザンカはじっと眺める。彼女を小さな世界に閉じ込めていた巨大な牢獄は、馬が歩みを進めるほどに小さくなっていき、やがては深い森に隠れて見えなくなった。
 スーはその様子をじっと黙って見守っていた。



 スー達の目的地はランドール地方の東側に位置するハルシカ商協国領、ウルシラ地方との境界よりさほど遠くない場所に位置する孤児院だ。
 ランドール地方南部の山岳地帯に近い場所にあったクロタラス城から孤児院まで向かうには馬車で2週間程を要する。

 長丁場の旅の途中途中で、馬車の移動する時、また野営しているときなど、暇な時間があればスーはザンカに交易共通語を教えていた。
 城から出て初めての野営の夜のこと、ぱちぱちと音を立てる焚き火の前に座り、スーは自分の膝に座らせたザンカにバジリスク語で話す。

《言葉を覚えるにあたって、お前に最も大事な言葉を教える。いいか、私に続けて言ってみろ》

 スーはザンカにも分かりやすいようにゆっくりと交易共通語で話す。

「これは、なに?」
「こ、コレハ、ナニ……?」
《そう、上出来だ。偉いぞ》

 頭を撫でながら褒めてくれるスーに、ザンカは少し照れくさそうにした。

《よし、じゃあ次は実際に使い方を学ぶぞ。これをあそこにいる鎧を着たやつに見せて同じことを言え》

 スーはテントを設営しているアルゴスを指差してそう言うと、ザンカの手に小さな赤くて丸い飴を握らせた。
 ザンカはスーに言われた通りにトテトテとアルゴスの方に歩いていった。

「ん?どうした?」
「コレハ、ナニ?」
「……?飴……?」

 突然飴を見せられて問われたアルゴスは、その意図がわからず困惑して気まずそうにする。ザンカもここからどうしていいのか分からず、助けを求めるようにスーの方を振り返ってみると、彼女はニヤニヤしながら手招きをしていた。
 それを見たザンカは、またトテトテとスーの元に戻っていった。

《アイツはなんて言ってた?》
「アメ……?」
《そう、アメ、それがこの丸い物の名前だ》
「アメ……」
《さっきの言葉を使えば物の名前を教えてもらえる。初めて見た物だとか気になる物を見つけたら、私や仲間たちに見せてそう言うんだ。いいな?》

 ザンカは頷いた。そしてさっき手渡された飴を手の上に乗せてまじまじと見る。少しぺとぺとし始めたこの丸いものから漂う香りが彼女には気になっていた。

《それが気になるか?そうか、食べたことないんだな》
《これは食べ物なんですの?》
《そうだ。食べてもいいぞ。ちゃんと私の行ったとおりに出来たご褒美だ》

 ザンカは恐る恐る飴を口に入れた。すると口のなかにふんわりと豊かな香りが広がり、優しい甘みが舌を包んだ。これはイチゴの飴で、彼女にとって初めての味であったが、それはとても美味しく、そして衝撃的であった。
 目をまんまるにして味わうザンカを見てスーは言う。

《"オイシイ"だ。美味い物を口に入れたときはそう言う》
「オ、オイシイ……」
「だろ?私も好きなんだ」

 しばらくして、設営や荷物の整理をしていた仲間たちも焚き火の前に揃った。

「おい、ガキの教育に俺を巻き込むなよ」
「固いこというなよォ〜アルゴスゥ〜」
「そうよアルゴスくん、この子のためよ」
「アルゴス、子は宝だ……」

 ザンカの事になると他二人までスーの側につくようになったのでアルゴスは苦い顔をしたが、彼も別に子供が嫌いというわけではなく、馴染みがないためちょっとだけ苦手なだけであった。
 4人の会話を黙って聞いていたザンカだったが、急に目の前を指差して言った。

「コレハ、ナニ?」
「ん?焚き火、かな」
「タキビ……」

 クローネが優しく微笑みながら答えた。
 ザンカはもう一度焚き火の中にあるものに指を向けて話す。
 するとアルゴスが答えてくれた。

「コレハ、ナニ?」
「これは……鍋か?」
「ナベカ……」
「あ、違う違う!鍋!ナベ!」 

 ザンカが間違った言葉を覚えそうになったのでアルゴスは慌てて訂正する。

「ナベ?」
「ナベ」
「言ってたわりにはしっかりと協力してくれるじゃんかよアルゴスゥ〜!」
「う、うるさい!」

 アルゴスは照れくさそうだ。
 しばらくして鍋が沸騰してきたので、ペイルは鍋の中の物をすくい、皿に注いで皆に渡した。もちろんザンカにも。

「……熱いので気をつけるように」
「コレハ、ナニ?」
「スープ……」
「スープ」

 ペイルは淡々と返すが、普段無表情な彼もこの時は少し微笑んでいたように見えた。

 ザンカは匙を使ってスープを静かに一口飲んだ。穀物と少しの野菜と肉が入った粥に似ているこのスープは、昔に食事会で振る舞われたスープよりも少し濃い味付けで、アメースのコボルト料理の事を思い出した。
 顔をほころばせたザンカはペイルを見て言う。

「オイシイ」
「……そうか、それはよかった」
「あら、ちゃんとそういうこと言えるのね〜えらいえら~い!」
「お礼の仕方も教えたらどうだ?」

 アルゴスの提案にスーはやれやれといった態度で返す。

「アタシは子供に忖度させたくねェからな。"ありがとう"はザンカが自分でどう言えばいいのか聞いてくるまで教えねェのよ。それに自分から聞くようになったほうが教育になるしな」
「へぇ意外と考えてるのね〜流石母なる神の御使い!」
「意外と、は余計だろうよォ!」

 皆は談笑しながら食事をし、身体を休めた。
 食事が終わり、寝るまでの間もザンカは質問を続けた。

「コレハ、ナニ?」
「これはね、薪!」

「コレハ、ナニ?」
「これは、ランタン、だ」

「コレハ、ナニ?」
「……テント」

「コレハ、ナニ?」
「毛布。……さて、もう寝る時間だぞ。とっとと寝やがれ」

 こうして彼女はすこしずつ言葉を覚えていった。質問し、教えてもらう。スーと仲間たちが会話をしているのを見て、真似をする。
 間違って覚えることもあったが、語学堪能なスーは教えるのも上手く、バジリスク語で意思疎通が出来るのも相まって、ザンカはみるみるうちに言葉を覚えていった。



 そして2週間後、長旅ではあったが、ついに目的地に近づきつつあった。

 ペイルの信仰するハルーラの加護だろうか、不安定な情勢や蛮族の勢力の大きさによって危険な土地とされているこのランドールでの旅で、幸運にもスー達は特段の問題に遭遇することもなくすんなりとここまで来ることができた。

 小高い丘を越え、開けた土地に大きめの建物が見えてきた。
 ザンカは覚えたばかりの交易共通語で話す。

「オカアサマ、あれは?」
「あれがお前の、新しいお家だ。」
「オウチ……」

 馬が歩みを進める度に、その"お家"は大きくなっていく。
 ザンカの目の前にある建物は、かつて自分が住んでいた城よりも小さかった。
 しかし、この新しい"お家"のある景色は、とても広く大きく見えた。


【5歳のザンカ】

 ハルシカ商協国から徒歩で3時間ほどの場所にあるこの孤児院は、同国の神殿地区に存在するミリッツァ神殿に所属する施設である。
ハルシカ商協国にはアルフレイム大陸において人族に信仰されているうちの殆どの神の神殿があるとされている。
 各神殿は各々の考え方によって社会福祉やインフラの様な役割を買っているのであるが、ミリッツァ神殿はその信仰の在り方から身寄りのない女性や子供の保護に注力しており、この孤児院はその活動の一環で設立されたうちのひとつだ。交易で栄えてはいるものの、格差や治安面で不安定なハルシカにおいて、孤児の数は年々増えており、その対応を政府は殆ど行わずに神殿に丸投げしているというのが実情であった。

 街道から少し外れた場所の見通しの良い丘陵地帯の水源近くに建てられたこの孤児院は、2棟の居住施設と小さな礼拝堂を備え、また付帯する土地には畑が拓かれていた。
 スー達の乗った馬車が孤児院に近づいていくと、いくつもの物干し竿にかけられたシーツが風になびいてひらひらと揺れているのが見えた。
 馬車の音が耳に入ったのだろうか、外で遊んでいた子供たちが一斉に音のする方に顔を向け、わいわいと騒ぎ始めた。

「馬車だ!」
「きっとスーお姉ちゃんだ!おーい!おーい!」

 その声を聞いたアルゴスがじっとりした目でスーを見ながら口を開く。

「お前、まだお姉ちゃんって呼ばせてたのか…。もういい歳だろ…」
「なんか文句あんのォ?」
「いや、別に…」
「ならいいだろうよ別に。しかしまあ相変わらず元気だねェガキ共は」

 孤児院の建物付近に馬車を止め、スーと3人の仲間は馬車を降りた。すると子どもたちがぞろぞろと集まってきた。子供たちの年齢はバラけていたが、おおよそ4歳から12歳ほどの子供が数人に、中には年齢の高い子供に抱かれて2歳ほどの小さな子供までいた。子供たちの大半は女の子であったが、男の子も少し混じっていた。

「ようガキ共!元気だったか?」
「スーお姉ちゃん!おかえりなさい!」
「冒険のお話聞かせて!」
「何やっつけたの!?」
「お土産は〜!?」
「うんうん、元気そうだな。…っておい!鎧にベタベタ触るな!手垢がつくだろォ〜!」

 子供たちに群がられている自分の母の姿をザンカは馬車の中から覗いていた。彼女にとって自分と同じぐらいの子供を見るのは初めてのことであったし、それがこれ程の数いるとなれば気圧されるのも当然であった。

 馬車から出て行くことが出来ずに様子をじっと見ていたザンカであったが、そのうち子供の一人と目が合ってしまった。その子供はザンカと同じぐらいの年齢の少女で、茶髪のポニーテールをしていた。
 咄嗟に物陰に隠れてしまったザンカだったが、その身体の半分ほどは隠しきれていなかった。ポニーテールの女の子はザンカを指差してスーに問う。

「スーお姉ちゃん、あの子はだあれ?」
「ん、ああ、あの子はお前たちの新しい家族だ」

 母は馬車に向かって歩いてきて、ザンカを抱きかかえようとする。ザンカは少し嫌がって抵抗するが、母の豪腕の前に観念する他なかった。
 子どもたちの前に連れ出されたザンカは母の後ろに隠れようとしたが、手で肩を掴まれて前に出されてしまった。すると、子供たちはわらわらとザンカの周りに集まる。
俯いてどぎまぎするザンカに母は言う。

「ほら、自己紹介だ。さっき教えたろ?」
「わ、ワタクシ、は…」

ザンカはたどたどしく小さな声で習ったばかりの交易共通語を話す。

「ワタクシは、ザンカ、です…。よ、ヨロシク、オネガイシマス…」

 そう言い終わったあとザンカは一瞬時が止まった気がした。今まで味わった事のない感覚で、恥ずかしいことをしているつもりはないのに何故か不安でいっぱいになり、顔が熱くなってしまっていた。
 だが次の瞬間、そんなザンカをお構いなしに子供たちはわいわいと話しかけてきた。

「ザンカちゃんっていうんだ!」
「よろしくね!」
「髪きれい!」
「どこから来たの?」
「何歳?」
「おめめはどうしたの?痛くない?」
「ね、一緒に遊ぼ?おままごと好き?」
「ア…わわっ…」

 一斉に喋りかけてくる子供たちにザンカは両手を顔の前に出して驚き、助けを求めるように母の方を見た。母はにっと笑顔で返すと、子供たちを静止した。

「あー、そこまで!遊ぶのはもうちょっとしてからな。これからこの子は院長にご挨拶しなきゃいけないんだ」
「えー!」
「えーじゃない、ほら!散れ!散れ!」
「キャー!」

 きゃっきゃと声を上げて走っていく子供たち。ザンカは一息ついたあとスーに抱きついてしまった。スーはザンカの頭を撫でながら褒める。

「ん、上出来だったぞ。まあ少しずつ慣らしていけばいい」
「私達のときはそんなに人見知りしなかったのにね〜」

 微笑みながらクローネもザンカの頭を撫でた。実際、旅の早いうちからザンカは仲間たちとも打ち解けて、たどたどしいながらも会話をしたりしていたのだった。

「意外と子供なんてそんなもんだ。大人には頼って甘えられるが、初めて会った対等な相手にはどうしていいのか分かんないんだろ」
「私はそんな感じだったかな〜。100年ぐらい前のことだから忘れちゃった」
「そういや、お前ババアだったな…」
「ひど〜い!エルフの中ではまだ若いもん!」
「まあ、それはさておき、お前らどうするの?泊まってく?」

 スーの問いかけにアルゴスが返す。

「いや、このまま引き返してハルシカで戦利品を捌いてくる。そこで泊まりだな。捌くのには数日はかかるだろうが、まあ終わり次第分け前は持ってくる」
「そうか、世話かけたな」
「気にするな。ザンカのためだ」

 スーたちは孤児院に来るまでにハルシカの近傍を通ったのだが、大勢の人の前にザンカを連れていけば彼女が混乱すると判断してそのまま通過していた。実際、子どもたちに囲まれただけでこうなってしまうザンカのこの有様を見れば、彼女の判断は間違っていなかったといえるだろう。

 アルゴス達は馬車で孤児院を発つ前にザンカに別れの挨拶をしていった。

「じゃあね、ザンカちゃん。また会いに来るからその時はよろしくね」

 クローネはそういうとザンカにハグをした。旅の中で彼女がとてもよく可愛がってくれていた事を思い出し、ザンカはハグを返した。

「…この小さき命に、ハルーラの導きがあらんことを」

 膝を立て目線を合わせて話すペイル。無機質な喋り方をする彼が、本当はとても優しい心を持っていることを知っていたザンカは彼の頬にそっと手を触れて、自分の気持ちを声にせずに表した。

そして最後はアルゴスが挨拶をしたのだが…。

「う、うぅ…。元気でな、ザンカ…」
「おいおいアルゴス、なんだその顔…」
「うるさいっ!ぐすっ…。ザンカ!このクソアマがお前をいじめてきたら俺に言いに来い!いいな!ぶっ飛ばしてやるから!」
「おい!アタシの娘に変な事教えんな!!」

 子供が苦手だった彼が意外にも一番別れを惜しんでいたらしく、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら別れを告げていた。泣きながらスーと取っ組み合いをしているアルゴスにザンカは近づいて話しかける。

「アルゴス…」
「ど、どうした?ザンカ」
「あ、アリガト…アルゴス…」
「…ざ、ザンカ〜!」

 感極まりすぎたアルゴスはやっぱり泊まると駄々をこねはじめたが、スーにぶん投げられて気絶した後、ペイルによって無理矢理馬車に積まれた。そして彼らはその場をあとにした。
 ザンカは遠ざかっていく彼らが見えなくなるまで手を降っていた。

「ったく、自分で数日後また来るって言ってたのによォ…。」

 スーはやれやれといった風に見送っていたが、そんな彼女もどこか寂しそうな顔をしているようにザンカには見えた。

「よし、院長にご挨拶に行くぞ。この騒ぎで出てこなかったし、寝てるかもしんねェけどな」
「はい、オカアサマ」

 二人は建物に入り、院長室へと向かう。木造のこの建物の内装はかなりしっかりしていたが、ところどころに落としきれなかった落書きがあったり柱に傷があったりと、あまり綺麗な状態ではなかった。
 人族の住まいに初めて足を踏み入れたザンカは周りをキョロキョロと観察しながら歩く。
 さほど長くはない廊下の突き当りに院長室はあった。スーは扉をコンコンとノックするとその向こうからどうぞという返事が聞こえ、スーは扉を開きザンカの手を引いて中に入ると、陽気な声で挨拶をした。

「お久しぶりで〜す!院長〜!」
「外が騒がしいと思ったら、貴女でしたか、スー」

 そこにいたのは机を前にして座る壮年の女性だ。ミリッツァ様式の礼服を着た彼女の名前はパルメ・グラネットといい、元はハルシカのミリッツァ神殿で司祭をしていたが引退して孤児院の院長を任されるようになった人物であった。

「長い旅でしたが、なんとか完遂しましたよォ。この手でバジリスクをぶっちめてきました!報酬は後日仲間が持ってきまっす!」 
「まったく貴女は…。貴女が冒険者であるおかげで子供たちが飢えていないのは感謝しますが、神の御業を代行できる神官がフラフラしているいうのは考えものです。おかげでどれほど苦労したか…」

 ミリッツァ神殿によって運営されているこの孤児院ではあるが、実際のところ運営資金的にはスーの冒険者としての稼ぎがかなりの比重を占めていた。
 慈善事業を生業とする神殿は信心深い信徒からの寄付が収入の大半を締めているのだが、ハルシカにおいては多くの神殿があることから大口の寄付は各神殿でバラけてしまっており、ミリッツァ神殿も例外ではなく、資金繰りは難航していた。
 神官としての素行が悪く、神殿にもあまり顔を出さないスーの事を疎ましく思う司祭も多かったが、彼女の冒険者としての稼ぎをアテにせざるを得ないことと、何よりも神の声を聞くことが出来る選ばれし神官であるという事実の前に黙認する他なかった。

「苦労?アタシがいない間に誰か病気でも?そういえばメアリの姿がなかった…」
「いえ、メアリは貴女が旅に出てる間に里親が見つかって養子に貰われていきました。」
「そうか!ならよかった!」

 胸を撫で下ろし、本気で安堵している様子のスーに院長はため息を漏らす。院長はスーの評判の悪さに頭を悩ませてはいるが、本当に子供のことを思って行動している彼女の事を憎んだりすることは出来ずにいた。

「それで…貴女が連れているその子は?」
「アタシの娘だ。バジリスクの城で拾った」
「えっ…」

 スーの発言に院長は驚きを隠せないようだった。

「バジリスクの城で、その眼帯…ということは…」
「この子もバジリスクだ。ウィークリングだけどな。」
「貴女という人は本当に…」

 額に手を当てて眉間にシワを寄せる院長と、それに真剣な面持ちで対峙するスー。
 ザンカは母と目の前の女性の話を半分も聞き取れてはいなかったが、彼女たちが自分のことでモメている事をなんとなく察した。
 自分の存在で母に迷惑をかけたくない、そう切に願ったザンカは、勇気を出して口を開く。

「お、オカアサマは、ワタクシを、たすケテ、して、くれました…」

 気丈に振る舞い、たどたどしい交易共通語で自発的に話し始めたザンカにスーは少し驚いた。そして院長はザンカの目をじっとみながら話を聞く。

「ワタクシは…イシ、でした。オカアサマ、は、ワタクシ、を…タスケテ…ココ、を、オウチに…」
「…」

 少ない語彙で必死に話すザンカ。院長は黙って聞いていたが、途中で席を立つと机の前に出て、目線をザンカに合わせて屈むと、彼女の手を取って言った。

「貴女、お名前は?」
「ザンカ…。オカアサマが、ナマエ、くれました…」
「ザンカ…いい名前をもらいましたね」
「ワタクシ、は、バルバロス、です…でも…」
「いいのですよ」

 ザンカの言葉を遮るように院長は話す。

「私達の神、ミリッツァも元はバルバロスだったと言われています」
「ミリッツァ…?」

 ミリッツァ、ザンカには聞き覚えのある名前であった。かつて住んでいた城の図書館で読んだ本にあった神の名で、バルバロスの裏切り者と記されていたのを彼女は思い出した。

「ミリッツァ…」
「知っているのですか?」
「なに?教えてはいなかったけどな…」

 驚くスーをよそに院長は話を続ける。

「ミリッツァは貴女と同じくバルバロスでしたが、ライフォスに導かれて今は子供たちを守る神として信仰されています。貴女の事もきっと守ってくれるはずですよ。それに…」
「院長〜、そんないっぺんに話しても分かんないって!通訳するからゆっくり話してくれ!」

 ザンカは母の口を通して院長の言葉の意味を知る。彼女がかつて読んだ本の中で、ミリッツァは子供のためにバルバロスを裏切った神と記されていた。あのとき感じた心の痛み、子供のために裏切りまで働いたミリッツァと自分の生みの親を比べてしまった自分のことも彼女は思い出していた。
 しかし今、自分の胸のうちにあるのは悲しみではなく、言いようのない不思議な感覚だ。奇妙な運命のようなものに導かれて出会った今の母親の姿は、かつて唾棄しながらも心の底で憧れていたミリッツァと重なっていた。

 院長は立ち上がり、スーの目を見て言う。

「この子は優しく、そして賢い子のようです。母親の貴女に似てね」
「院長…」
「この子を導いてあげなさい。かつて貴女を導いたミリッツァのように」
「…ありがとうございます」

 院長にとっても、蛮族の子だからといってザンカを受け入れないなどという選択肢はなかった。むしろこの子を導こうとするスーの姿勢に成長を感じて誇らしくすらあった。しかし…。

「でも自分でお母様と呼ばせているのはどうかと思いますよ。スー…」
「ちっ、ちげえよォ!呼び方はクローネのやつが教えたんだ!お嬢様っぽい方が可愛いとか言って!」
「ああ、まあ…確かに気品のある子ですけどね…」

 その後、院長室をあとにした二人は同じ棟の別の部屋に行った。部屋の前で母が言う。

「ここがアタシの部屋。しばらくはここでアタシと一緒に寝起きするんだ」

 母が扉を開ける。するとなんというかホコリっぽいようなにおいが立ち込めてザンカはむせてしまった。

「けほっ、けほっ…」
「あ、あれ〜?こんな散らかってたんだっけ〜?」

 目の前に広がっていたのは本やら戦いの道具やらが乱雑に散らかった部屋だった。本当にここで生活するのかと目を疑ってしまい、思わずザンカは母の顔を見る。

「あ〜…そんな顔で見るなって…。すぐ片付けるから…」

 母はとりあえず鎧を脱いで手持ちの荷物と一緒に床に置くと、窓を開けて換気をする。そして部屋を片付け始めた。それを見たザンカも床のものを拾って手伝おうとする。

「あー、アタシがやるから無理して手伝わなくてもいいぞ。危ない道具とかもあるしな」
「ワタクシ、手伝イ、したいです」
「そうか?じゃあそうだな…本を1箇所に集めておいてくれ」

 ザンカは母の言いつけ通り、散らばった本を集めて1箇所に集めていく。母が読んでいたであろうこの数々の本はどれも分厚く、そしてザンカには読むことができなかったが様々な言語で書かれているのが分かった。

 1時間ほど片付けをして、ようやっと快適に生活できるぐらいには片づいた。

「ふー、こんな事なら普段から片付けとくんだったな…。でもお前のおかげで早く終わったよ」
「オカアサマ」
「ん?」

 ザンカは母の頭を指差したあと、自分の頭を払うジェスチャーをした。母は自分の頭を払うと、ふわりとホコリが舞った。かなりホコリの多い部屋を掃除していたので二人ともホコリまみれになっていたようだ。

「あー、こりゃたまらんな。よし、お風呂に入るか。いい時間だしな」
「オフロ?」
「えっと、温かい水に入って身体を洗うんだ。やったことないか?」

 ザンカには思い当たる経験があった。蛮族の社会では水浴びを含め、あまり入浴の習慣はなかったが、上級蛮族である自分の親は綺麗好きで沐浴の習慣があったし、気候的に寒い地域であったため、冬場はお湯を用意して浴びることもあった。ザンカも例外ではなく、生みの母の言いつけで身体を洗うことは時々あったのだった。

「アル」
「そうか、なら話が早い。うちの風呂はなかなか高性能だぞ?」

 母は二人分の着替えを用意するとザンカの手を引いて浴場へと連れて行った。

 それは小さな浴場であったが、なにやら配管がそこかしこに伸びており、風呂釜とシャワーに接続されていた。

「水は…入ってるな。じゃあ沸かすぞ」

 母が壁についた物体に手を当てると、それはブンブンと小さく音を立て始めた。それから配管が震え始めて浴場が少し暖かくなった気がした。しばらくした後、母が浴槽の上のバルブを回すとお湯が勢いよく出てきた。ザンカにはこれの原理が全く理解できなかったので目をまんまるにして見ていた。

「これは昔行った遺跡から拝借してきた魔動機だ。デカくて大変だったなァ持ってくるの。仲間からもボロクソ言われたし。アルゴスに工事させたら機嫌悪くするし…」

 苦労話をする母だったが、ザンカはこの装置に興味津々でよく聞いていなかった。そんな彼女に気がついた母は彼女を抱き上げて脱衣所まで戻りながら話す。

「よし、じゃあ一緒に入るぞ」
「イッショに…」

 ザンカは誰かと入浴をした経験がなかったので少しドキドキした。母はザンカの眼帯を外して服を脱がせたあと、自分も同じように眼帯を外し服を脱ぐ。しかしその母の姿を見てザンカはたじろいでしまった。
 服を脱いだ母の身体は傷痕だらけであり、見ているだけで痛々すら感じるそのひとつひとつが過去の戦いの激しさを物語っていた。特に目を引くのが腹部の大きな傷と、眼帯の下の眼の傷だった。

「お、オカアサマ…イタイ…?」
「ん?ああ…すまんな、見苦しい身体で。もう痛くはないから気にするな」
「でも…」
「優しい子だなお前は。でも気にしなくていいって言ってんだろ。ほら、入るぞ」

 母に手を引かれて浴室に入ると、母はお湯をかけて身体を洗ってくれた。そして浴槽に二人で入ると、お湯はざばりと音を立てて溢れていく。
 お湯に浸かるという形で入浴することはザンカにとって馴染みのないことであったが、丁度いい温度のお湯は心地よく、ぽかぽかと心まで温めてくれるようだった。しかし、やはり母の身体の傷が気になってしまい、ザンカは無意識にその傷を撫でてしまっていた。

「あははは、くすぐったいぞ!」
「あ、ゴメンナサイ…」
「いや、いいよ。気になるよな、やっぱり」

 母は少し首をもたげて天井の方を向きながら傷の事を話す。

「この眼とお腹の傷はな、冒険者になってしばらくした頃に蛮族にやられたんだ。その頃はまだミリッツァ様の声も聞こえてなかった」
「ばん…ぞく…バルバロス…」
「おっと、そんな気にするなよ。お前は優しい子であいつらとは違うんだ」
「はい…」
「ん、いい子だ。…それでまあ、本当にその時は死ぬ〜!って思ったんだけど、ミリッツァ様の声が聞こえたと思ったら傷が塞がって、アタシは生き残ったんだ。」
「ミリッツァ…」
「そう、ミリッツァ。でも結局片目は戻ってこなかったし、お腹の方は…」

 そこまで言うと母は悲しい顔をした。それが何故なのかは分からなかったが、母のその顔を見ているとザンカは胸が締め付けられて、そして不意に母に抱きついてしまった。
 母はそんなザンカを茶化して言う。

「おいおい、どうしたんだ?急に甘えん坊になって…言っとくけどアタシお乳でないからな!」
「オカアサマ、は、ワタクシと、オナジ…」
「な…」

 ザンカの優しい言葉に、スーは驚いてしまった。酷い人生を歩んできたにも関わらず、これほどまでに他者を慮り慈しむ心を育んできたこの子の強さに、彼女は敬服してしまったのだった。

「…本当に優しい子だな、お前は。アタシには勿体ないぐらい。さあ、のぼせないうちに上がるぞ」

 母はそう言うとザンカと一緒に風呂から上り、身体を拭いてくれた。
 ザンカは用意された着慣れない服に着替えると、母と一緒に部屋へと戻った。

 その日の夕食は母の部屋でとる事になった。それは、まだ人馴れしてないザンカを気遣った母の判断だった。

 食事を終えて寝るまでのしばらくの間、母はまた言葉を教えてくれた。

「明日からは他の子供達と一緒に過ごすんだ。不安だろうが少しずつ慣らしていくんだぞ」
「ハイ、お母様…」
「大丈夫、みんなお前のことを受け入れてくれるよ」

 その後、ザンカは母に抱かれて眠りについた。
 明日から始まるという新しい生活は、今の彼女には想像さえもできないのであったが、母の言葉を信じて精一杯頑張ろうと彼女は胸に誓うのであった。


【花と葉と】

 ザンカは目を覚ましたとき、自分が今どこにいるのか一瞬分からなかった。木でできた見慣れない天井に不安になったが、ふと横を見ると母の寝顔が見えたので、自分が母の部屋で寝ていたのを思い出して胸を撫で下ろした。

 ザンカはベッドから降りると、カーテンを開けて窓の外を覗く。庭木の葉は風にそよぎ、鳥はさえずる。気温は少し寒かったが春の朝の日差しは暖かく、キラキラと輝いて見えた。

「う〜ん…まぶし…」

 日差しを浴びた母が身をよじらせて伸びをした後、また寝る体制に入った。彼女は基本的に寝起きが悪いようで、ザンカを連れ帰る旅の中でも度々起きるのを渋ってはアルゴスたちに無理矢理起こされていた。
 それを思い出したザンカは、その時の真似をして母の身体に手を当てて揺さぶってみることにした。

「お母様。お母様」
「ん〜分かった分かった…起きるから…」

 そういいながらも母が起きるのには時間がかかったが、渋々起き上がった母は目を擦りながら欠伸をする。

「お母様。おはようございます」
「あー、お前早起きだったな、そういえば…えらいえらい…」

 母はそう言いながらグシグシとザンカの頭を撫でた。

「お前、髪の毛ボサボサじゃないか、長いから大変だなもう…」
「ボサボサ?」
「擬音の説明って難しいな…あっ、そうか」

 母は姿見の前にザンカを連れて行って髪の毛の様子を見せながら説明する。二人とも寝相が良くないのか髪の毛はめちゃくちゃになっていた。

「ほら、ボサボサ。わかったか?」
「ボサボサ…!」
「わかったみたいだな。じゃあサラサラにしてやるか」
「サラサラ?」

 母はブラシを取り出すと、ザンカの髪を梳かしてくれた。今まで自分で髪を梳かすことの多かったザンカだったが、母にやってもらうと何か気持ちが良い気がして嬉しくなり、表情はニコニコしてしまうし、足もぱたぱたしてしまうのであった。

「髪の毛は綺麗にしてた方がいいぞ。モテるからな。…よし、こんなもんか」
「…!サラサラ!」
「ん、サラサラが分かったか。この短時間で2つも言葉を覚えてしまったな。よしよし」

 ザンカが言葉を覚えるスピードは目を見張るものがあり、ここ数日はバジリスク語を使わなくてもかなり円滑に意思疎通ができるようになっていた。母は自分の教え方の上手さを皆に誇っていたが、本心ではそれよりもザンカ自身の学ぶ姿勢を嬉しく思っていた。

 しばらくして母が自分の髪も梳かし終わった頃、部屋の外から漂うなんだか良い香りにザンカはそわそわしていた。

「パンの焼ける匂い、朝飯の時間だ」
「パン?」
「パンは旅の最中に食べたふかふかの…いや、アレはカチカチだった。まあ見ればわかる。それよりも朝飯はみんなで食べるからな。改めてご挨拶しようと思うが、出来るか?」
「ごあいさつ…出来ます」

 ザンカは昨日子どもたちに囲まれた時のことを思い出すと、なんだか不安な気持ちになったが、母のためと思って意を決した。

 母に連れられて食堂まで来ると、他の子どもたちは既に食卓に集まっていた。
そこにいたのはザンカと同い年ぐらいの女の子が4人と男の子が2人、7歳ぐらいの女の子が2人に12歳ぐらいの女の子が1人、そして2歳ぐらいの赤ん坊が1人。
 部屋に入るなり全員の視線が一斉に向いたのでザンカはまた気圧されてしまいそうになったが、ぐっとこらえて皆の方を見返した。

「あっ!ザンカちゃんだ!」

 真っ先に口を開いたのは昨日ザンカと目が合った茶髪のポニーテールの女の子だった。ザンカに会えたのが嬉しいのか、とてもニコニコしている。

「おはようございます。おや、今日から一緒に食事を取るのですか」

ザンカたちの後ろから声がしたので振り返ると、そこには院長がいた。母は院長に挨拶をしつつ言葉を返す。

「おはようございます院長。改めてみんなに紹介しようと思いましてね」
「そうですね、朝なら丁度皆集まりますし」

 院長がそういいながら席につくと食堂の隣の台所から料理が運ばれてくる。
 食卓に料理を運んでくるのはミリッツァ神殿から派遣されている若い神官2人だ。彼女たちは交代交代で孤児院に寝泊まりをして子どもたちの世話をしている。食卓に料理を並べ終わると、その2人も席についた。

 全員が食卓に揃ったのを確認すると、母は口を開いた。

「おはよう諸君!えー、アタシ達が昨日からここに居るのは知ってると思うが、改めてご挨拶をば。ここに居るのは皆の新しい家族だ。紹介するぞ。ほら」

 母はザンカの方を見て背中をぽんと叩くとニコリと笑った。ザンカは意を決して口を開く。

「ざ、ザンカです。ヨロシクお願いします」

 昨日よりと違い、あまりおどおどせずにハッキリと喋ることが出来た。ザンカは気丈に振る舞うことについてはもっと小さな頃から繰り返していたので、覚悟さえ決まっていればなんとかなるのであった。
 そんなザンカの姿を見て母は満足げだ。

「ザンカは私の娘だ。仲良くしてやってくれ」
「えー!スーお姉ちゃん子供いたのー!?」

 母の発言に子供たちのみならず若い神官たちもざわつく。まさかあのスーが母親になるとは誰も想像していなかったのだ。

「お静かに」

 院長の言葉で部屋はしんと静まり返る。流石の貫禄といったところであろうか。院長はそのまま言葉を続ける。

「この子がこの孤児院にやってきたこともきっとミリッツァ様のお導きでしょう。皆さんもこの御縁を大切にして、この先ザンカさんと仲良く暮らしていくのですよ」 
「はい!院長先生!」

 院長の言葉に子供たちは一斉に返事をする。
 院長も母も、あえてザンカが蛮族の生まれであることは説明しなかった。子どもたちの中には両親を蛮族の襲撃によって失った子もおり、まだそういった事を処理しきれないと考えて当面は隠しておくことにしたのだった。

「みなさん元気な良いお返事です。ではザンカさんに歓迎の拍手を」

 皆はパチパチと拍手をする。ザンカは人族のこの習性に慣れていなかったので少しびっくりしたが、歓迎の気持ちはしっかりと伝わり、なんだか少し嬉しい気持ちになった。

「さ、アタシ達も座ろう」
「はい、お母様」

 母が座席につき、ザンカもそれに続く。ザンカが座ったのはポニーテールの女の子の隣だった。その子はザンカの方を見てずっとニコニコしている。

「よろしくね、ザンカちゃん!私フリア!」
「よ、よろしくお願いします」
「ご飯食べたら一緒に遊ぼ!ね!いいでしょ?」

 フリアと名乗るその女の子があまりに人懐っこいのでザンカはタジタジになってしまっていた。しかしそんなフリアを院長がたしなめる。

「フリア、まずは食事の前のご挨拶でしょう。お話はその後に」
「あ、ごめんなさい!」

 院長にたしなめられてしょげるフリアを見た母はからかうように言う。

「あ〜あ〜フリア、怒られてやんの〜」
「こらスー、子供をからかうんじゃありません。食事の前のご挨拶は貴女がやりなさい」
「えー!アタシがやるのォ?まあいいけどさァ」

 院長に言われて渋々スーは挨拶をする。旅をしているときから感じていたことだが、母がたまに子供っぽいところを見せることにザンカは少しずつ気づき始めていた。

「えー、日々の恵みに感謝を。いただきます」

 スーの挨拶に合わせて皆も一斉にいただきますと言って食事を始める。ザンカも周りに合わせて同じようにしてみた。

「いただきま〜す!」
「い、いただきます…?」

 ザンカが初めて食べる孤児院での朝食は焼き立てのパンがひとつと、目玉焼き、そして野菜のスープだ。
 財政的には少々厳しい孤児院の経済状況ではあるが、食事に関してはしっかりしたものを子どもたちに食べさせるという院長の方針で一定の水準を保っていた。

 ザンカはパンを手にとって齧ってみた。すると、小麦の良い香りがふわりと口の中に広がり、幸せな気持ちになって顔がほころんでしまった。旅の中で似たような物を口にしたことがあったが、それは保存が効くようにカチカチに焼かれた物で、スープなどにふやかして食べていたのであった。

「ザンカザンカ、これ、こうしてみ?」

 話しかけてきた母が持つパンには目玉焼きが乗せられていた。ザンカも真似をして目玉焼きをパンに乗せてみる。

「あっ、ザンカちゃん!たれそうたれそう!」
「あっ…!」

 フリアの言うとおり玉子がたれそうになったので慌ててパンを口に入れる。すると豊かなパンの味に玉子の味が加わっていて、さっきよりも美味しくなっていた。
 また顔がほころんでしまうザンカを見て母も微笑んでいた。

「ザンカちゃん、玉子すきなんだ!」
「あ、うん…スキ、です」
「えへへ、私も!」

 ザンカは夢中になって朝食を味わい、気がつくとすぐに平らげてしまっていた。
 皆もすぐに食べ終わったようで、食後の挨拶を済ますと片付けを始めた。ザンカも皆を真似して食器を台所へと持っていく。
 しばらくして片付けが終わった頃、フリアが話しかけてきた。

「ザンカちゃん!一緒に遊ぼ!」
「え…?」
「ザンカちゃんは何して遊ぶのが好き?かけっこ?」
「え、あ…」

 ザンカは今まで子供らしい遊びはしたことがなかったのでフリアの問いに答えようがなかった。見かねた母が助け舟を出す。

「フリア、ザンカはあまり遊びのことを知らないんだ」
「えー?そうなの?」
「そう、だからフリアがいろんな遊びを教えてやってくれるか?」
「うん!わかった!」

 そういうとフリアはザンカの手をとった。突然のことに驚くザンカに構わずフリアはそのままザンカの手を引いて外へと駆け出してしまった。

「お外行こ!お花の輪っか作るの!」
「あ、あっ…」

 あれよあれよというままにザンカは外に連れ出され、気がつくと孤児院からさほど遠くない小高い丘まで来ていた。

「ここね!丁度いいお花と葉っぱが生えてるの!」
「フリア〜!あんまり遠くに行くなよ〜!」

 ゆっくりとついて来ていた母も後から合流し、3人で花の輪を作る。

「あれ?これどうやんの?」
「これはここをこうやって…」
「…?」

 母は手先は器用な方ではなく、なかなか上手く作れないようだ。
 ザンカもフリアに教わったとおり草と花を編んでいく。それなりに器用だった彼女は黙々と手を動かしているのがだんだんと楽しくなってきたのだった。

「ザンカちゃん上手いね!」
「結構器用なのなお前。さすがアタシの娘だ」
「でも私も負けないんだから!ほら、もう出来ちゃったもん!」

 流石に手慣れているようで、フリアはもうすでに花輪を完成させていた。白い花と四葉の葉が綺麗に編み込まれたそれはフリアの手先の器用さを物語る出来であった。

「これはザンカちゃんにあげるね!」

 フリアはそういうとザンカの頭に花輪を載せた。白と緑の花の冠はザンカの薄桃色の髪にとても似合っていた。

「似合う似合う!お姫様みたい!」
「あ、ありがとう。フリア…」
「どういたしまして!」

 ザンカは自分も花輪を編み上げると、それを今度はフリアの頭にのせた。それはフリアのものと比べると少し不格好だが、一生懸命作ったのが伺える出来栄えだった。

「フリア、あげます」
「わ〜ありがとう!ザンカちゃんやっぱり上手だね」
「よし、アタシも出来たぞ」

 スーが手に持っているのは花輪とは言い難いグチャグチャの塊だった。彼女は自分の頭にそれをのせてはみたが、どうにも異物感がすごい見た目になってしまい、ザンカとフリアはスーの姿が面白くてクスクスと笑ってしまった。

「ふふっ…お母様、変です」
「変なの〜!あはは!」
「このガキ共〜!」

 3人はその後も楽しい時間を過ごした。一緒になって遊んでいるうちにザンカはフリアと打ち解けて、どんどん仲良くなっていった。

 そこからの毎日はザンカにとって初めての連続で、疲れることもあったがとても楽しい毎日であった。フリアに手を引かれて、いろいろな遊びをたくさん教わった。元々好きだったお絵かきもたくさんして、絵の上手さを褒められるととても嬉しい気持ちになれた。
 院長や他の神官たちに教わりながら家事を手伝うこともあれば、皆でスーに本の読み聞かせをしてもらうこともあった。
 そして気がつけば、ザンカはいつの間にか孤児院の皆と仲良くできるようになっていた。

 そうして数日が経ったある日の事だった。ザンカはいつものように木陰で絵を描いていた。そばではフリアが一緒に絵を描いており、12歳のアニスは3歳のロサと一緒に遊んであげていた。そして母は私室で昼寝をしていたのでその場にはいなかった。
 ザンカの描いた花の絵を覗き込みながらフリアが言う。

「ザンカちゃんやっぱり絵が上手だね。私はダメダメかも…」
「フリアの絵も、かわいいです」

 ため息をつくフリアを励ますようにザンカはニコリと微笑む。

「お母様も、自由に描くように言いました。フリアの絵は、とても自由です」
「うーん、でもやっぱりザンカちゃんの方が上手だもん。これ、ザンカちゃんは私が何描いたかわかる?」

 フリアが見せてきた桃色と肌色でベタベタに描かれたそれは、下手というよりは奔放すぎるために何が描かれてるかザンカには判別がつかなかった。

「これは…えーと…?丸いものに、足…?」
「ね、わからないでしょ?あーあ、ザンカちゃんの顔を描いたのに〜!」
「わたくしを?」

 言われてみれば確かにそのように見えた。しかしザンカの顔というそれには胴体がなく直接手足が生えていた。それはいわゆる頭足人という、子供特有の描き方であったが、ザンカがそれを知る由はなかった。

「わたくしの顔、足生えてますか…?」
「え?そのまま描いたんだけどなぁ」
「ふふ、ほんとうに?」

 よくよく見ると、絵の中のザンカはニコニコと笑っているように見えた。絵の出来栄えはともかく、自分の笑顔を描いてくれたというフリアの気持ちがザンカには嬉しかったようで、絵の中の自分を見ているうちにザンカ自身もいつの間にかニコニコと笑っていた。
 絵を描いた当人のフリアは、考えるような仕草をしたあと、何か思いついたようで勢いよく言葉を発した。

「ね、ザンカちゃん。今度は私の顔を描いてみて?」
「え?フリアを?」
「うん!かわいく描いてほしいな!」
「わかりました」

 ザンカはフリアの言うとおり、彼女の顔を描こうと思って絵筆を取った。
 しかし、いざ彼女の顔を描こうと思っても手が震えて動かすことができず、そのうち手の力が抜けて絵筆を落としてしまった。

「ザンカちゃん…?」
「ごめんなさい、フリア…。わたくし、できません…」
「えっ、どうして?」
「誰かを描こうとすると…手が…」

 ザンカはそう言いながら震える手を抑えると、ポロポロと泣き出してしまった。
 過去に自身の父の姿を描いた事で悲惨な目に遭った経験からか、彼女は見知った人物を絵に描く事に対して恐怖を覚えるようになってしまっていたのだった。

「お母様の事も、描けませんでした…」
「ごめんね、ザンカちゃん…。ごめんね…」

 フリアはザンカの手をとって謝る。彼女の目にもじんわりと涙が浮かんできてしまった。
 すぐ側にいたアニスも二人が泣き出してしまったのでどうにかしようと思ったが、どうしていいかわからずオロオロしてしまった。
 しかし、自分が泣いていることでフリアが悲しむことのほうがよっぽど嫌だったザンカは、涙を拭って気丈に振舞う。

「フリアは悪くないです。それより、もっとフリアの絵を見せて?」
「う、うん。一緒にお花とか描こうね」

 二人とも気を取り直してお絵かきを再開したので、オロオロしていたアニスもそっと胸をなでおろした。

 その後は二人でいろいろなものを描いて遊んだ。花や鳥、想像の中の生き物、まだ見たことない町、たくさんの絵を描いているうちにだんだんと日が傾いてくると、そのうち遠くから声が聞こえてきた。

「アニスー!ちょっと手伝ってー!」
「あっ、はーい!」

 ちょうど夕飯の支度の時間になったので、アニスが手伝いに呼び出されたようだった。彼女はすっくと立ち上がると、ザンカたちにお願いをした。

「ごめんね二人とも、私ちょっとお手伝いしてくるからロサの事見ててもらえる?」
「あ、はい」
「はーい!行ってらっしゃいアニスお姉ちゃん!」
「お願いね」

 そういうとアニスは歩いていった。
 二人が面倒を見るように言われたロサは、アニスと遊んでいる最中に疲れてしまっていたようで、木の幹を背にして寝ていた。二人はお絵かき道具を持って近くまで行くとロサの顔を覗き込む。

「小さくてかわいいねー、ロサは」
「そうですね」
「ロサってね、ある日神殿の前に置いて行かれてたんだって」
「それは…」
「うん、捨てられちゃったのかな…。アニスお姉ちゃんもそうだったみたい。だからロサのこと面倒みてあげてるんだって」
「みんな、そうなんですね…」

 アニスとロサの境遇に自分を重ねて、ザンカは少し胸が痛くなってしまった。

「ザンカちゃん。私達もロサのお姉ちゃんなんだから、ちゃんと守ってあげようね」
「そうですね。フリア」

 自分より小さな命を前にして、この子が幸せであるように、自分がその幸せを少しでも守ってあげられるようにと、幼いザンカの心にもそういった意識がこのとき芽生えていた。

 そのあとしばらくは二人で手遊びをしたり絵本を読んだりしながら、ロサを見守っていた。
 だんだんと日が沈み、夕飯のスープの匂いが漂い始めた頃だった。ちょうど二人も遊び疲れてウトウトし始めていた頃、ザンカたちのいる木陰に何かが迫る気配がした。ブーンという音に驚いて音のする方向を向いた二人。そこに迫っていたのは一匹の大きなハチだった。

「きゃー!ハチだ!ザンカちゃん!ハチだよ!」
「…!!」

 ハチはザンカたちより圧倒的に小さいが、その警戒色が示すように危険な生き物であり、その危険性は実際に刺されたことのないザンカでも察することができた。
 二人はとっさにハチから逃げて木陰から離れたが、しかし逃げるのに必死でロサのことを完全に失念してしまっていたのだった。
 大きなハチは寝ているロサの方へとゆっくり飛んでいき、いまにも彼女の頭にひっつきそうであった。

「ああっ!ロサが!どうしよう!誰かー!!!」
「あ、ああ…」

 母ならば簡単にハチを退治してくれるだろうと、ザンカも大声を出して助けを呼びたくなったが、直感的に間に合わないと悟った。
 どうすればいいのかと考えを巡らせる。いや、考えを巡らせるまでもなく、ザンカには対処する手段があることを、彼女とその身体はよくわかっていた。
 だがそれをするということはつまり、自分の本当の姿と力をフリアに見せるということであり、それによって自分が皆と違うということを知らしめることであった。
 かつて生まれ育った城の中で、自分がどのような目で見られていたかをザンカは思い出していた。しかし…。
 フリアが叫ぶ。

「あー!ハチが!ロサにくっついちゃった!!刺されちゃうよ!!」

 もう考えている時間はない。目の前の自分より弱い存在が危険にさらされている。

「ろ、ロサ!!」

 ザンカは咄嗟に前へ出ると、眼帯をはずしつつその場に投げ捨て、ハチを睨みつけた。
するとみるみるうちにハチは石になっていき、ポトリと地面に落ちた。
邪眼。彼女が生まれついて持っていた能力。邪竜バジリスクの石化の視線を使ったのは、彼女がスーと出会ってからは初めてのことであった。

「え…なに?何が起きたの…?ザンカちゃん…?」

 フリアには何が起きたのか分からなかった。うつむいたまま動かないザンカに彼女は近づき、そして顔を覗き込んだ。

「ザンカちゃん…!その眼…!」

 ザンカはフリアに嫌われたと思って、ポロポロと涙が溢れてしまった。自分が人族の敵である蛮族であると知られれば、もう友達でいられないと思ったのだ。仮に蛮族と知られなくても、この邪眼の事はかつてもう片方の人間の目を蔑まれたのと同じように扱われると、そう考えた。

「フリア…ごめんなさい…。私は…」
「か…」
「え…?」
「かっこいい!!」
「…?!」

 彼女の意外な反応にザンカはとても驚いてしまった。彼女は目をキラキラと輝かせてはしゃいでいた。

「凄いよザンカちゃん!龍の眼だ!かっこいい!」
「ふ、フリア?」
「この眼でハチをやっつけちゃったんだ!凄い!」

 フリアはザンカの眼をまじまじと見ようとするが、呪いの眼はあまり見るべきではないと知っていたザンカは視線を合わせないように必死に首を降った。

「や、やめてフリア…。この眼を見ると危ない…」
「あ、ごめんね!」

 フリアの妙な圧にザンカがタジタジになっていると、建物の方から声が近づいてきた。これは、母の声だ。

「お〜い!悲鳴が聞こえたけど何かあったか〜!って、おい!?ザンカ!眼帯!!」

 眼帯を外しているザンカを見た母はギョっとしてしまっていたが、それをお構いなしにフリアは興奮して話す。

「スーお姉ちゃん!ザンカちゃんって龍の眼をしてたんだね!ハチをやっつけたんだよ!」
「あ〜、見ちゃった?使っちゃった?ていうか怖くないのか?」
「怖くないよ!かっこいいもん!」
「あ〜…そっか〜…」

 邪眼を怖がるどころか喜んでいるフリアに、母は複雑な表情をするしかなく、やたらと眼を褒められたザンカは何か恥ずかしくなってきてしまって、うつむきながら頬を赤らめていた。
そのうち母は何か思いついたようで、フリアに言う。

「あ〜フリア、よく聞け。実はな…」
「なに?!」
「実はザンカは…」
「ザンカちゃんは?!」
「なんと!龍の国のお姫様だったんだよ!!!」 
「え、ええー!!すごいー!!!」
「お、お母様…?」

 母の荒唐無稽な説明にザンカは呆れてしまったが、確かにまあ、当たらずも遠からずというところではあった。

「でもな、フリア。これはここにいる3人の秘密だぞ?」
「秘密?!」
「秘密を破るとザンカは龍の国に帰らなきゃならない。そんなの嫌だろ?」
「やだ!ザンカちゃんはずっと友達だもん!」
「フリア…」

 フリアの言葉に、ザンカは胸が熱くなってしまった。今は母に騙されているだけだが、フリアだったらいつか自分の真実を知っても友達でいてくれると、本気でそう思えた。

「わかった!3人だけの秘密ね!」
「フリア…」
「ザンカちゃんどうしたの?わっ…」

 ザンカはフリアをぎゅっと抱きしめた。フリアは少し驚いていたが、すぐに抱きしめ返してくれた。

「さて、そろそろ日も暮れるし部屋に戻るぞ」

 母はロサを抱き上げるとザンカとフリアに目配せをし、散らかした玩具や画材を片付けさせた。そして皆で建物へと戻っていった。

 その後、私室で母はザンカと話をしていた。母はベッドに座るとザンカをその前に立たせる。ザンカは母を見ながら少しびくついていた。

「さてザンカ、邪眼を使ったな?」
「は、はい…」
「偉いぞ」
「え?」

 ザンカはてっきり邪眼を使った事を叱られるのだと思っていたので、キョトンとしてしまった。

「確かに邪眼はあまり披露すべきじゃない。だけどな」

 母はザンカの目をしっかりと見ながら続ける。

「ロサを助けるために使ったんだ。それは別に悪いことじゃない。力は使い方次第で善にも悪にも変わる。お前は良い使い方をした」

 母はそういうとザンカの頭を撫でた。そしてさらにザンカに問う。

「ザンカ、邪眼を使ったとき、どう思った?」
「怖かった…です。フリアに嫌われると、思いました…」
「ん、力を怖がる気持ちがあるならいい。その気持ちは忘れるなよ」
「はい…!」

 ザンカは母の目を見据えてしっかりと答えた。母はそんなザンカを抱き寄せると、また頭をなでてくれた。

「葉が花を育む。フリアはいい友達だな、ザンカ」
「はい!」

 抱き寄せた娘をなでながら母は思う。強く優しいこの子でも、いずれは自らの出自に苦しむ時も訪れるだろうと。

 広く大きな世界にぽつんと存在するこの場所で、花は少しずつ育まれてゆく。いずれ自らの運命に立ち向かい、そして打ち勝つために…。


【流れているもの】

 ザンカが孤児院にやってきてから1年の月日が流れた。子供にとって1年というのはとても長いもので、彼女も日々の生活の中で様々な経験を積み、5歳の頃とは見違えるほどに成長していた。
 ザンカが孤児院の他の皆のことをよく知ったのはもちろん、彼女が蛮族であるということも皆うっすらと理解し始めて、それぞれに複雑な思いを抱きながらも彼女のことを受け入れたのだった。

 そしてある春の日の朝、穏やかな外の空気に似合わず、母娘は騒がしくしていた。

「お母様、お母様!朝ですわよ!」
「あ〜〜〜、もうちょっと寝かせてくれ〜〜〜〜〜!」

 ザンカは大きな声をかけながら母をゆり起こすと、母は勘弁してくれというような声を上げていた。渋々身体を起こした母はじっとりした目でザンカに言う。

「あ〜〜…お前起きたならひとりで支度して朝飯食ってこいよ〜。もうできるだろ〜、アタシはまだ眠いんだってば〜…」
「だめですわよお母様、朝ごはんは皆で食べないと。それに支度はほとんど出来てますわ」
「嘘つけ、髪ボサボサじゃねえか」
「それは…」

 母の指摘どおり、ザンカは寝間着から着替えて顔も洗ってはいたものの、髪の毛はまだ起きたままでボサボサであった。母の指摘にザンカはもごもごと言葉を返す。

「だ、だって髪はお母様にやってもらいたくて…」
「あ〜、ったく、しょうがねえな」

 ザンカは母に髪をいじってもらうのが好きで、毎朝早起きしては母に髪を梳かすよう急かすのであった。母も毎日のことであるので流石に辟易し始めていたが、愛する娘のためにと付き合ってくれていた。

 ザンカはもともと城で暮らしていたときから自分の事は自分でやってきており、加えてこの1年でかなり多くのことを一人で出来るようになった。
 そんなザンカを母はあえて放任して見守る事が増えた。それは孤児院の他の皆と協調できるように、また自分の力で生活することをすこしずつ覚えさせるためであったが、当のザンカはもっと母に構ってもらいたくて、ときたまこのように甘えるのであった。

 足をぱたぱたと機嫌よさそうに振る娘の髪を梳かしながら母はつぶやく。

「あ〜、お前もそろそろアタシと寝るの卒業しなきゃなァ…」
「え?」
「ん、お前もしっかりしてきたから、皆と同じ棟で寝起きしなきゃなって」

 母の言葉を聞いてザンカは慌ててしまった。自分がずっと母の部屋で暮らしていくと思っていたザンカは、そうでない生活はまったく考えられないのだった。母が何故そのような事を言うのか分からず、彼女は狼狽える。

「わ、わたくしはお母様とずっと一緒に…」
「いやいや、お前もだんだんデカくなるんだからこんなちっちゃいベッドじゃ無理だって」
「じゃあ大きいベッドを!」
「そういうの使うのは金持ちか夫婦か物凄いデブか…そうじゃなきゃ金持ちの物凄いデブ夫妻だな。あくどい役人で貧しい人々から取り立てた税金で贅沢してて、毎日でっかい肉食ってる…いや、まあアタシの想像の中の奴らだけど。とにかくそんなのはここには居ないぞ?」
「でも…わたくしはもうひとりで眠るのは嫌ですわ…」

 城に住んでいた頃の経験のために一人で眠るのがトラウマになっているのか、ザンカは母と離れるのを本当に嫌がって食い下がる。そんなザンカを母は優しくたしなめた。

「でもな、誰しもいつかはお母さんと別々に寝るようになるもんなんだよ。他の皆もそうだろ?」
「でも…」
「それに棟を移っても一人で寝るわけじゃないぞ。フリアたちと一緒の部屋なら寂しくないだろ?」
「フリアたちと?」
「そう、フリアたちと。きっと楽しいぞ?」
「で、でも…うぅ〜…」

 うつむいて唸っているザンカをお構いなしに、母は髪を梳かしながらザンカに言う。

「まあ、いつかはって話だ。今すぐじゃないからそんなにぐずるなよ。よし、終わった」
「お母さまぁ…」
「そんな顔すんなって、ほら、次はアタシの髪をやってくれ。可愛くしてくれよ?」

 母にそう言われて櫛を受け取ったザンカはワシワシと母の髪を梳いていった。しかし母に言われたことが頭から離れなくて漫然と手を動かしてしまうのだった。

「いてっ、痛ェ!ザンカ!引っかかってる!引っかかってるから!!」
「あ、ごめんなさい!」

 なんとか朝の支度を終えた二人は皆と朝食をとると、食後に母が子供たちに呼びかけてひとつの部屋に集めた。そこは教室だった。

 母の私室や院長の部屋や食堂があるこの棟には教室があり、母や院長、また若い神官たちは子供たちに読み書きを教えたりするのにこの部屋を使っていた。
 母は子供たちが席についたのを確認すると授業を始める。

「よしガキ共全員集まったな。今日は何の話をするかというと〜…」
「スーせんせ〜!冒険のお話聞かせて〜!」

 やんちゃな男の子が母の言葉を遮ってそう言うと、母はすかさず言い返す。

「はいメランくんにマイナス10万点!アタシの話は刺激的すぎてガキ共には話せないって前に言ったろォ〜?!院長に叱られたらお前のせいだからな!」
「え〜!」
「えー、じゃない。今日の授業は読み聞かせだ」
「え〜つまんない」
「つまんなくないんだな、これが。見よ!この本を!!」

 母は大人気なく威張りながら子供たちに本を見せつける。その本は古めかしく、表紙には不思議な格好をした人間のような物が描かれている。

「これは!あの激レア本"金剛童子 伐斬羅"だ!これは固有の文化をあまり形成しないフロウライトには非常に珍しい神話のような物語で、古代魔法文明語で書かれているから滅茶苦茶読み取りにくい!しかァし!とある地域では伝統的にサーカスの演目にも…」

 母は興奮して説明を続ける。こうなるともう授業ではなく独り言と表現するほうがが適しているだろう。
 母がこうなると止まらなくなるのはザンカはもちろん孤児院の子供たちもよく知っていることであり、みんな辟易してげんなりしてしまっていた。
 これは長くなるなと思ったザンカは母の話を遮るように声を発した。

「お母様!それでその本はどんなお話ですの?」
「お母様じゃない、ここでは先生と呼ぶように!」
「はい、スー先生。それで、そのお話はどういうお話ですの?みんな聞きたくてウズウズしてます」
「よし、前のめりなのは良いことだ。さっそく読むぞ。分からない言葉があったら言うように!…"とある国の霊山、うず高く伸びるこの山の頂では、星空の乾きと大地の湿りが交わり…"」

 母が読み上げる物語はとある英雄の物語で、それは今まで聞いたことのあるどのような神話とも一致しなかったが、この英雄の冒険譚を聞いていると胸が踊り、いつしかみんな引き込まれていた。

「"……そして恐ろしい怨鬼を討ち滅ぼした金剛童子は、救い出した皆の称賛を聞くこともなく、どこかへと去っていきました。彼はきっとまた誰かを救うために旅を続けるのでしょう。"……おわり」

 母が読み終えると子供たちからパチパチと拍手が湧いた。

「面白かったー!」
「そうだろ?そうだろ?この本を探すために遺跡を巡ってまで探したアタシの苦労がわかるだろ?」

 母はとても誇らしげだ。古書集めが趣味の彼女は、過去の冒険の中でも書物を発見するなり全て持ち帰ろうとするのでアルゴスたちには毎回呆れられていた。

「僕も冒険者になってこの本みたいな冒険する!」
「お前が冒険者だァ〜?百年早いわ!!」

 メランの子供らしい発言を母は一蹴しつつ話を続ける。

「ちなみにいえばこの主人公は冒険者ってより放浪者、ヴァグランツに近いな。冒険者みたいにギルドを通してないのはそういう連中だ」
「ヴァグランツ…」

 ザンカは冒険者や放浪者のことを聞くと胸がドキドキと高鳴った。広い世界を巡り、様々な人を救う彼らの活躍は、まさしく自分が最も憧れ尊敬している母の姿そのものであった。

「ま、冒険者だとか放浪者なんていうのは、生まれつき一芸秀でてるやつらがやるもんだ。アタシみたいにな!そうじゃなきゃすぐ狼程度の動物に食われて終わり。だから、てめェらガキ共は普通に生きること!」
「えー!冒険者になりた〜い!」
「ダメ!どうしてもなりたかったらアタシを倒せるぐらい強くなってからだ!以上!解散!とっとと出てって遊んでこい!」

 母はそう言うと授業を終えて皆を解散させた。

「ザンカちゃん、外で遊ぼ?」

 授業が終わってすぐに声をかけてきたのはフリアだ。彼女は毎日ザンカと遊んでいた。

「フリア、今日は何をしますの?」
「う〜ん、川で水遊びとかしちゃう?」
「前みたいにずぶ濡れになったらまた怒られますわよ」
「今度は大丈夫だよ〜!」

 フリアは過去の失敗を全く悪びれるそぶりもなく無邪気に笑う。そんな彼女にザンカは呆れつつも温かい気持ちになるのだった。しかし二人の元に母がやってきて彼女たちに注意する。

「分かってると思うが、ガキ共だけで行くなよ。アタシも行くからな」

 結局、母と一緒に3人で川まで行くことになり、外に行く途中の廊下でフリアはウキウキとした表情で先ほど聞いた物語について話す。

「面白かったね〜、さっきのお話。メランじゃないけど私もドキドキしちゃった」
「そうですわね」
「フリア、お前まで冒険者になるとか言うなよ?」

 はしゃぐフリアに母は釘をさす。しかしフリアはそんなつもりはなかったようで、首を振りながら言葉を返す。

「ううん?私は将来お嫁さんになりたいもん!」
「お嫁さん、いいじゃんか。どんなやつがお婿さんなんだ?」
「あのね、どこかの国の王子様!」
「おおぅ…こりゃまたデカく出たな…」
「うん!だってそうしたら私もザンカちゃんと同じお姫様だよ!」
「フリアったら…ふふ…」

 本気でそう思っているのか、キラキラと目を輝かせて話すフリアに、ザンカは顔がほころんでしまった。

「ねえ、ザンカちゃんは将来何になりたいの?」
「えっ?」

 フリアの突然の問いにザンカは母の方をちらりと見ると言葉に詰まってしまった。ザンカが一番憧れているのは母であり、自分も母のように強く有りたいと思っていた。かつて自分を救ってくれた母や仲間たちのように強い冒険者になりたいと、ザンカはいつしか考えるようになっていた。
 しかしザンカは自分が蛮族であり、本来なら彼らと敵対する側だということも自覚していた。
 しかも、当の母は子供たちが冒険者になると言うといつもそれを強く否定してしまう。きっとそれは自分であっても例外ではないのだろうとザンカは考えていた。

「ちょっと本を片付けてくるから待ってろ」

 歩きながらもうつむいて考え込んでしまっていたザンカだったが、母の言葉でハッとなって立ち止まった。
 母は二人を廊下で待たせて部屋へと入る。フリアはザンカの様子を怪訝に感じたのか、顔を覗き込んで話しかけてきた。

「どうしたの?ザンカちゃん?」
「い、いえ…」
「ザンカちゃん…もしかして、ザンカちゃんもさっきの話を聞いて冒険者になりたくなっちゃった?」
「え、ええっ?!」

 慌てるザンカの姿は明らかに図星であることを隠しきれておらず、フリアはそんなザンカをニヤニヤとした表情で見つめて囃し立てるように言う。

「へ〜!やっぱりそうなんだ!」
「わ、わたくしは…はい、そうです…お母様みたいに…」
「スーお姉ちゃんかっこいいからわかるよ。でも昔から冒険者なるって言う子がいると怒るんだよね」
「あ・・・」

 フリアのその言葉を聞いてザンカはまたうつむいてしまった。やはり母や冒険者に憧れても、きっと母はそれを許さないだろう。しかも自分は蛮族の一種であるバジリスクで、人族に冒険者として受け入れられるとは思えない。そう思うと彼女はまたなんだか悲しい気持ちになってきてしまった。しかしそんな彼女にフリアは明るく言葉をかける。

「うーん、じゃあ私達でちょっとだけ冒険、しちゃう?」
「え?」
「耳貸して?」

 フリアはザンカの耳に手を当て、こしょこしょと小さな声で何かを言う。

「…えっ?!」
「えへへ、後でまた詳しく話すね」

 フリアがそう言った直後、がちゃりと扉が開き、母が顔を出した。

「よし、行くぞガキ共。せっかくだから他の奴らにも声かけるか?」
「はーい!」
「…?やたら機嫌がいいな、フリア」
「えへへ…」

 その後、ザンカたちは他の子どもたちも集めて川で遊んだ。パシャパシャと水遊びをしてるうちに結局フリアがずぶ濡れになったり、メランが母に言われたとおりに挑戦してきてデコピンの一発で返り討ちにされて泣かされるなど楽しい時間を過ごした。しかしザンカはフリアの言葉が頭を離れなくて、遊ぶ事に集中出来なかった。

 次の日の朝、ザンカはいつもより早く起きて母を起こさないようベッドからそっと降りると、着替えをして髪を整えた。そしてこっそりと部屋を抜け出すと、そのまま棟の外へと出ていった。

庭木のところに行くとそこにはフリアが待っていた。

「おはよ、ザンカちゃん」
「おはようございます、フリア。…本当にやるんですの?」
「大丈夫だよ。そんな大したことするわけじゃないもん」

 フリアはそういうとザンカの手を引いて建物の裏手にある鶏小屋へと向かった。
 この孤児院では卵を取るために数匹の鶏を飼っており、基本的には年齢の高い子供か若い神官たちが世話をしている。

「フリアはニワトリに触ったことがあるんですの…?」
「ないよ?だから冒険なんじゃない!」
「えぇ…?」

 鶏小屋の前に立ち不安げな顔をするザンカにフリアは言う。

「いつもは大きい子達がニワトリの卵を取るんだけど、私達でこっそり取ってお手伝いすれば、まだ子供でもやる時はやるってわかってもらえると思うんだ。小さいことだけど、コツコツやるのが大事ってスーお姉ちゃんも言ってたもん」

 それは子供らしい発想だったが、彼女なりにザンカの夢を後押ししたいと考えてのことだった。実際、男の子たちの突拍子もない行動に比べればいくらか大人しい行動で、普通なら大した問題も起きないような事ではあった。しかし…。

「よし、入ってみよう。えい!」

 フリアは鳥小屋の戸に手をかけて開き、ザンカもそれに続く。鶏小屋の中には数匹の鶏がおり、寝床となる藁や餌箱などがおいてあった。鳥類特有の独特のにおいにザンカは顔をしかめるが、フリアはまった気にしていないようで、寝床の藁を指さしてザンカに声をかける。

「あ!あそこに卵があるよ!ザンカちゃん!取ってみよう!」
「は、はい…」

 フリアに促されてザンカは一歩進み、おそるおそる卵に手を伸ばす。しかしその時だった。今まで大人しくしていたニワトリが一斉にざわめき、羽をバサバサと振るい始めた。

「きゃっ!?」
「わぁっ!なに?!」

 ニワトリたちは奇声を上げながら羽を震わせ、明らかにザンカを威嚇している。これは普通の人族が近づいた時の反応ではなく、ザンカがバジリスクであるために起きた防衛行動だったが、彼女たちにはそんなことは知る由もなかった。

「ふ、フリア!逃げ…」

 咄嗟に外へと出ようとしてザンカがニワトリから目を離したその瞬間だった。一羽のニワトリがザンカ目掛けて飛びかかってきたのだ。彼女たちよりも小さいニワトリといえども、その蹴爪は非常に鋭利だ。ニワトリの蹴爪が目の前に迫り、ザンカは咄嗟に手で防御を試みた。しかしそれも虚しく、蹴爪はザンカの手の皮膚を裂き、赤い血を噴き出させた。鋭い痛みがザンカを苛み、彼女は思わず手を抑えてうずくまる。

「きゃあ!!」
「ザンカちゃん!」

 心配したフリアはうずくまるザンカを心配して近づき、手に触れようとした。そんなフリアの行動に気づいたザンカは顔を青ざめて咄嗟に声を上げた。

「触らないで!」
「えっ、ああっ!?」

ザンカの悲鳴にも似た警告も虚しく、流れ出る血に触れたフリアの手は一瞬にして焼けただれたようになり、彼女は強烈な痛みのために嗚咽を漏らす。

「痛い…痛いよぉ…」
「ふ、フリア…!」

 バジリスクの血は毒を帯びており、それはウィークリングであるザンカでも例外ではなかった。
 ヘビの出血毒に近い成分を持つその血は、触れた者の皮膚や肉を焼く。攻撃者に対しては返り血として吹き付けられるその毒の血は一種の防衛機構のように働く。そしてそれはザンカに攻撃を加えたニワトリにも例外なく浴びせられ、多量の血を浴びて全身が焼かれたニワトリは、弱く声を上げながらビクビクと痙攣していた。

「何事ですか!…これは?!」

 騒ぎを聞きつけて院長と若い神官が寝間着のままで鶏小屋まで駆けつけ、目の前の状況に驚愕する。

「すぐにスーを起こしてきなさい!早く!」

 冷静な院長は状況をすぐに理解し、若い神官に命令して送り出すと、自分は小屋の中に入って血に触れないよう気をつけながら二人を引っ張り出した。

「大丈夫ですか?!二人とも」
「痛いよぉ…痛いよぉ…」
「あ、ああ…」

 自分も怪我をしたザンカだったが、痛むのは蹴爪に裂かれたその腕ではなく、むしろ胸だった。泣きながら痛みを訴えるフリアの姿を見たザンカは、ショックと罪悪感でどうしたらいいのか分からず頭がぐるぐるして、そのうち血の気が引くような感覚がして気絶してしまった。

 そのあとどれくらい経ったのだろうか。ザンカが目覚めたのは母のベッドの上だった。横を見ると母が椅子に座っており、彼女もザンカが目覚めたことに気がついてゆっくりと口を開いた。

「目が覚めたか、まったく…。何があったか覚えてるよな?」
「お母様…。っ!?フリアは?!」

 咄嗟に上体を起こしたザンカはつい自分の手に目をやると、鶏につけられた傷が跡形もなく治っていることに気がついた。

「治したよ、お前の腕もな」
「よかった…」

 ほっと胸をなでおろして一息つくザンカ。娘のそんな姿を見ながら母は頭を掻き、そして話を続ける。

「はァ…。話はフリアから聞いたよ。みんなの役に立とうとしたのは立派と言えば立派だが、そういうことはちゃんとアタシたちに相談すべきだったな。お前たちの事は助けられたが、哀れなニワトリは夕飯にもなれない状態になっちまった…」
「ご、ごめんなさい…」
「まあ、ニワトリの事は半分以上事故だ。ニワトリがそんなにお前を嫌うなんて誰も知らなかったし、お前の毒の血はアタシたちの想像よりも強かった…。とにかくあとで一緒に院長に謝りに行くぞ。いいな?」
「はい…」

 ザンカの毒の血については母や院長たちも把握していたが、母が初めてその特性に気づいた1年前の時はさほど毒性を示さず、触っても多少ピリピリする程度であったので警戒を怠っていたのだった。この1年の間に身体が成長したザンカはそれに合わせて体内の血の毒性も強まったのだろうと、このとき母は考察した。

「今日は休め。身体は治ったが、心は疲れてるだろう」
「お母様…わたし、わたしは…」
「…どうした?」
「わたしは…もう皆と暮らせません…」
「なんだと?」

 ザンカはポロポロと泣き、涙で毛布を濡らしながら母に訴える。

「私はフリアを、傷つけてしまいました…。だから…」
「まて、フリアは自分が悪いと言って、お前を庇ってたぞ!恨んだりしてないし、むしろお前を心配してる!」
「それでも、私の血はまた誰かを傷つけるかもしれません…。いつかはもっと強い毒になるかも…」
「それは怪我をしないよう気をつければ済む話で、もし仮に同じ事が起きても、アタシがまた治してやるから…」
「それでも!それでも、また誰かを傷つけることには変わりありません…!大好きな皆が苦しむのを見るのは嫌です!それに血だけじゃなく、この眼だって!強くなればいつか誰かを石にしてしまうかも…!」
「ザンカ…」

 涙ながらに訴える娘の姿に、スーはとうとうなんと声をかけていいのか分からなくなってしまった。ザンカの言う事はおおよそ事実であるからだ。
 ザンカは事件が起こる前から自分が蛮族であるという事実に少なからず悩んでおり、それが今回の事で完全な心の枷になってしまったのだ。
 ザンカは毛布を頭から被ってうずくまると、わんわんと声をあげて泣き出してしまった。

「…少し頭を冷やせ。時間はいくらでもある」

 母はその言葉が気休めにしかならない事を自覚していた。時間が解決できる事には限りがある事を彼女は知っていたが、今はこう言うほかなかったのだ。

 その日からザンカは部屋の外に出ようとせず一日中ずっと布団の中で過ごすようになってしまった。フリアや孤児院の子供たちが心配して部屋に来ても、一切取り合わずに追い返してしまうのだった。
 母だけは部屋に入って一緒に過ごすことができたが、その母に対してもザンカは髪を梳かすようねだることもなくなり、母が抱きしめようとしても拒むようになった。

 そして、そのような状態になって数日後の夜のことだった。
 スーが風呂から上がって髪を拭きながら部屋に戻ると窓が開け放たれており、ベッドの上にいたはずのザンカの姿が見えなくなっていた。母は一瞬固まり、しかし直後に状況を理解して歯をギリリと噛みしめた。

「あンの馬鹿娘…!!」

 母は足を翻すと寝間着のまま院長の部屋へと走り、ドンドンと扉を叩いた。するとすぐに扉が開き、驚いたような表情の院長が顔を出す。

「何事ですか!スー!」
「ザンカが逃げて何処かに行った!」
「なんですって?!」
「アタシはすぐに探しに行く!院長は若いやつらに声かけてくれ!!!」

 スーはそう言うと返事を待たないまま走り去り、孤児院を飛び出すと私室側の窓の付近を調べた。

「足跡!この方向はッ…!くっ、馬鹿野郎!」

 スーが足跡から推測した方向は、少し歩いた先に森のある方面であった。その森は人族の手が入っていないような深い森林だ。そこから時折やってくる狼に頭を悩ませた農夫たちの依頼でスーは何度かその森に足を踏み入れたことがあり、明らかに子供が足を踏み入れるような環境でないということを記憶していた。

「ガキのくせに、森に入れば追跡されないって考えたのか?流石アタシの娘、賢いな…って言ってる場合か!」

 スーは一人言ちりながら森の方へと全力疾走した。

 彼女の見立て通り、ザンカは夜の森へと入っていた。今夜は満月で、月明かりと星明りが地上を優しく照らしていたため、夜目の効かないザンカでも多少は行動できた。とはいえ森の中は深く行けば行くほどに木々はその勢いを増し、空からの僅かな明かりさえも遮っていく。
 彼女は深い森の中をあてもなく歩く。この森を通過して皆の前から姿を消せば、きっと追いつかれることはない。とにかく皆の前から消えてさえしまえば、誰かを傷つけることもない。この後のことなど、なにひとつ考えていなかったのだった。

「はぁ…はぁっ…寒い…」

 ランドールの夜は1年を通して気温が下がりやすい。とくにまだ空気が温まりきらない春の夜であれば尚更である。寒さが苦手なバジリスクの特性は、この時もザンカを苛み、その足を止めさせてしまった。
ザンカはその場にへたり込み、うずくまった。子供の足で歩くには森の中は険しく、気温のこともあって体力はだんだんと失われていた。
 身体が弱まり感覚が強まったからか、それとも逃げるのに夢中で気が付かなかったのか、立ち止まってみると森の中には様々な気配があることに気がつく。虫や鳥の鳴き声、植物が風に揺らぐ音。その全てが異物である自分を拒んでいるようで、ザンカは自分がどこまで行っても一人ぼっちであることに悲しくなってしまった。

 思い返せばずっとそうだった。生まれた事を疎まれ、唯一の友は自分を守ろうとしたために犠牲になった。そして新しい家族は自分の血のために傷つく。

「私が生まれたから、みんな不幸になる…」

 ポロポロと涙を流しながらザンカは独り言をする。何故自分は生まれてきたのだろう?誰かを傷つける事しかできないのに。そう考えていると涙が止まらなかった。

 しかし泣いている彼女を森は優しく包み込んでくれることはしなかった。等しくダリオンに祝福されているはずのこの森までもが彼女を拒むように、苦しみを差し向ける。
 ザンカはいつの間にか自分の周りにいくつもの気配がある事に気がついた。低く唸る声、いくつもの光。そしてそのひとつが木陰から姿を現した。

 そこにいたのは狼だった。無数の狼が目の前にいる食料を狙い取り囲んでいるのだ。
 ザンカは慈悲のない獣を前にして、むしろ冷静になってしまい、通じることのない言葉を発する。

「あなた達に食べられれば、わたくしでも役に立てるかも。でもきっと、食べ残されて…」

 そう言いかけたザンカに狼は飛びかかる。死を覚悟しても身体が勝手に動き、反射的に前に出した腕に狼が噛み付く。骨をも砕くような顎の力にザンカは悲鳴を上げたが、毒の血液で焼かれた狼も低く唸ると口を離して距離を取った。しかし、狼の目はまだ目の前の生き物を捕食する意思を失ってはいなかった。
 もう一度狼が飛びかかり、少女の喉笛を狙う。今度こそもうダメだとザンカが思った次の瞬間だった。

「ぎゃん!」
「え…?」

 狼は突然悲鳴を上げると身体を翻し、地面に叩きつけられた。何が起きたのかザンカには一瞬理解できなかったが、よく見てみると狼の脚に矢が刺さっているのが見えた。

「外しちまったナァ…わりぃ事をした…」

 森の中から低い声が聞こえる。次の瞬間、ピュンと高い音が聞こえると、狼の頭に矢が突き刺さっていた。そしてその音が次々に鳴ると、ザンカを取り囲んでいた森の中の気配は全て消え去っていた。

「な、なに…?」

 ドサッ、という音が後ろで聞こえた。ザンカは振り返ってその方向を見ていると、そこにいたのは大きな…鹿が…?
 いや、鹿ではない。よく見るとそれは大きな鹿の角をあしらった兜をつけた二足歩行の生き物だ。その体格は角を差し引いても1.9メートルはあり、威圧感を出していた。
 その奇怪な姿に怯えるザンカに、それはゆっくりと近づいて、手を伸ばしてきた。今度こそもうダメだ、そう思った瞬間、その生き物は低い声で言葉を発した。

「あンれぇ、なんでこんなところに女のコがひとりでいるんだァ?大丈夫かァ?お嬢ちゃん」

 目の前の奇怪な存在が放った言葉は、気の抜けた訛りのある喋り方ではあるが、それは間違いなく交易共通語であった。それはこの生き物が意思疎通のとれる存在であることを意味していた。

「あンりゃァ!噛まれてるでねェか!すぐ治療せねば化膿してしまうでよ!」

 どうにもこの生き物がかなり友好的な存在であると悟ったザンカは、彼に問う。

「あなたは誰…?」
「オデ?オデの名はエィルク!訳あってこの森に住んでンだァよ!」
「お、オデ…?」

 その一人称に、ザンカはかつての友達の姿を重ねてしまった。そのせいだろうか、直感的に彼の事は信用できる気がしたが、それだけにザンカは彼を拒絶した。もう誰とも関わりたくないからこそこんなところまで来たのだから。

「わ、わたくしに触らないでください…あなたも怪我をしますから…」
「何言ってンだよォ!触らねば治せンよ!」
「いいから!」

 そう言いながらザンカは体を起こして立ち去ろうとしたが、失血の為か、やはりふらつく。エィルクも心配そうにザンカを追おうとしたが、何かに気づいたのか手を止めた。

「まて、なにか近づいてくる」
「…え?」

 それはザンカが歩いてきた方向からだった。その気配はまるで猛獣のような勢いで…。

「………カァ……ンカァ〜!」
「え、なんだァ!?」

 何か叫びながら走ってくるそれは、まるで人間のような声を上げていて…?

「ザンカァァ〜!!!」
「うおォ!?寝間着の美女が走ってくるぞ!?」
「お、お母様!!?」 
「へェえ!?お母様ァ!?!?」

 猛然と走ってくる母を確認したザンカは驚きながらも立ち上がって逃げようとしたが、彼女の身体を案ずるエィルクは咄嗟に服を掴んで止めようとした。

「離して!!」
「ダメだってェ!そんな怪我で!ていうかアレどうすんのォ?!撃っていいのォ!?」
「撃っちゃ駄目!!離して!!」

 ジタバタと暴れるザンカを必死にとめるエィルク。母はそんな二人とどんどん距離を詰めてくる。そして押し問答をしているうちに目前へと迫っていた。

「貴様ァァァ!!!」
「ひィ?!!?」

 次の瞬間、怒れる母の拳がエィルクの腹部を穿ち、その身を宙に浮かせた。

「アタシの娘にィ!何してんだァ!!この変態ヤロオォーーーーッッ!!!!!」
「ごぶふぉァ!?!?」

 そう、この時の母にはエィルクの姿が今まさに娘を攫おうとしている変質者にしか見えなかったのだった。宙に浮いた彼の身体は時間をおいてズシンと音を立てながら地面へと叩きつけられ、その意識はプツリと途絶えた…。

「あ、あああ…」
「大丈夫か!?ザンカ…お前!大怪我をしてるじゃないか!!」

 母はザンカに近づいてその手を取った。大量の血が流れるその手を掴めば、当然のように母の手も焼かれていく。しかし母はそんなことは構わないという様子で傷口を確認していた。

「触らないで!お母様も怪我をしちゃう!」
「関係あるか!大人しくしろ!いますぐ治してやるから!」
「もう!やめてください!私の事は放っておいて!」
「怪我してる子供を放っておく親がどこにいる!?」
「いいから!!」

 ザンカは母を拒むように突き飛ばすと、立ち上がり、視線を合わせたまま後退りした。
 そしてまたポロポロと泣きながら訴える。

「わたしがいるとみんな不幸になるんです!私を産んだお母様も、お父様も…アメースも…フリアやみんな、あなただって!!」
「違う!」
「違わない!私が…私なんか…!」

 ザンカはもう自分を抑えられなかった。目の前にいる母に向かってではない。むしろ自分自身に言うかのように彼女は叫ぶ。

「私なんか生まれてこなければよかったんだ!!」

 刹那、バチン、という音がした。そしてザンカの頬がジワリと痛む。
 スーはこの時、初めてザンカの事を平手打ちした。

「それだけは言うな…。もう二度と、そんな事は言うな!!」

 今までで聞いたことない声で叫ぶ母の、ひとつしか残っていないその目には、じわりと涙が浮かんでいた。

「どんなわがままを言うのもいい。何を何度失敗しようが構わない。でもそれは…それだけはダメだ!!そんなこと言っちゃ駄目なんだよ!!」

 母はそう言うと自分の身体が焼けるのも構わずに、ザンカをぎゅっと抱きしめた。

「お母様、おかあ…さ…」

 ザンカは母と初めて出会ったときのように、またわんわんと泣いてしまった。
 大きな絶望を前に、幼い彼女は他者への優しさを自分を犠牲にするという形でしか表現することしか出来なかった。どんなに大人びていようが、気丈に振る舞って他者を拒絶しようが、それは未熟な心を守るための堤防でしかなく、それもいずれは受け止めきれずに決壊してしまう。
 ザンカの泣き声は彼女が泣き疲れて眠ってしまうまで、しんと静まり返った森の中に響いていた。

 そして次の日の朝、ザンカは母の腕の中で目覚めた。目の前には見慣れた天井。母の着ている服を見ると泥や葉っぱがいっぱいついており、よく見れば自分も泥だらけで、二人とも髪はボサボサだった。
 ザンカは母を起こそうかと思ったが、彼女があまりにも気持ち良さそうに眠っているので、もう一度顔を母の胸にうずめると、自分もそのまま眠ることにした。


【流れゆくもの】

「お〜い、ザンカ。起きろ」
「うぅ〜ん?」

 ザンカが目を覚ましたとき、そこには身だしなみを整えてミリッツァ様式の正装を着た母が立っていた。

「お前が寝坊なんて珍しいな。まあ一晩中森の中を歩き回れば無理もない」

 母の言葉でザンカは昨夜の事を思い出すと、無茶なことをして母に迷惑をかけた事に申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。

「お母様、私は…。その、ごめんなさい…」

 しょげるザンカに母は苦笑いしながら話す。

「いいよ、とは言えないな…。気持ちはわかってやりたいが、やっちゃいけないことをした。あと鹿男にも迷惑を…まぁアイツはいいか。話してみたら良いやつだったけど…」

 あのあと鹿男エィルクは目を覚まして事情を説明しようとしてスーに近寄ったところ、また3、4発、いや5、6発は殴られたがどうにか弁解に成功し、身体を治して貰うと森に帰ったらしい。

「なぁザンカ、まだフリアたちと顔合わせられそうにないか?」

 神妙な面持ちの母の問いに、ザンカはうつむきがちに小さく頷いた。母はそれを見て少し首をもたげたが、すぐに言葉を続けた。

「そうか、わかった。ちょっと行くところがあるから準備しろ。」
「行くところ…?」
「いいから、風呂入ってこい。泥だらけだぞ?」

 ザンカは身体を見ると昨夜受けた傷は全て跡形もなく消え去っていたが、母の言うとおり服や体のいたるところに泥や草の汁が付着していた。
 母に背中を押されて風呂場に行き、魔動給湯器を起動してもらうと自分で身体を洗った。そして風呂を上がると部屋に戻り、身支度をした。
 その後、部屋で食事をした。パンと冷めたスープ。母は先に食べていたようだったので、ザンカはひとりでそれを食べた。

「食ったら行くぞ。これ持っておけ」

 食事を終えたザンカに、母は水の入った水筒を手渡し、肩にかけさせる。そして準備が終わると孤児院から出て、街道方面に二人で歩きはじめた。
 母は鎧こそ着用していなかったが、腰に剣を提げていた。

「お母様…何処へ行きますの…?」
「ん、ハルシカ商協国のミリッツァ神殿だ」
「ハルシカ…?」

 ザンカは今まで一度もハルシカのような大きな街に連れて行ってもらった事はなかった。孤児院の他の子供たちは年齢の高い子であれば何度か連れて行ってもらった事があると、そういうふうにザンカは聞いていた。

「ハルシカまではだいたい3時間…今から行っても昼は過ぎるな」

 そう言う母の歩みは速く、ザンカは歩調を合わせるのに必死だった。いつもなら母は手を引いて歩幅を合わせて歩いてくれるのだが、ザンカは自分が悪いことをしたから母の機嫌を損ねたのだと思った。

 街道まで着くと、そこからは多少マシな道ではあった。舗装こそされていないが往来があるぶん踏み固められた土は多少歩きやすかった。とはいえ、完全に整備されていない道路は起伏もあり、幼いザンカの脚では母の歩みに合わせるのは一苦労で、少しずつ距離が開いてしまう。
 母はザンカとの距離が開くとしばらく立ち止まり、ザンカが追いつくとまた歩き出す。途中途中でザンカがへばると母もまた歩みを止めて一緒に休憩をする。ザンカは休憩の度に肩にかけた水筒の水を少しずつ飲んで喉を潤した。
 ハルシカまでの長い道のりの間、母はほとんど口を開かなかった。

 そしてザンカの水筒が空になる頃、二人はハルシカに到着した。

「ついたぞ、ここがハルシカだ」
「ここが…」

 ハルシカ商協国、商業と交易によって栄えたこの街は、不安定なランドール地方における緩衝地であり、人々の往来の要であった。
 ザンカの目の前に広がる街並みも、そこを行く人々も、ザンカにとってはこれほどまで大きな人の営みを見るのは初めての事で、まるで別世界のような光景に目を丸くした。
 驚きを隠せないでいるザンカの手を、母はこの日初めて握り、そして釘を刺すように言った。

「いいか、ザンカ。この街の中を歩く間は私の手から絶対に手を離すな」
「どうしてですか…?」
「ここは表面上は栄えているが、とても不安定な街でもあってな。人攫いの噂もある。お前は目立ちやすいから気をつけないと面倒なことになるかもしれない。とにかく、手は離すな」
「は、はい…」

 ザンカは母の話がよく分からなかったが、とりあえず言いつけには従うことにして、ぎゅっと手を握り返した。

 二人はハルシカに足を踏み入れる。すると、ザンカの身体はピリッとして、少し不快な気分がした。母はザンカの様子に気づくと、小さな声で話した。

「守りの剣だ。蛮族から街を守る結界がお前に影響を与えている」

 母はそのままメインストリートを歩く。蛮族であるとはいえ穢れがさほど強くないザンカは、すぐにこの感覚に慣れて問題なく歩くことができた。

 ハルシカのメインストリートは様々な店がひしめき、人の往来も多く、騒々しく活気があった。しかしあまりに人が多いので、ザンカはこの雑踏に飲み込まれそうな気がして、だんだんと怖くなってきてしまい、母の手を強く握った。だがそれと同時に、歩きながら目に入る出店の商品、たとえば見たことのない道具や異国の植物などは彼女の好奇心をくすぐった。

「腹減ったな。先に飯にするか」

 そういうと母は立ち止まり、ザンカの手を引いて大きな建物に入る。入り口の扉を開くと、そこは食堂のような構造だったが、壁には掲示板などもあり、客層はなんというか独特で、屈強そうな男や目立つ格好の女などであった。
 二人が入るなり、客たちの視線がちらほらと向いてきた。そして何やらこそこそ話している。彼らの態度になんとなく気分が悪くなるザンカだったが、ふと店のカウンターを見ると見覚えのある顔があることに気がついた。そしてその黒髪で耳の長い女性と目が合うと、向こうもこちらのことに気がついたようで、驚いた声で話しかけてきた。

「えっ、ザンカちゃん?!スーさん!?いつの間に来てたの〜?!」
「よォ、クローネ。奇遇だなァ?」

 そこにいたのは母のかつての仲間の一人、クローネであった。ここは母の所属する冒険者ギルド支部だったようだ。彼女は突然の再会を喜ぶようにキャピキャピと話す。

「まさかギルドで会うなんて〜!もしかして親子で依頼受けに来たとか〜?」
「馬鹿、んなワケあるかよ。飯食いに来ただ〜け」
「そりゃそうよね〜!あ、ザンカちゃん久しぶり!ちょっと大きくなった?」
「あ…ごきげんよう。クローネお姉様」
「ごきげんよう〜」
「お姉様じゃなくてお婆様だぞ、コイツ」
「ねぇ〜!ひど〜い!」

 母はクローネの隣にザンカを座らせると、自分もそのまた隣に座った。そして母は食事を注文をしようとして給仕の男に声をかけた。

「おい、ちょっと」
「ロモ・サルタードだろ?二人分?」
「あ?ああ、それで」

 給仕はそれを聞くと厨房に伝えに行った。母は苦笑いをしながら言葉を漏らす。

「チッ、覚えてんのかよ…」
「スーさんそれしか頼まないもん」

 クローネはクスクスと笑いながら言葉を続ける。

「まだ1年だもん、あなたが孤児院に戻ってから。みんな覚えてるわよ」
「1年?ああ、まだそんなもんか…。もう10年ぐらいな気がしてたけどな」
「色々あったのねぇ〜、この子もこんなに大きくなるんだもん。言葉もいっぱい話せるようになってるし!よしよし!」

 クローネに撫でられながらザンカは彼女の言葉を聞いた母が少し神妙な顔をした気がした。

「はい!ロモ・サルタードおまち!」

 二人が話し込んでいるうちに、料理が出来上がり、カウンターに置かれた。
 その料理は肉と野菜の炒めものと炊かれた穀物が一皿に盛り付けられたもので、なにか独特なしょっぱい香りが漂っていた。そして何故か、ザンカの皿の炊かれた穀物にだけ小さな旗が立てられていた。給仕の男はニコニコしながらザンカに向かって言う。

「かわいいお嬢ちゃんには旗をサービスしたよ」
「あ、ありがとうございます…?」

 ザンカにはよく意味が分からなかったが、とりあえず適当にお礼だけ言うことにした。

「えー、アタシには旗付けてくれたことねェのに」
「じゃあごゆっくり〜!」
「おい」

 母は何故か機嫌を悪くしていたが、ザンカはなんとなく立てられた旗を見ていると楽しげな気分になった。ザンカは料理を一口食べてみると、今まで味わったことのない独特の風味がしたが、嫌なものではなく、むしろ濃い目の味付けもあってかなり気に入ってしまった。嬉しそうにもくもくと料理を食べるザンカを神妙な顔で母はじっと見ていたが、そのうち自分も食べ始めた。

「それで、今日は何しに来たの?」

 クローネの問いに母は食事の手を止めて話す。

「神殿にちょっとな。あとは、まあ。こいつにいろいろ見せたくて」
「そっか、なんか思ったよりお母さんしてて安心したな」
「へいへい、心配かけて申し訳ございませんでしたよォ」
「も〜、捻くれてる〜」

 しばらくして二人は食事を終えた。少し量が多かったのでザンカには食べきることが出来なかったが、残したぶんは母が食べてくれた。
 二人はクローネに別れの挨拶をすると、店の外に出てまた歩き出した。もちろんしっかりと手を繋いで。

「ここを行くと近道だが、いいか?手は絶対に離すなよ」
「…?はい、お母様」

 母はそう言って細めの路地へと歩みを進めた。建物と建物の間にあるようなこの路地は、日当たりも悪く、歩みを進めるごとになんとなく汚らしくなっていくような気がした。
 そして、最初は誰も居なかったのだが、ちらほらと道の脇に座ったり寝そべっているような人たちが増えてきた。その人たちはやせ細った身体にボロ布を纏っている。年齢は大人もいれば子供もいて、無気力にうなだれる者や、二人を淀んだ目で見ている者もいた。
 ザンカはだんだんと怖くなって母に声をかける。

「お、お母様…」

 しかし、母から返事はなく、ただ淡々と歩みを進めるのみであった。
 ザンカはとにかく早くここを抜けたくて、一生懸命母の速度に合わせて歩いた。しばらく歩いて、気がつくと路地を抜けて大通りに出ていた。ほっと一息ついたザンカが周りを見回すと、そこには大きな建物が立ち並び、それらの建物はそれぞれに違う独特で荘厳な意匠を凝らしてあった。
 ここは神殿地区、アルフレイム大陸で信仰される殆どの神の神殿が存在すると言われている場所だ。

「ここだ、ミリッツァ神殿。来るのは久しぶりだが…はてさて…」

 母はそう言うとザンカの手を引き、神殿へと入る。

 ハルシカのミリッツァ神殿は門を抜けるとそのまま広い礼拝堂が広がっており、正面の中央にはミリッツァの神像がある。勇ましくふくよかなこの女神像は両の手に盾と斧をそれぞれ持ち、頭部には角が付いている。この角こそがミリッツァが改心し目覚めた蛮族であるという伝承を表すものであり、女神の激しい怒りを表現するものなのである。

 礼拝堂の中では信徒がちらほらとおり、それぞれ女神像に祈りを捧げ、また壁沿いでは怪我人か病人かわからないが、床に座った人が神官から治療を受けていた。
 そして、女神像の真正面でミリッツァ様式の荘厳なローブを纏って祈るエルフの女性こそが、この神殿をあずかる大司祭である。

 大司祭はスーの姿を確認すると目を見開き、祈りを中断した。

「えー、お久しぶりです。大司祭様」
「スー・シャノウ…!珍しいですね。貴方が神殿にやってくるなど…」

 スーが現れたのに余程驚いたのか、大司祭は落ち着きと威厳のある喋り方ながらも感情が声に乗ってしまっていた。

「えー、私も神官なのだから神殿に来るのは当たり前の事でしょう?」
「この2年ほど全く姿を表さなかったのによくも…」

 そこまで言いかけると大司祭はゴホンと咳払いをして一息つき、身なりに合った冷静な口調で言葉を続ける。

「…ここには他の信徒もいます。話は他の部屋で」
「はい、大司祭様」
「ところで、その子は…」
「私の娘です」
「なるほど、その子が…。とにかく行きましょう」

 大司祭は二人を連れて礼拝堂の側面の扉から奥に入り、別の棟へと移った。案内された先は応接間のような部屋で、二人はそこの椅子に座るよう促される。
 そして大司祭はその向かいに座って、ふぅと一息つくと、その口を開いた。しかしその口調はというと…。

「さて、スー・シャノウ…」
「あい」
「よくもぬけぬけと私の前に顔を見せられましたね!!!この不良神官があああ!!!」
「ぐえーっ!」
「ひぃ?!」

 先程まで女神のように穏やかな雰囲気を醸し出していた大司祭が豹変し、母の胸ぐらに掴みかかって怒鳴る。ザンカは大司祭のこの変容に心底驚いて固まってしまった。

「あなたが!あなたが無茶なことをする度に誰が尻拭いをしてきたと思って〜〜!!!」
「ぎ、ギブ!メルジーヌ!ギブだァ!!子供も怖がってるゥう〜!!!」
「あら、いけない」

 大司祭はそう言うと手を離して椅子に座り直し、ザンカにニコリと微笑みかける。しかしザンカは萎縮しきってしまっていた。

「げほっ、ごほっ…いやぁ、手荒いなメルジーヌ。幼馴染はもっと優しく扱うもんだぜ」

 ザンカは咳き込む母が心配で背中をさすっていた。大司祭メルジーヌは微笑みながら言葉を返す。

「子供に免じて、追及はここまでにしておいてあげます。お嬢さん、お名前は?」
「ざ、ザンカです…よろしくお願いいたします…」
「あら、親の貴女よりもしっかりしていますね」
「ほっとけ!あ〜!まだ首が痛えよ。ザンカ、ミリッツァの神官はキレやすいから気をつけるんだぞ。特にコイツ」
「ほっときなさい!まったく、相変わらずの減らず口。子供を貰ったというからもう少し真面目になるかと思ったものを…」

 メルジーヌは呆れたように話す。
 大司祭メルジーヌとスーは同時期に神殿に拾われ、同じ孤児院で育った、いわば幼馴染であり同期でもあった。冒険者への道を歩み始めてそれから神に見いだされたスーと違い、メルジーヌはもっと早い頃から神の声を聞いて司祭となる道を歩んできた。そしてメルジーヌは、その巫力の高さに加えてドルイドとしての才能も開花したことから若くして大司祭に抜擢されたのだ。
 小さな頃から粗暴だったスーと、多少おしとやかだったメルジーヌとは、いうなれば腐れ縁のような関係で、復讐神官となったスーの問題行動がある程度容認されていたのもメルジーヌの根回しがあってのことだった。

「…それで?今さら何をしにここへ?」
「ああ、3日ほどここで働かせてほしい。娘も一緒にな」
「えっ?」

 声を上げたのはザンカだった。なぜなら彼女はそんな話は今初めて聞いたので、突然の話に驚いてしまったのだ。
 メルジーヌは訝しんでスーの顔を見る。スーはそんな彼女の目をしっかりと見据えた。

「…はあ、なにか理由がありそうですね?もしかして、その子ですか?」
「まあそんなところだ。娘の教育のため、と言えば聞こえはいいが、まあアタシのワガママだと思ってくれて構わない」
「…貴女っていつもそう、普段は私の言うことを聞かないのに、頼み事をするときだけそんな目をして」
「悪いね」
「いえ、いいですよ。その子のためであり、信徒のためでもありますから。ミリッツァ様は慈悲深いのです。知ってると思いますけれど」

 大司祭は詳しい理由も聞かずにスーの願いを聞き入れた。それは腐れ縁や幼馴染のよしみというよりは、むしろ半分諦めに近いものだった。

「実際のところ、3日だけとはいえ手が増えるのは助かります。ここにいる中で神聖魔法が使える者はそう多くありませんし」
「傷病人が多いのか?」
「ええ、戦争に蛮族の侵攻、疫病に天災…ここランドールは問題の宝庫ですから」

 メルジーヌは額に手を当てて深刻そうに話す。

「まあ、とにかく、そういう事ならさっそく働いてもらいましょうか。部屋は用意できますから身支度なさい」

 メルジーヌは空き部屋に二人を案内すると、身支度するように促し、礼拝堂へと戻った。
 二人は部屋に入ると、そこはベッドがひとつと簡素な収納があるだけの質素な部屋であった。荷物を置きながら母はザンカに話をする。

「…そういう事だから、ここでしばらく仕事をする。なに、難しいことじゃない。お前はちょっとお手伝いをしてくれればいい」
「はい…」

 母が何故ここに自分を連れてきて働かせるのかザンカにはわからなかった。しかし、おそらく昨夜の事が理由だと考え、きっとこれはなんらかの罰なのだと思った。

「荷物置いたら沐浴に行くぞ」
「沐浴?」
「水浴びだ、ここで働く時はみんな身を清めてからやる」

 それから二人で浴室に行った。孤児院の浴室と違い、ここは薪を使って火を炊く仕組みになっていた。しかし、薪を使うのは真冬のみで、今は単純に水を浴びる事になった。

「ひゃっ…!」

 水をかけられてザンカはつい声を上げてしまった。常温の水とはいえ元々寒いのが苦手な彼女にとってはそれなりにキツいことではあったが、震えながらもじっと耐える。母はザンカに水をかけながら問いかける。

「大丈夫か?」
「へ、平気です…続けてください…」
「そうか?」

 口ではそう言うが、やはり冷たさが堪える。しかしザンカはこれも自分に対する罰だと思って受け入れた。母は少し悲しい目をしていたが、そんなザンカに何も言わず、沐浴を続けて身を清めた。

 その後、二人は支給された正装を着用し、神殿に併設された保養所へと向った。
 保養所に入った二人はリネン室に入り、母は布をいくつか取るとザンカに桶を手渡して水を入れるよう命じた。水の入った桶は重く、ザンカそれを零さないようにフラフラと歩く。

 母はそのまま一階の別の部屋へ向かい、扉を開いて押さえると、桶を持ったザンカを先に部屋に入れた。そこは複数の病床がある部屋で、その全てに患者が寝そべっている。そしてそのほとんどは女性で、患者の種族は多少バラけているが、アルフレイムにおける人口比に同じく概ね人間であった。
 神殿において傷病人の保護もその役割のひとつである。それはここミリッツァ神殿でも例外ではなかったが、病床には数に限りがあり、重病人が優先される。礼拝堂で治療を待つ人たちは病床からあぶれた人たちであり、彼らは軽い治療を施されると元いた場所に帰されるのだった。

 母は病人ひとりひとりに話しかけ、必要な治療を施す。まずは咳をしている初老の女性の前に行き、胸に手を当てて力を行使した。すると患者は少し楽になったようで、安らかな顔になる。

「ザンカ、この人の身体を拭いてくれ」
「は、はい…」

 ザンカは母に言われたとおりに布巾を水に濡らすとそれを絞り、恐る恐る患者の身体を拭く。

「つ、冷たくはありませんか…?」
「大丈夫よ…ありがとう…」

 ザンカの問いに、女性は弱々しく返答し、そのやせ細った腕でザンカの頭を撫でた。その手は震えており、ザンカはこの人の苦しみが伝わってくるようで少し怖くなってしまった。

 ザンカが身体を拭き終わると、母は次へ次へと患者を診ていった。ひどい火傷で顔が爛れてしまった若い女性、脚の骨があらぬ方向に歪んでしまっている年老いた女性、そして意識を失ったまま目覚めることのない少年までがそこには居た。
 ザンカは母の治療が終わる度に、そのひとりひとりの身体を拭いた。桶の水を換えに部屋を往復するのは大変ではあったが、患者の多くはザンカが身体を拭き終わると感謝の言葉を述べてくれた。

 大部屋での治療が終わると、母はまたリネン室に寄り、今度は2階の個室の病床へと母は向かう。ザンカもその後ろを歩いて付いていくが、水の入った桶を持って階段を登るのに手こずっていると見かねた母が桶を持ってくれた。
 そして部屋の扉の前に着くと、母は扉に付いている書類入れから書類を取り出して読み始めた。

「ザンカ、ここはお前は入らなくていい」
「は、はい…」

 母はそう言ってザンカを待たせると、ひとりで部屋へと入っていった。
 ザンカは扉についた書類入れから少しだけ紙がはみ出てるのに気づき、そこに書いてある文字がつい目に入ってしまった。"この患者は魔神に…"というところまで読むことができた。
 しばらくして、扉が開くと母が出てきたが、その顔は少し険しかった。ザンカは色々と考えると怖くなってしまったが、部屋の中でどのようなことが起きていたのかは聞くことができなかった。

 母は次の扉の前に来ると同じように書類を読む。

「ここはお前も入っていい」

 母はそう言うと扉を開いて中に入り、ザンカもそれに続いた。
 その部屋にいたのは若い人間の女性で、そのお腹は大きく膨れていた。

「こんにちは」
「あら、初めて見る人ね?小さな助手さんも」
「ええ、まあ、勉強を兼ねて」
「そうなの、いい子ね」

 お腹の大きな女性はザンカに微笑みかけてくれたが、当のザンカは彼女のお腹が気になってしまってじーっと見てしまい、返事をするのも忘れてしまった。

「どうしたの?」
「そ、そのお腹は…?」

 キョトンとする女性の問いに、ザンカはお腹を指差して質問し返してしまった。

「こら!指差すな!すいませんね、うちの娘が。何せ初めて見るものですから」

 母は頭を掻きながら女性に言う。女性は気を悪くする事もなく微笑みながら言葉を返してくれた。

「娘さんなのね。いいのよ。ほらこっちにおいで?」

 女性はそう言うとザンカに手招きをする。母も背中を押して女性の近くにザンカを寄せた。

「これはね、お腹の中に赤ちゃんがいるのよ」
「あ、赤ちゃんが…?」

 ザンカは母の言うとおり、妊婦というものを見たことがなく、それどころか自分や他の皆がどうやって生まれてきたのかということすら考えたことがなかったのだった。

「そう、私の赤ちゃん。もうすぐ産まれてくるのよ」

 愛おしそうにその女性はお腹をなでた。その姿はどこか神秘的に見えて、ザンカは言葉にできずじっと見ていた。そんなザンカに女性は微笑みながら声をかける。

「お嬢さん、お腹に触ってみる?」
「えっ」

 突然の申し出に驚いたザンカは自分の手をじっと見て考え込んでしまった。
 この手は、この手に流れる血は人を傷つけるもので、友達の事も傷つけた。そんな自分がこんな大切なものに触れてもいいのかと、そう考えてしまったのだ。
 しかしそんなザンカの肩を母はポンと叩き、大丈夫だと伝えるように微笑んだ。
 ザンカは意を決して、恐る恐る大きなお腹に手を触れてみた。すると、その手を通して暖かさと脈が伝わってくる。そして不意にトンと振動があったような気がした。

「あ、いまお腹蹴った…」 

 そう言うと女性はまたお腹をさすった。

「中で動いてる…?」
「そうよ、赤ちゃんが動いてるの。ねえ、今度は耳を当ててみて?」
「耳を…?」

 ザンカは言われたとおりに、今度は耳をお腹に当ててみた。顔を伝って暖かさが伝わり、トクントクンと血潮が流れる音が聞こえる。そしてそこにはもうひとつの脈動が、同じようにトクントクンと動いている…。
 ここには確かに2つの命があるということを、ザンカは自身の肌と、そして自身の血潮を通じて感じ取った。
 命とはなんなのか、どこからやってくるのか、そんなことは幼いザンカにはわからない。しかし、目の前に確かにあるこの命に、ザンカは不思議な敬意のようなものを覚えるのであった。

 二人はその後、女性の話を聞いて身の回りの世話をし、部屋を立ち去った。そして全ての個室を回り終えると、今日の仕事はとりあえず終わり、あとは他の神官たちに引き継いだのだった。

 食事を終え、神殿の部屋に戻って寝る支度をしながら、母はザンカに質問をした。

「ザンカ、神殿の仕事をしてみてどう思った?」
「えっ。えっと…」

 ザンカは今日のことを思い返してみた。ゆっくりと考え、そして問いに答える。

「私は大したことは出来なかったけれど、大変な仕事だと思いました…。あんなにいっぱいの病気の人を診て、治してあげて、お母様は凄いことができるんだなって、思いました…」
「そうか、でもな、ちょっと違うんだ」
「え?」

 母は神妙な面持ちでザンカに話をする。

「アタシたちみたいな神官でも、あの人たちを救ってやることは難しいんだ。いや、出来ないと言ってもいい」
「え、でも…」

 ザンカには母がなぜそのようなことを言うのか分からなかった。神の奇跡を代行し、人々を癒す母の姿はとても立派で、患者たちもとても感謝していたからだ。
 戸惑うザンカに、母は話を続ける。

「確かに、アタシたちは怪我や病気を治せる。でもな、それも一時的なもので、老いや生まれ持った病が原因の苦しみは完全には取り除けないことの方が多い。貧しい人たちは病を治してもまた同じように病魔に襲われちまう。あそこに居るのは、だいたいがそういう人たちだ」
「そんな…」

 母の言うとおり、神の奇跡である神聖魔法も万能ではなかった。
 病は何も病魔のためだけに起こるものではなく、生まれついた特性としてのものもあり、そういったものを治すのは難しいことであった。病魔のために起こる疾患も、その程度によっては優れた巫力を持ったメルジーヌでさえすぐには取り除けないこともある。身体の一部を失えばそれを再生させることは困難を極めた。加えて、神の力を代行できる神官はそう多くなく、力の源のひとつである彼らのマナも有限だった。
 そして何より、貧しい人々は栄養や衛生の面でも状態が悪く、治しても治してもまた同じように神殿へと戻ってきてしまう。神殿備え付けの療養所に入る者の多くはそういった貧しい人々であり、栄養のある食事と暖かい部屋を与えてなんとか改善に向かわせようと神官たちは必死に対応しているが、ままならないことの方が多かったのであった。

「な、ならなんでお母様たちは治すんですか…?苦しみは消え去らないのに…」
「だからこそ、だ」
「え?」
「苦しみが無くならないからこそ、少しでもそれを減らしてあげられるように神官たちは頑張ってる。全部を救うことはできないけど、救いを求める手があれば、それに手を差し伸べて掴むんだ。ここから出ていったアタシが言うのもおこがましいけど、アタシもアタシなりに色々考えて冒険者になった」

 母はそこまで言うと、少し考えるような素振りをして、また話し始めた。

「ザンカ、アタシは別に罰を与えるために仕事をせようとしてここに連れてきたわけじゃない。もちろん、神官になってもらいたくてでもない。ただ、いろいろな人たちが居るって、今はそれだけ分かってほしいんだ」
「お母様…」

 母の真意は分からなかったが、その話を聞いてザンカは今日のことをまた反芻して考えた。そんな彼女の頭を母は優しく撫でて話す。

「さあ、もう寝よう。明日からまた忙しくなる」
「お母様…おやすみなさい」
「ん、今日はご苦労だった。上出来だったぞ」

 そうして二人は眠りについた。

 次の日から、二人はまた同じように神殿の仕事をした。身体を清め、患者たちと触れ合いながら治療をして、食事の用意や汚れ物の片付けをした。
 ザンカは一生懸命仕事を手伝った。それは自分に罰を与えるためではなく、彼女なりに皆の痛みを少しでも減らしてあげたいという意志の現れだった。
 そうする中でザンカは患者たちとも親交を深め、特にあの妊婦とは毎日お話をした。

 そうするうちにあっという間に3日が過ぎ、二人は孤児院に帰る日がやってきた。
 時刻は昼前、来たときと同じく応接室で大司祭と二人は話をしていた。

「スー、あなたたちのおかげでこの3日間はとても助かったと若い神官たちは言っていました。私からも感謝を。これは報酬です」

 大司祭メルジーヌはそう言うと少しのお金が入った袋を差し出した。母はそれを見ると少し怒ったような顔をして口を開いた。

「別に報酬が欲しくてやってたわけじゃないぞメルジーヌ。いつからこういうふうになったんだこの神殿は」
「誰しも糧がなければ生きてはいけません、ここの若い司祭たちもです。貴女といえど無償で働かせるというのは結局彼らのためにもなりませんから、仁義として払うまでのことです」

 メルジーヌの説明に母は訝しんで言葉を返す。

「…そういうもんか?」
「そうです。まあ、そう思えないなら、そうですね…。貴方の娘さんに対する私からのお小遣いということで、それで何かご褒美でも買ってあげたらどうです?」
「まあ、そうか…そういうことなら…」

 母もそれで納得したようで、袋を受け取り、ザンカに声をかけた。

「よしザンカ、メルジーヌおばさんにちゃんとお礼しないとな」
「お、おばっ?!」 

 突然のおばさん呼ばわりにメルジーヌは眉をひそめた。ザンカは苦笑いしながら言われたとおりにお礼を言う。

「えっと、大司祭様、ありがとうございました」
「いいのですよ、ザンカさん。神殿は貴女のような子はいつでも歓迎していますから、また来てくださいね」

 ザンカの言葉にメルジーヌは機嫌を直して答える。やはり彼女も他のミリッツァ神官と同じく子供好きなのであった。

 和やかな雰囲気になり、そのまま別れの挨拶をするかという流れになったときであった。突然応接間の戸がドンドンと叩かれ、返事を待たないまま開けられると、若い司祭が慌てながら口を開いた。

「た、大変です大司祭様!」
「何事ですか!」
「それが、2号室の患者が急に産気づきまして!どうにも状態が悪く!」
「な、なんですって?」

 2号室の患者、とはザンカがお腹を触らせてもらったあの妊婦だ。ザンカは司祭の言葉を聞いて、血の気が引いてしまった。あの人と赤ちゃんに何かあったらと思うと、どうしようもなく不安になった。
 慌ててローブを脱ぎ捨て部屋から出ていこうとするメルジーヌに母は声をかけた。

「まて!私も行く!」
「…貴女が来てくれるなら頼もしいです!さあ、早く!」
「あ、あの!私も手伝わせてください!」

 勇気を出して大きな声でザンカは口を挟んだ。自分は役に立たないかもしれない、しかしそれでもあの人たちの為に働きたいと、ザンカは切に願ったのだ。
 母と大司祭は一瞬目を合わせて頷き、ザンカの手を引いて妊婦のいる部屋へと向かった。

「うぅ…」

 個室に行くと妊婦は苦しそうに唸っていた。すでに若い司祭がひとり介助しているが、どうにも上手く行っていないようだ。

「容態は?!」 

 駆けつけた大司祭の問いに、若い司祭は涙目になりながら返答する。

「大司祭様!ど、どうにもこれは!逆子のようですぅ!」

 母は若い司祭を押しのけて位置に付き、代わりに介助を始めた。

「お前どけ!ザンカはとりあえず水だ!水と布!」
「は、はい!」

 母の言いつけに従い、ザンカは急いで水を組みに行った。そしてリネン室から布を沢山取って服のポケットに詰めると水の入った桶を持って階段を駆け上った。
 ザンカが部屋に戻ると状況がまた変わっており、緊迫した様子で大司祭が声を上げていた。

「このままでは…!切開しなければならないかもしれません!」
「いや、落ち着け!まだなんとかなる!ザンカ!!この人の手を握ってやってくれ!」

 ザンカは急いでベッドまで行くと女性の手を握った。女性はザンカの手が痛む程に強く握り返してきて、それは正に女性が感じている産みの苦しみの強さを示すものだった。
 ザンカは女性の姿を懸命に見る。涙を流すほどに呻き苦しみ、身体からは血を流している。なぜここまで苦しみながら子供を産もうとするのか、ザンカは疑問に思ってしまった。しかしそれ以上に、この激しい生命の営みに気づけば声を上げていたのだ。

「が、頑張って…!私がついてますから…!」 

 ザンカの言葉に、女性はまた強く手を握り返した。
 しかし状況は芳しくはなく、母と大司祭は緊迫した状況の中で必死に介助をする。

「脚が出てきました!」
「これ以上出てこない!へその緒が首に引っかかってるかもしれない!」
「赤ん坊が危ない!切開します!スー!準備を!」

 大司祭はそういうとヤドリギの棒杖を手に取り、母は聖印に手を重ねて祈る。

「精霊よ!この者に再生の力を!」
「ミリッツァよ!この者の痛みを我が身に!」

 二人がそれぞれに祈りを捧げると周囲はまばゆい光に包まれた。そして大司祭は杖を刃物に持ち替えると手早く妊婦のお腹を切開する。途端に血が吹き出し、シーツを赤く染める。

「ぐぅっ…!」

 妊婦の痛みを代わりに引き受けたスーはその痛みに耐えながら赤ん坊を取り上げた。
 切開されたお腹は精霊に与えられた再生の力によって元の姿に戻っていき、大司祭はさらに治癒の奇跡を行使すると傷は跡形もなく消え去った。

「おぎゃあ」

 産まれてきた赤ん坊が元気よく泣き声を上げる。スーは赤ん坊の身体の血を拭い清めると、きれいな布に包んで、この瞬間に母親となった女性の元へと連れて行った。

「元気な女の子だ。おめでとう」
「ああ…」

 ザンカの手を強く握っていた女性はその手を離し、自分の娘を受け取って抱きかかえた。

「ああ…私の赤ちゃん…産まれてきてくれてありがとう…」

 おおよそ普通ではない、神と精霊の力を借りた施術ではあったものの、赤ん坊は無事に生まれてきてくれた。
 あれほどまでに苦しんでいたこの母親は、今は愛しい娘を抱いて泣きながら笑っている。その姿を見てザンカも心の底から嬉しい気持ちになった。
 しかし、胸のうちにはもうひとつの感情があった。ザンカは自分の時はどうだったのだろうと考えると、目の前にいる母娘が羨ましいような、自分が孤独であるような、そんな気持ちになってしまう。服の裾をぎゅっと握りしめるザンカ、スーはそんな彼女の肩を黙って抱き寄せるのであった。

 その後部屋を片付け、また身支度を整えて帰る準備をした二人は、帰る前にまたあの母娘に挨拶をする事にした。トントンと戸を叩いて部屋に入ると、彼女はベッドの上でにこやかに出迎えてくれた。

「貴女たちのおかげです…本当にありがとう…」

 彼女は心からの感謝の言葉を二人に述べる。そして愛おしそうにまた娘を抱きかかえると、ザンカの方を見て言った。

「あなたもありがとう、私の手を握って励ましてくれて」
「わ、私は何も…」

 なんだか照れくさくなってうつむくザンカ。そんなザンカを見て女性は言った。

「ねえ、もしよかったら、この子の事を抱いてあげてくれない?」
「えっ、でも…」

 女性の言葉に躊躇したザンカだったが、直後背中をポンと強く叩かれた。叩いた張本人の母の方を見ると、彼女は優しく笑っていた。
 ザンカはおずおずと両の手を伸ばすと、その手に布に包まれた赤ん坊が渡された。
 その赤ん坊はザンカの手にはとても重く感じたが、しっかりと丁寧に抱き寄せる。それは小さく弱々しかったが、息をしていて、温かく、一生懸命生きていた。

 そして二人は別れの挨拶をすると部屋から出て、今度は大司祭に挨拶をした後、神殿の外へと出た。
 昼頃に出発のはずが、もう日も傾き始めており、大司祭はもう一泊することを勧めたが、皆が心配するからと母が断った。

「さて、予定より遅くなっちまったから先に飯でも食うか。ザンカ、何が食べたい?」
「じゃあ、ロモ・サルタードを」
「わかってるじゃん。流石アタシの娘」

 二人は手を繋いでギルドまで行き、食事を取った。残念ながら今日はクローネや他の仲間たちには会えなかったが、二人で食べるロモ・サルタードは前に食べたときよりも美味しい気がした。

 そして街を出た帰り道、二人は夕日を背にして歩いていた。
 ザンカは行きと同じく、母の後ろをついていく事になると思っていたのだが、母は歩幅を合わせて歩いてくれた。
 しかしゆっくりと歩いていても、昼間あれだけの事があれば疲れも溜まっているし、ザンカはだんだんと歩くのが遅くなっていった。
 そんな様子を見ていた母は急に立ち止まると、ザンカに背を向けてしゃがんで言った。

「おんぶしてやるから、乗れ」
「え、でも、まだ歩けます…」
「いいから、乗〜れ!」
「は、はい…」

 ザンカが言われたとおりに背中におぶさると、母は立ち上がって歩き始めた。母の背中から見ると、視界は高く、世界がもっと広く見えるような気がした。
 ゆっくりと歩きながら母はザンカに話しかける。

「赤ちゃん、無事に生まれてよかったな」
「はい、お母さんも幸せそうでした…」
「でもな、大変なのはここからなんだ」
「えっ?」
「あのお母さんはな、元が貧しい家の人で、妊娠してから旦那さんが死んじまって誰も頼れなかったから神殿に来たんだ。だから、きっとこの先苦労すると思う」
「そんな…」

 ザンカは、耳を疑ってしまった。あの幸せな親子のこの先の不幸なんて、これっぽっちも想像していなかったのだ。

「孤児院のみんながそうであるように、いつか親子が離れ離れになるかもしれない。貧しいってのはそういう事だ。だから神殿は頑張ってるけど、限界はある…」
「…」
「みんな平等じゃない。健康な体で産まれて来れない子もいるし、そうじゃなくても生きていれば誰しも不幸になるかもしれない。そもそも、最初からあの子のように産まれてくる事さえ出来ない子だって…」

 そこまで言うと、母は少し立ち止まって俯いたが、しかしすぐにまた歩き出して話を続ける。

「でもな、あのお母さんはそれでもこの世が苦しみだけじゃないって信じてあの子を産んだ。きっとそれは間違いじゃない。」

 母の言葉はだんだんと強くなっていき、ザンカにはそれがまるで母自身の祈りのように聴こえた。

「あの子を産んだ事も、あの子が産まれてきたことも、何ひとつ間違いなんかじゃないんだ。ザンカ、それはお前が産まれてきたこともだ」
「私が…?」
「そうだ。確かにお前は不幸な生まれ方をしたのかもしれない、どれだけ苦しい思いをしてきたか、その全部はお前以外にはわかりっこない。だけど、それでもアタシは…」

 おぶさっているザンカには母の顔を見ることは出来ない。しかし、その声はなんとなく泣いているかのように聴こえた。そして母は柄にもなく震えたような声でザンカに自身の思いを告げる。

「それでもアタシは、お前に出会って救われたんだ。ザンカ、産まれてきてくれて…アタシをお母さんにしてくれて、ありがとう…」

 それは、思ってもみない言葉で、そしてザンカが一番欲していた言葉でもあった。

「お母様…お母様ぁ…!」

 ザンカはポロポロと涙を流すと、母の背中に顔をうずめて泣いた。
 母に救われて抱きしめてもらったことも、名前をもらったことも、友達が出来たことも嬉しかった。皆から大切なものをいっぱいもらったのに、自分は傷つけることしか出来ないのだと、そう思い込んでいた。
 でもそうではなかった。大好きな母が、ずっと自分のことを必要としてくれていたのだ。生まれてからずっと欠けていた何かが埋まった気がして、ザンカはわんわんと泣いてしまった。

「やっと甘えてくれたなぁ…。いいんだ、それで。お前は優しいけど自分で抱え込みすぎ。もっと周りに頼ってもいいんだぞ?」
「はい…」
「帰ったらまたフリアたちと遊ぼう。大丈夫、お前の手は誰かを傷つける手なんかじゃない。患者たちもみんなお前の手をとってくれた」
「はい…!」
「それに、赤ちゃんも抱くことができた。あんなに安心して眠って…。それは優しい手じゃなきゃ出来ない事だ。流石はアタシの娘!」
「はい!」
「でも本当の本当に間違った時は、またひっぱたいてやるからな!いろんなことに何度でも挑戦して、何度でも失敗しろ!そうやって大きくなっていくのが子供の仕事だ!…いいな?」
「はい!!…うぅ〜…」

 そう言いながらザンカは涙でぐしゃぐしゃの顔を母の背中にこすりつけた。

「あーもう、背中びっちゃびちゃじゃん!あーあー!」
「うぁ〜ん!お母様ぁ〜!ごべんなざい〜!」
「ほらもう!もうだぞ!言ってるそばからもうやった!あはは!帰ったら洗濯手伝えよな〜!」
「グスっ…お母様がァ…お洗濯してるのなんか見たことありませんものぉ〜!うぁ〜ん!」
「言ったわねぇ!こいつぅ〜!キィ〜〜!あ、これ大司祭様の子供の頃の真似ね」
「グスッ…ぷっ、うふふ…」
「あ〜!笑った!大司祭様に言いつけるからなァ!!」
「もう!お母様が悪いんですわよ!あはは…」

 二人はそれから、くだらない話をずっとしながら帰った。相当疲れていたのだろう、孤児院につく頃にはザンカは母の背中におぶさったまま眠ってしまっていた。

 きっと、彼女は次の朝には嫌がる母を起こして、髪を梳かしてもらい、みんなと食事をして、それから遊ぶ。そんな日々がずっと続く事を願うことは、自分のエゴでしかないのかもしれない。それでも今は、今この瞬間だけは、この幸せを噛み締めたいとスーは思った。

 そして、ザンカはそんな母の背中に抱かれて夢を見た。自分を愛してくれた母のように強くなり、今度は自分が愛する人々を守る、そんな子供らしい夢を…。


【実りの季節】

 穏やかに晴れたある秋の日の抜けるような空の下、孤児院の庭で2人の少女が洗濯物を干している。薄桃色の髪をした長い髪の少女と茶髪のポニーテールの少女、談笑しながら手を動かしている二人の元に一人の小さな女の子が洗濯物でいっぱいになったカゴを手に抱えながら歩いてくる。

「ザンカおねーちゃーん!フリアおねーちゃーん!」

 初めて街を見に行ったあの日から10年の歳月が流れ、ザンカとフリアは16歳になっていた。ザンカはバジリスクではあったが人間に合わせて15歳のときに成人を迎え、あどけなさは残るものの一応は大人として扱われるようになった。
 10年の間、多くの子供たちが里子に出されるなどして孤児院を去り、また新しい子供たちが様々な理由で孤児院にやってきた。そんな中でザンカとフリアは未だ孤児院に残り、保護を受ける者の中では最年長として年下の子供たちの世話をするようになっていた。

 フラフラと歩きながら今にも転んで洗濯物をぶちまけてしまいそうな女の子に、ザンカは慌て気味に駆け寄り、かごを受け取った。

「ミリィったら、重かったでしょう?転んだら危ないから無理しなくていいと言いましたのに…」
「でも、ザンカお姉ちゃんたちのお手伝いしたかったんだもん…」

 ミリィと呼ばれるこの6歳ぐらいの女の子は、そう言いながら頬を膨らませている。ザンカはそんな彼女の頭をなでながら優しく諭す。

「ありがとう。良い子ですね、ミリィ。でも転んだら危ないですから、お手伝いする時は私達に相談してからにしましょうね?」
「はーい…」

 しょげるミリィの元にフリアもやってきて、同じように頭をなでながら口を開いた。

「じゃあ、お姉ちゃんたちと一緒に干すの手伝ってくれる?」
「フリア、この子じゃ物干し竿に手が届きませんわよ…」
「大丈夫大丈夫。ミリィ、これ持って!」

 フリアはミリィに洗濯物を一枚もたせると、彼女を持ち上げようとした。

「私達が持ち上げればいいじゃない!えいっ…う、重…」
「わー!たかーい!」

 ミリィは喜んでいるが、フリアはちょっと苦しそうにしている。6歳児の体重はだいたい20kg前後、持ち上げるには少し苦労する重さだ。ミリィの想定外の重さに、フリアはザンカの方を見て苦笑いしながら口を開いた。

「ざ、ザンカちゃん…かわりばんこでやろっか…思ったより重い…」
「もうっ、よく考えて行動しないからそうなりますのよ!」

このようにフリアは時折軽率な行動をしてはザンカに諌められていた。
フリアはミリィを地面に下ろし、今度はザンカがミリィをひょいと持ち上げた。

「よいしょ。あら、軽いではないですか。そもそもレディに重いなんて、失礼ですわよね?ミリィ?」
「えー?!そんな軽々持てちゃうのー?!」

 腕の力のみでなんの苦もなくミリィを持ち上げてしまったザンカに、フリアはとても驚いていた。

「ほらミリィ、服をここにかけて?」
「わかった!えい!」
「お上手ですわ」

 キャッキャとはしゃぎながら手伝うミリィにザンカも嬉しくなる。しかしフリアはというと、かわりばんこと言った事が仇となって、何度もミリィを持ち上げたせいで疲れ果ててしまった。
 洗濯物干しが終わって、ザンカはミリィに戻って皆のところで遊ぶように言い、とてとてと歩いていくミリィを見ながら、ヘトヘトに疲れ果てたフリアが口を開く。

「キツかった〜!筋肉痛になったかも〜!」
「そんなに重かったでしょうか?」
「ミリィだってもう6歳だもん、流石に重いよ〜。軽々持ち上げられるザンカちゃんが力強すぎ。もしかしてスー先生に似てきた?」
「私がお母様に?」

 フリアの言葉にザンカは目を丸くしてしまった。

「うん、似てきたよ。力だけじゃなくて、なんだろう。雰囲気?ちょっとそんな感じするよ」
「そ、そうでしょうか…?」

 自分が母に似てきたという自覚は全くなかったザンカだったが、そう言われることが嬉しいような、そうでもないような、複雑な気持ちになってしまった。
 フリアの言葉に考え込んでしまったザンカだったが、その直後遠くから声が聞こえてきた。

「お〜い!お〜い!」

 二人が目を向けると鹿の角を頭に生やした大男が手を振りながら歩いてくる。彼の名はエィルク・ネボウスキ。かつてザンカと森の中で出会ってスーにボコボコにされた彼だったが、誤解が解けたあとは孤児院に時折やってくるなどして、皆と親交を深めるようになっていた。

「あっ、ザンカちゃんの旦那様」
「ま、ままままたそんなことを!違うと言ってますのに!」
「逞しいよねえ、エィルクさんの腕…あの腕に抱きしめられて、ザンちゃんって耳元で囁かれて…」
「フリア!」

 ニヤニヤしてからかうようなフリアの言葉にザンカは顔を少し赤くして怒った。あの時の縁からか、二人が気が合って仲良くしているのは公然の事実だった。
 ザンカが怒りながら否定しているうちに、エィルクは二人の元へとたどり着く。彼は大きな川魚を2匹背中に担いでいた。

「いンやぁ、なかなか良い魚が獲れたンで持ってきたよぉ。また皆で食べなァ?」
「いつもありがとう、エィルク」
「エィルクさん!ザンカちゃんとはどこまで行ったの!?」
「はぁ?!」
「へェ!?」

 フリアの突然の言葉に二人は驚いてしまった。

「フリア!だから私達はそんな不埒な関係ではないと!」
「そうだよォ!ザンちゃんに手なんか出したらお母様にブチ殺されちまうよォ!それに自分の娘みたいな年頃の子とどうこうなんて有り得ねってェ!!」

 必死になって否定する二人。そんな二人の姿にフリアは大喜びだ。

「アハハハ!うそうそ!ちょっとからかっただけ〜!必死になっちゃって可愛いね〜二人とも〜!ひゅーひゅー!」
「フ〜リ〜ア〜!!」
「きゃ〜!アハハハ!」

 無邪気に笑うフリアとそれに掴みかかるザンカ、年相応に成長してはいるものの、彼女たちは今だに子供の頃の無邪気さを失ってはいなかった。

「まぁまぁ、ザンちゃん落ち着いてェ。フッちゃん、これ持ってってくんねェ?おで達は用事あっからよゥ」

 エィルクはそう言うとフリアに大きな魚を渡した。受け取ったフリアは訝しんで話す。

「いいけど、用事?ねぇ〜…いつも二人で何してるの〜…?」
「べ、別に、何でもいいではないですか。何もやましい事はしていませんから」

 またからかわれそうな雰囲気を感じて言葉を返したのはザンカだ。そんな彼女の顔をフリアはまたニヤニヤと見ながら言う。

「へぇ〜…まあ、そういうことにしておいてあげる!夕飯の支度までには戻ってきてね。えへへ、ごゆっくり〜」

 受け取った魚を担いでごきげんな足取りでフリアはその場を離れていった。そんな彼女を見ながらザンカはため息をつく。

「はあ、まったくフリアったら…色恋のこととなると思い込みが激しいんだから…」
「まあいいでねェか、それよりも今日もいつもの感じでいいの?」
「ええ、よろしくお願いします」

 そう言うと二人もその場をあとにした。向かう先はザンカが昔逃げ込んだ森にあるエィルクの居住地だ。
 ザンカが子供の頃に入った時には恐ろしく感じたこの森も今となっては慣れたもので、森のエキスパートであるエィルクの先導に合わせれば歩くのも大して苦にはならなかった。
 しばらく歩き、少し開けた場所に出るとエィルクの居住地へとたどり着く。何らかの遺跡の跡地に建てた自然の木材を組み合わせて作った簡素な小屋だが、彼が生きるのに必要な物は一通り揃っていた。

 実はティエンスであった彼は、この遺跡の中で眠っていた古い時代の射手であったが、自然の木々が彼の寝床をこじ開け、棺の中に置いてあった蘇生用の魔晶石が偶然彼を目覚めさせたのだった。

「では着替えてきますわね」

 そう言いながらザンカは小屋に入っていく。エィルクは外で彼女を待っていた。
 そしてしばらくして小屋から出てきたザンカは、身体に金属製の鎧を纏い、左手には盾、右手にはメイスを持っていた。

「おっ、着るのだいぶ早くなったなァ。最初は小一時間はかかってたのに」
「流石に多少手慣れてきましたわね。では早速お願いします」
「あいよ!」

 そう言うとエィルクも盾とメイスを持ち、ザンカは彼に向ってメイスを振るうと、彼は盾でそれを受ける。そして次はエィルクがメイスをザンカに向って振るい、彼女が盾で受ける。
 ザンカは1年ほど前から密かに隙間の時間を利用してエィルクと戦闘の訓練をしていた。母のような強い戦士に憧れた彼女は、エィルクに頼み込み、最初は渋っていた彼も彼女の熱に圧されて訓練に付き合うようになったのだ。
 重厚な鎧に盾、これは子供の頃に見た母の装備に倣った物で、剣でなくメイスを持つのは不意に自分の体を切って毒の血を流さないためだった。

「はあっ!」
「うおっ!?」

 ザンカの一撃にエィルクの盾が弾き飛ばされて地面に落ちた。

「いてェ〜!腕が痺れちまったよぉ」
「あっ、ごめんなさい…」

 腕を抑えるエィルクの姿にザンカは盾とメイスを手から離して彼に寄り添う。表情は読めないがエィルクは怒っていないようで、むしろ誇らしげに彼女に言った。

「気にすんなァ、ザンちゃんすっかり力強くなっちまって、オデの腕じゃ弾かれちまうなァ!ハハッ!」
「本当にごめんなさい…調子に乗りましたわ。あなたには無理を言って付き合っていただいているというのに…」
「気にすんなってェ!もうオデじゃ練習台にならないぐらい腕力ついちまったってこったよォ。オデが殴りかかってもビクともしねェし」

 エィルクはザンカの背中をポンポンと叩き励ます。実際、本来は射手であるエィルクは、かつての仲間との記憶からメイスや盾の使い方を思い出してなんとなく使っているのみで、成長著しいザンカの練習相手としては力不足になりつつあった。

「アレだなァ、オデじゃなくお母様だったらもっとマシな練習相手になるんだろうけどなァ…」
「それは…無理でしょう。お母様は私や他の子供たちが冒険者になるなんて許してくれませんから、訓練してるなんて知ったらなんて言うか…。貴方とその、れ、恋愛してると思われた方がいくらか穏当ですわ…」

 ザンカはうつむきがちに言う。昔から子供たちについては基本的に放任主義のようなスタンスを取る母だったが、子供達が冒険者に憧れる事に関しては否定的になるのを彼女は知っていた。だからこそ、傍目から逢瀬にしか見えなくても、このように森の中でこっそりと訓練をするのだった。

「オデはザンちゃんに手ェ出してると勘違いされンのが何より怖ェけどなァ…。まあ、ザンちゃんは今出来る訓練をすればいいと思う」
「今できる訓練?」
「ああ、そうだなァ。先を丸くした脆い矢を用意したから、矢を盾で受ける訓練でもすっかな?」
「いいですわね!ぜひ!」

 目を輝かせて訓練を乞うザンカ。エィルクは彼女のこのキラキラした目に弱かった。しかしエィルクは釘を指すように言う。

「危ねェ訓練だからな。こればっかりは兜を被って貰うぞ」
「兜ですか…窮屈であまり好きじゃないですし、お母様も着けてませんでしたわ」
「ダ〜メ!被んねえなら訓練はナシだ!」
「わ、わかりましたわよ…」

 渋々と兜を着用するザンカ。エィルクは全身に鎧を纏い盾を構えた彼女に矢を放つ。盾の真正面に命中した矢は弾けて壊れたが、その衝撃は盾越しでもザンカに伝わり、腕をしびれさせる。

「くっ…」
「盾の正面で受けちゃダメだァ。受け流すように弾かねぇと盾ごと持ってかれるぞォ!」
「も、もう一度!もう一度お願いします!」
「その意気だァ!次行くぞォ!!」

 その後ふたりは日が傾くまで訓練を続けた。ザンカは鎧を脱ぎ、普段着に着替えるとエィルクにエスコートされて孤児院へと戻る。恋愛してるとフリアには勘違いされている二人だったが、実際のところは親戚のおじさんと姪のような、母とはまた違うが保護者と子供の関係であった。

 孤児院に着いた二人はお別れの挨拶をして、それぞれに帰っていく。ザンカはいそいそと台所に入ると夕飯の皆はもう支度を始めていたので慌ててそれに加わった。

 しばらくして調理が終わった頃、院長が台所にやってきてザンカに話しかけてきた。

「ザンカさん、ちょっとよろしいですか」
「院長先生、どうなされましたの?」
「いえ、スーがまだ起きてこないようですから、少し様子を見に行っていただけますか?」
「お母様が?」
「ええ、昨日の晩帰ってきたときから疲れ果てたようにしていましたから、無理もないのかもしれませんが…」

 ザンカが10歳ぐらいの頃から、スーは自分が付きっきりでなくてもザンカは大丈夫だと判断して冒険者としての活動を再開していた。彼女がそのような判断をした大きな要因としては、元々スーの収入に頼ることの多かった孤児院の財政がランドールの情勢のさらなる不安定化に伴って悪化したためであった。
 とはいえ、かつてのように大きな冒険に出ることはあまりなくなり、主に警備任務や獣退治などの簡単な仕事を彼女はしていたのだが、直近の冒険では2週間に渡り孤児院に戻らず、院長の言うように昨晩ようやっと帰ってきたところだった。

「せめて夕飯ぐらいは食べないと、体力も回復しないでしょう」
「お母さまが…分かりました」

 ザンカはそう言うと母の私室へと向かい、戸を叩く。この部屋に入るのはいつぶりだろうと彼女は考えていた。

 ザンカは6歳の頃、母と初めてハルシカに行って帰ってきた次の日からフリア達の部屋で寝るようになった。母がいない夜に初めは不安でいっぱいだった彼女は、たまにぐずって母の部屋で寝ることもあったが、7歳ぐらいの頃になるともうそのような事もなくなっていた。それからだんだんと母の部屋に入ること自体が減っていき、ここ数年はまったく足を踏み入れていなかったのだ。

 ザンカは戸を叩きながら母に呼びかける。

「お母様、お母様!お夕飯ですわよ!」

 部屋の中から返事はなかった。ザンカはドアのノブを回すと鍵はかかっていなかったので、そのまま開いて足を踏み入れた。

「お母さ…げほっ、ごほっ!」

 部屋の中に足を踏み入れた瞬間、ホコリが宙を舞い、ザンカは咳き込んでしまった。
 子供の頃に初めて入ったときのようにホコリっぽく乱雑に散らかった部屋は本や道具、大きなメイスなどの武器が整理されず放置されており、ザンカが部屋に来なくなってからの母のだらしなさを物語っていた。

「もうっ、お掃除してませんの?お母様!」

 ザンカは大きな声で呼びながらベッドを見ると、母はまったく気づかずに毛布にくるまり爆睡していた。ザンカはベッドに近づき、母の身体を揺さぶって声をかける。

「お母様!お母様ったら!お夕飯の時間ですわよ!」
「うぅ〜ん、痛え…」
「えっ」

 揺さぶった事で母が痛みを訴えたのでザンカは咄嗟に手を離した。恐る恐る毛布を取ると、母の服は乾いた血でべっとりとしていた。

「お母様!?」

 驚いたザンカは母の服を捲り、身体を確認した。母の身体は昔見たときよりも傷痕が増えてはいたが、どこからも出血してはいないようだった。おそらくいつものように自分の怪我を雑に治したあと、血の染み込んだ服のまま眠りについたのだろう。
 ホッとしたザンカは胸をなでおろすと同時に、これほど出血するなんてどんな恐ろしい出来事があったのだろうと考えを巡らせた。

「お母様、貴女はいつもそう。私達の傷は痕が残らないように綺麗に治してくれるのに、自分の事は無頓着で…こんな傷だらけになって…」

 母は相変わらず熟睡していて起きそうもない。無理に起こすのもかわいそうだと思ったザンカは、食堂に戻ると院長にその旨を伝え、自分は食事を取らないままホコリっぽい母の部屋に戻った。
 かつて母がそうしてくれたように、ザンカはベッドで眠る母の隣に椅子をおいて寄り添う。そして母の寝顔を見ながら彼女は話しかける。

「本当にしょうがない人…お掃除もお洗濯もお料理も出来なくて、いつまでも子供みたいで…でも…」

 返事はもちろんない、しかしザンカは困ったように微笑むと母の手をそっと握り、彼女が起きるのを待ち続けた。そうするうちにザンカもウトウトしてきて、いつしか眠ってしまっていた。

 それからしばらくして、日はとっぷりと暮れて夜中になった頃、スーは目を覚ました。

「ふわぁ〜…よく寝た…って、おい!?ザンカ!?」

 椅子に座って眠っているザンカにスーはおどろいてしまった。

「なんでこいつここで寝てんだ…?まあいい、おい!起きろ!」
「うぅ〜ん…?あ、お母様…お夕飯の時間ですわよ…」
「夕飯〜?」

 寝ぼけるザンカをよそに、スーは血のついた服を脱いで着替えて窓の外を見ると、もうすっかり真夜中になっており、直感的に夕飯の時間が過ぎたことに気がついた。

「あ〜、寝過ごしちまった。飯残ってるかな〜。おいザンカ、飯食いに行くんだろ?」
「うぅ〜ん…」

 母がザンカを起こしたのち、二人は食堂へと向かったが、やはり夕飯の時間は過ぎており、食卓には二人分の冷めた食事と『台所にスープ』という院長の字で書き置きがしてあった。

「もうっ、お母様が起きないから!」
「お前も寝てたろ!ったく、スープ温めるか…」
「私がやりますから、お母様は座ってて下さい!」
「へいへい」

 ザンカが台所でスープを温め直して食堂に戻ると、母はグラスを出して酒を飲み始めていた。
母の姿を見たザンカは呆れたように言う。

「もう、またお酒ですか?身体が疲れてるのだから控えたほうがいいと思いますけど?」
「誰かが言った。『酒を飲むのは時間の無駄、酒を飲まないのは人生の無駄』ってね」
「はいはい」 

 ザンカは母の講釈を聞き流しつつスープを食卓に置くと、食事を取り始める。

 かつては母にべったりだったザンカも、今ではこのように母につっけんどんな態度で接してしまうようになった。しかしその心の底では、昔のようにまた母に甘えたいような気持ちもあるのだった。
 そんなザンカの気持ちを知ってか知らずか、母は酒の入ったグラスを揺すり、永久氷片をカラカラと鳴らしながら言う。

「やれやれ、酒の味の分からないうちは子供だぜ?成人しててもな。どうだ?少し飲んでみるか?」
「結構です。お母様みたいに朝起きれなくなりますから。どうしてそんな毒みたいなものを飲むのか、私には理解できませんわ」

 ザンカは成人してはいたが、酒を飲んだことはなかった。というのも、小さい頃から母が朝に弱いのは知っていたが、その原因が深酒であると大人になった彼女は気づき、スーの普段のだらしなさもあって酒など飲むものではないという印象を持ってしまったためだった。

 ザンカは自分の言葉に母がまた子供っぽく反論すると思っていたのだが、母の反応は違った。

「そうか、アタシはお前といつか酒を飲める日が来るって楽しみにしてたんだけどな…」
「えっ」

 湿っぽく返す母に、ザンカは食事の手を止めてしまった。しかし母は気にせず酒をすすり、言葉を続ける。 

「いや、無理に飲まなくていい。お前がまだまだガキなのは分かったからなァ」
「わ、私はもう大人です!なんでも自分で出来ます!」

 ついついムキになって反論するザンカに母は先ほどと打って変わってニヤニヤとした表情で言葉を返す。

「ほぉ〜?じゃあついこの前メランを石にしちまってアタシに泣きついてきたのは誰だ〜?」
「そ、それはメランがスカートを捲ってきたから…ってそれ何年前も前のことですわよ!」
「ふ〜ん、じゃあニケにキスしたせいで毒で卒倒させちまってぴ〜ぴ〜泣いてたのは?」
「そ、それも2年前ですし!口のなかに傷があったせいです!」
「え〜と、じゃあ…」
「もう!もういいですから!どっちも昔に終わった話でしょう!二人とも新しい里親の元で幸せにやってますわよ!」

 母親というのは子供のやらかしをいつまでも昨日のことのように覚えてるもので、ザンカは顔を真っ赤にして母の肩を揺さぶるが、当の母は酒をすすりつつケタケタと笑いながらザンカの恥ずかしい話を続けた。

「お母様〜!」
「アハハハ!…ん?」

 母は急にグラスを机に置き、ザンカの手を取った。

「んなっ、なんですか急に」
「なんだお前、手に怪我してるじゃないか」
「え?」

 ザンカは母に取られた手を見ると、左手の甲に小さな傷がついている。訓練をしている時に切ったのか、それとも帰り道で葉っぱで切ったのか、ザンカ自身も母に言われるまで気づいていなかった。

「どれ、治してやるよ」
「い、いいですわよ。これくらい…」
「肌は綺麗な方がモテるぞ?黙って治されとけって」

 母はそう言うと手を掴んだまま祈りを捧げ、ザンカの傷を跡形もなく消す。しかし、なぜか母は治療したあともザンカの手を離さず、それどころかまじまじと手を観察し始めた。

「なんですか?治療は終わったのでしょう?」
「ん〜?いや別に」

 母はそう言いながら今度はザンカの指を擦ったりぷにぷにと押したりし始め、そのうち二の腕を掴んで揉んだりしてきた。母の指使いにザンカはなんだかくすぐったくなってしまい、身をよじらせる。

「ちょ、ちょっとお母様!くすぐったいですわよ!」

 母はまた自分をからかってるのだとザンカは思ったが、ふと彼女の顔を覗いてみるとどうにも神妙な顔をしていた。
 母はザンカの手を離し、同じく神妙な顔のまま腕を組んで黙り込む。そしてグラスの酒をぐっと飲み干すと、ゆっくりと口を開いた。

「…昨日までアタシが何してたのか話してやるよ」
「な、なんですかまた急に…」
「いいから聞け」

 母があまりに真面目な顔で話すのでザンカも黙って聞くことにしたが、なぜ急に母がそんな話を始めたのか理解できないでいた。

「昨日終わらせた仕事は行方不明者の捜索だったよ。結論から言えばそいつらは助かったんだが、アタシは不覚にも痛い目にあって、一瞬死にかけた」
「服に付いていた血は…」
「アタシの血だ。それは別にいい。まあ、行方不明者ってのがとある村の子供たち、依頼者が親御さんたちだったんだが、アタシは最初蛮族の仕業だと思ったんだ。でもな」

 母は話しながらグラスに酒を注ぐと、カランと氷片が音を立てる。

「でもな、実際は人間の仕業だった。村の長と奴隷商がグルになって蛮族の仕業に見せかけてガキ共を売り裁こうとしてやがった」
「な、なぜそんな…」
「村は貧しくてな、口減らしと金儲けで一石二鳥ってわけだ。ガキはまた作りゃいいってな」
「そんな…」

 不安定なランドール地方において、驚異は蛮族のみならず、人族による犯罪も無辜の人々を苦しめていた。
 孤児院という狭い世界で暮らしているザンカでも、たまにハルシカに行けば雑踏の影に潜む不穏な雰囲気を感じることもあったし、本や母の話からそういった人族の醜さについては学んではいた。しかしながら、あらためて母の話すこの世の現実はザンカの胸を痛めた。

「アジトを突き止めて踏み入ったまではよかったが、待ち伏せされててな、情報が流されてたんだ。後ろから襲いかかってきた村長に棍棒で頭殴られるわ、悪党共に剣でしばかれるわ。しかも相手がガンまで持ってやがって、鎧越しに腹を撃ち抜かれちまった。滅茶苦茶痛かったぜ?」

 母はトントンと自分の腹を指で突いてみせる。ザンカもふと自分の腹をさすり、その痛みがどれほどのものか考えてみたが、当然ガンで撃たれたことのない彼女には想像もつかなかった。

「ま、結局全員ぶっ飛ばして子供たちは救出、親御さんのもとへ連れ帰った。そんで悪党共はふんじばってハルシカまでもってって衛兵に突き出してやったよ」
「よかった…」
「アタシだから出来たことだ。物凄く強いアタシだから」

 母はそう言いながらザンカに自分の手のひらを見せた。母の手は長年の間剣を握りしめているためかゴツゴツと皮膚が厚く、女性らしからぬ逞しい手をしていた。

「冒険者になるとは、戦うとはそういうことだ。強くなければ死ぬ。強くても身体を撃たれれば痛いし下手すれば死にかける。しかも、手もこんな女らしくない手になっちまうんだ。金や名声と引き換えに大事なものを沢山失う」
「…」

 母が何を言いたいのか、ザンカは察した。毎日メイスを振るって鍛えていることで、ザンカの手も少しずつ変化している。母はそんな少しの変化に手を触れただけで気づいてこんな話をしてきたのだろう。

「アタシは子供達に、お前に…アタシと同じようになってほしくない。お前たちは何も失う必要はないんだ」
「…でも」
「…なんだ?」

 母の思いは言葉を通じて伝わってくる。自分たちの幸せを第一に考えてくれる人なのだということはザンカにもよく分かっていた。しかし、ザンカは自分の言葉を止められなかった。

「それでも私は、お母様の手が好きです…」
「…」

 振り絞るようなザンカの言葉に、母もおし黙ってしまい、食堂には気まずい沈黙の時間が流れた。しばらくしてグラスの氷がカランと音を立てて静寂を破ると、母はまた酒をすする。ザンカも黙ってスープを飲み、食事を終えると立ち上がって片付けを始めながら母に言う。

「来週は収穫のお祭りをしますから、お母様もお手伝いしてくださいね」
「あ、いや…すまん明日からまた出かける。久々にアルゴスたちと冒険に行くんだ。祭りには間に合うかわからんな」
「そう、ですか…」

 ザンカはそういうと食器を片付け、食堂を出る。
 一人残された母はグラスの酒をぐっと飲み干し、ため息をついた。

 次の日の朝、珍しく母は早起きして出かけたようで、ザンカが朝ご飯を用意して声をかけに行くと既に部屋に居なかった。

 ザンカはその日からも以前のように家事をし、子供たちの世話をし、時間が空けばエィルクと訓練をした。
 そして毎年秋になると行う、収穫を祝う催しの準備をフリア達と少しずつ進めた。

 母のいない毎日は今のザンカにとって珍しい事ではなかったが、やはり最後に会話したときのことが気がかりで、どうしても時々色々と考えこんでしまう。
 その日もエィルクとメイスの訓練をしていたが、どこか漫然と臨んでしまい、集中力を欠いていた。そして…。

「ボーッとするなァ!」
「えっ、ああっ!」

エィルクの振るうメイスをザンカは盾で受けたが、受け方が悪くよろけて倒れてしまった。

「痛っ…くっ…」
「大丈夫か!?」

エィルクはメイスと盾を地面に落とし、ザンカに駆け寄る。ザンカは倒れたときに少し足を捻ったようで、意味がないのはわかりながらも鎧の上からさすっていた。

「ごめんなさい…もう一度お願いします…」
「いンや、今日はもう終いだァ」
「でも…」
「ダメったらダメだァ、なんかボーッとして集中出来てねェ」

 エィルクにたしなめられてザンカはうつむきながら両膝を手で抱えた。そんなザンカの様子を見ながらエィルクはため息を付きながら言う。

「ザンちゃんらしくもねェ、なんかあったのか?」
「ええ、まあ、その…。訓練してる事がお母様にバレました…たぶん…」
「なにィ?」
「直接バレたわけじゃありません、でも手を見られて、それでお説教されました…」
「ははぁ…」

 エィルクは兜の顎の部分に手を当て、なるほどといったふうに相槌を打つ。

「お母様、そンだけで色々分かっちまうなんて相当な手練の戦士なんだな。ザンちゃんを心配して釘さすのも色々あったからだろうなァ…オデも眠りにつく前は放浪者だったから色々あったもんだ」
「エィルクは放浪者だったのですか?それは初耳ですわね…」
「あれ?言ってなかったァ?」

 エィルクはとぼけたように返す。彼は善人だが時折どこか抜けたようなところを見せるのだった。

「オデはまあ、色々あって故郷を追われたあと放浪者になったんだァ。旅の最中で仲間になった連中もみんなギルドにも入らないような爪弾きもんで、ナイトメアのやつは家族に殺されかけたって言ってたっけなァ」
「…ナイトメア、穢れを受けて生まれてしまった人族ですわね」

 ナイトメアはザンカの言うとおり穢れを受けて生まれた突然変異とも言える種族、呪われた存在として扱われるその存在は、蛮族でありながら穢れが足りなかったウィークリングとは真逆の生まれ方である。しかしながら、周りから疎まれるその出自にザンカは強く共感を覚えていた。

「そうだな、オデよりももっと苦しい人生だったんだろうなァ。でも旅をしている間は楽しそうだった。自由なんだ、放浪者って」
「私も、広い世界を見て回りたいです。蛮族である私を冒険者ギルドがすんなりと認めてくれるとは思えませんし、放浪者になるのも悪くないかもしれませんわね…」
「う〜ん、ギルドのことは知らんけど、冒険者になるのも認めてくれないお母様が放浪者になるのを認めてくれっかな…」
「怒るでしょうね、きっと」

 そう言いながら、ザンカは母に思いを馳せる。かつて自分を救い、愛してくれた母。彼女は何故自分を受け入れ、救われたとまで言ってくれたのだろう?
 母は戦う事とは何かを失う事でもあると言った。だからこそ子供たちが冒険者になる事を許さない。しかし、ならば何故、母は自分を犠牲にしてまで子供たちのために戦う?ただの子供好きだから。ミリッツァに選ばれたから。ただそれだけなのだろうか?
 そもそも母は、いったい何を失ったのだろうか?
 様々な疑問が頭の中で渦を巻き、ザンカは膝を抱えた腕の中に顔をうずめて考える。そしてふと、母と二人で初めてお風呂に入った時のことを思い出した。傷だらけになった母の身体、そして二人で湯船に浸かりながら母が言ったことを思い出し、ザンカはぼそりと呟く。

「お母様は…お腹に大きな傷があった…」

 そしてあの時、自分が幼いながらにあの傷に深い共感を覚えたことを思い出す。親の愛を失い、欠落を抱えた自分と、母のあの傷を重ねたことを。
 点と点が繋がるような感覚を覚え、そして気がついた。母が戦いの中で何を失ったのかを。母もまた、大切な絆を失っていたのだと。

「お母様…」

 ザンカはそう呟くと、感情が溢れ出したようにポロポロと涙をこぼす。
 エィルクはザンカが突然泣き出した事に驚いて、どうしたらいいか分からないなりに側に寄り添って励ます。

「ど、どうした?ザンちゃん?お母様の事ならオデも説得すっからよ…」
「ううん、違うの…ありがとうエィルク、大丈夫だから…」

 ザンカが落ち着くまでエィルクは背中をさすってくれた。日が傾いていつもの時間になるとザンカもすっかり落ち着いて、二人は孤児院へと帰ることにした。
 その帰り道でザンカはエィルクに話しかけた。

「エィルク、明日から訓練はお休みにしましょう。明後日の収穫のお祭りの準備があるので」
「ああ、お祭りかァ。楽しそうだなァ」
「貴方も是非来てくださいね、エィルク」
「いいンか?オデが行っても。またフッちゃんにからかわれるぞ?」
「ふふっ、もう慣れっこでしょう?それに貴方は孤児院の皆にも好かれてますし、色々とお世話になってますから」
「そうか?なら遠慮なしに遊びに行くとすっか!なんか手土産も持ってかなきゃよゥ!」
「ええ、楽しみにしていますわ」

 二人は和やかに談笑しながら孤児院へと帰り、そして別れた。

 それから次の日、ザンカは孤児院のみんなとお祭りの準備をする。
 小さな子供たちは色とりどり紙を鎖のように丸くつなげて部屋の飾りを作り、ザンカやフリアたち大人は手の混んだ料理の準備をする。街や神殿で行うような大それたお祭りは孤児院ではできないが、その分皆で手を動かして準備することも楽しみながら祭りに臨むのだった。

 年に何度かある祝祭のうち、秋の収穫祭は特にミリッツァに深い繋がりがある祭りではなく、どちらかと言えばティダンやミィルズ、またダリオンなどの信仰に縁深い。
 しかし、こじつけるならば、と言えば聞こえが悪いかもしれないが、秋の実りは子孫繁栄の意味からミリッツァの教義に繋がり、それを象徴するようにこの孤児院では秋の祝祭ではザクロを用意した。

 ザクロ、吉祥果とも呼ばれるこの果実は内部に赤い果肉と数多くの種を持つことから妊婦を連想させ、子孫繁栄の象徴として縁起の良いものとされている。地域によってはミリッツァと深い繋がりがあるとされており、この孤児院でも庭木として植えられていた。
 この甘酸っぱい秋の恵みは、そのまま果肉の味を楽しんでも良いし、潰してジュースにしたり、酒に漬けて果実酒にしてもよく、孤児院の秋の祝祭では様々な形で供された。

 お祭りの前日の夕方、ザンカはフリアと一緒に庭のザクロを収穫していた。ザクロは収穫の頃合いになると自然に皮が裂けて内部の果肉が露出する。ザンカは落ちているザクロを拾い上げると、裂け目をそっと指でなぞった。

「ザクロの実って面白い形してるよね、花も面白い形してるし!えいっ、届かないな〜!」

 高いところのザクロを採ろうとして一生懸命手を伸ばしながら無邪気に笑うフリアに、ザンカは手に持ったザクロをカゴに入れながら言葉を返す。

「そうですね、花はタコさんに似ています」
「タコさん?タコ見たことあるの?」
「いえ、図鑑で見たことがあるだけで、そういえばお母様はタコさんは美味しいと言ってましたわね」
「へー、そのうち食べてみたいね。よっと!あっ、取れた!」
「お見事ですわ」

 二人はなんてことはない無邪気な会話をしながらザクロを収穫していた。
 しかし、そこに何か大声で叫びながら女の子がとてとてと走ってくる。それはミリィだった。

「ザンカおねーちゃーん!フリアおねーちゃーん!」
「ミリィ、どうしましたの?」
「収穫のお手伝いに来たの?じゃあえっと、高い高いはザンカちゃんにお願いしてね!」

 フリアの言葉にザンカはニヤけながら軽く肘打ちをすると、フリアもニヤけながら応戦してきた。しかしミリィは二人のお手伝いがしたいわけではないようだった。

「あのね、馬車が来るよ!」
「馬車?スー先生かな?」
「お母様は間に合わないと言っていましたが…とりあえず見に行きましょうか」

 ザンカはカゴを片手持ちながらもう片方の手でミリィの手を握り、フリアと一緒に孤児院の正面玄関まで向った。

 ザンカたちが正面玄関にたどり着くと、子供たちがわいわいと話しながら集まっていた。そして確かに遠くからゆっくりと馬車がこちらへと向かってくる。

「ん〜?アルゴスさんたちの馬車ってあんなのだった?」
「どうでしょうか…確かにあれぐらいの大きさではあったような…」

 こちらに向かってくる2頭の馬に引かれる馬車の大きさは、確かにあの時の馬車に似ているような気はした。しかしザンカが最後に見たのは孤児院にやってきたばかりの頃であり、記憶はおぼろげで確証は持てない。そもそも10年も経てば違う馬車を使っている可能性も考えられた。しかし、ザンカは目の前の馬車に、妙な胸騒ぎを覚えた。

「フリア、院長先生に声をかけて、それと神官様たちを呼んできてください」
「えっ、うん分かった」
「ミリィはこれをお願い」

 ザンカは手に持ったカゴをミリィに手渡すと、ミリィは両手を使ってそれを受け取る。

「皆は部屋で待っていてください。私が呼ぶまで出てきてはいけませんわよ」

 ザンカはそう言って孤児院の寮に子どもたちが帰るよう促す。そして子供たちが帰ったのを確認すると馬車の方を見据えた。
 するとすぐにフリアが院長先生と二人の神官を連れて戻ってきた。院長先生は状況をあまり呑み込めていないようでザンカに問いただす。

「どうしましたか、ザンカさん」
「院長先生、馬車がここに向かってきます。あれは…あれはお母様たちの馬車ではありません」
「なんですって?では旅の行商人でしょうか、昔来たことがありますよ」
「そうだといいのですが…」

 ザンカの妙な胸騒ぎは馬車が近づくほどに高まり、母たちがあれに乗っていないということを確信していた。

「院長先生、寮に行って子供たちのところに。。フリアも」
「ザンカさん?」
「いいから!行ってください!」
「は、はい…!」

 ザンカの剣幕に圧されて院長たちも何かが起きてることを察し、子供たちのいる寮まで向った。

 しばらくすると馬車は玄関までつくと馬は歩みを止めた。馬の手綱を握る男はローブを深く被っていて顔が見えない。そして馬車の中から一人の男が出てくる。身の丈1.8メートル、柔和な顔をした商人といった風体の男だ。
 この男に応対するのは二人の神官、神の声は聞こえないまでも戦闘訓練を積んだ彼女らは、それぞれ腰に剣を提げている。ザンカはその後ろで様子をうかがっていると、男はゆっくりと落ち着いた声色で神官たちに話しかけた。

「私、旅の行商をしておりまして、名をサンデルと申します。ハールーンからハルシカに向かう途中、蛮族の襲撃を受けまして、辛くも逃げ切ったのですが仲間が怪我をしてしまったのです。付近を通りがかった時に礼拝堂の屋根が見えまして、ここでなら治療が受けられると思って馬を歩かせたのですが…」

 男はつらつらと身の上の話をする。なんとなく胡散臭い顔立ちだが、商人なら別段珍しくはないだろうという感じであった。そんな胡散臭い男に若い神官の一人が言葉を返す。

「それは災難でしたね。しかし治療を行える神官は不在でして」
「不在、それはそれは…ではせめて屋根だけでも貸してはいただけないでしょうか」
「申し訳ありませんがベッドもギリギリの数しかありません。食堂などで素泊まりでもよろしければこちらの…」

 若い神官が振り返って孤児院の一棟を指差したその時だった。男の身体が突如膨れ上がり、そして次の瞬間、後ろを向いていた神官の身体が横に吹き飛ばされた。

「なっ…!」

 ザンカは突然の出来事に何が起きたのか理解できず、目の前の事態に言葉を失った。

「お、オーガだと?!」

 もう一人の神官はそういうと咄嗟に剣を抜き、身の丈が倍になった男に切りかかった。しかし、男は避けることもなく剣を受けると神官の首を掴んで倒れているもう一人の神官に向けて投げ飛ばす。
二人の神官は息はしているものの、それは弱く、無残に地に伏して気絶していた。
 巨大な身体の男はいつの間にか皮膚が赤く染まり、頭には二本の角を生やしている。

「噂には手練の神官戦士がいると聞いていたが、神の声が聞こえぬ者しかいないとは好都合。主様、制圧いたしました」

 男がそう言うと馬車の中から出てきたのは青黒い肌に大きな角を頭に生やした大男だ。身体の各部に宝玉を埋め込んだこの姿にザンカは見覚えがあった。
 ディアボロ種、蛮族と魔神の融合体、ザンカは幼少期に父と戦うこの種を見ていた。

「ほう、寝床には良いところだな」

 ディアボロは舐め回すように孤児院を眺めるとそうつぶやいた。

「蛮族…!ここは貴方たちの来るようなところではありません!」
「うん?まだ一人いたか」

 ディアボロはザンカをジロリと睨む。眼光だけでわかる、明らかにこの蛮族は格が違う。彼女の生殺与奪の権を握るディアボロは自身の胸の大きな傷を手でなぞりながらザンカに向かって話す。

「小娘、少しここで休ませてもらうぞ。なに、この忌々しい傷が治るまでの事だ。貴様らにはもはや関係のないことだがな」
「ここはミリッツァの加護を受けた場所です!貴方たちが好きにしていい場所では…ぐっ?!」

 ザンカがそこまで言いかけると、ディアボロは彼女の首を掴んで持ち上げた。彼女はその手を掴み必死になって暴れるが、圧倒的な腕力にもがく以外の選択肢がない。

「人間の女は良い、肉は柔らかく味わい深い。慰み物にしてもいい。部下の士気に繋がる」
「ぐ…だ、誰があなた達なんかに…!」
「小娘、ここはいい場所だな。柔らかい肉が沢山ある。我が配下たちの数でも一晩は楽しめそうだ…」
「…!?」

 ディアボロは寮を指差してそう言う。ザンカたちを心配した子供たちが窓から覗いているのが見える。子供たちの優しさと好奇心が仇となって、隠れていることが看破されてしまった。

 直後、馬車の中からゾロゾロと小柄な下級蛮族たちが出てくる。よくもこんな馬車の中にこれほど入っていたと褒めたくなるほどの数の蛮族は、あっという間にあたりを取り囲むと、寮に向かって歩き始めた。

「だ、だめっ…!」
「まだ喋れるとは、頑丈だな小娘…うん?お前…」

 ディアボロが何か言いかけたその瞬間、ぴゅんと言う音が聞こえると、ザンカの首を絞めていた手は放されて彼女は地面に着地した。
 彼女が咽ながらディアボロの方を見るとその手には矢が刺さっていた。

「ザンちゃん!今助けっからなァ!」
「エィルク!」

 エィルクは次々に矢を放ち、ザンカを取り囲む下級蛮族たちの頭蓋を破壊する。
 ザンカはこの好機を逃さず、身体を翻すと倒れている神官のところへ走り、剣を拾い上げると寮に向かおうとしていた下級蛮族に切りかかった!

「ギィィ〜!?」

 剣は下級蛮族、ダガーフッドの首を深々と切りつけ、噴き出した紫色の返り血がザンカの服を染める。この時、ザンカは初めて暴力によって生き物を殺めた。しかし、そんなことに躊躇している暇はない。皆を守らなければならないという使命感が彼女を突き動かしていた。

「ザンちゃん!逃げろ!!」
「エィルク!子供たちが寮の建物に!」
「ぐっ、そういうことか!」

 状況を理解したエィルクは、子供たちの退路を作るべく全速力で建物に向かって走る。
 ザンカも同じように走るが、下級蛮族に行く手を塞がれた。相手はゴブリン、醜く卑劣な蛮族だ。ゴブリンは棍棒を横凪に振るい、ザンカの腹部に当てた。木を削った粗末な棍棒であったが、その粗雑さ故に防具をつけていないザンカの皮膚を裂いた!

「ぐっ…!?」

 ザンカはたまらず膝をついた。しかし返り血を浴びたゴブリンも無事では済まない。ザンカの毒の血がゴブリンの皮膚を、そして肉を焼き、悶え苦しませる。
 体制を立て直したザンカは剣を振るい、ゴブリンの腹を斬りつけると傷口を抑えながら寮へと向った。
 ザンカとエィルク、二人は寮の入口にたどり着くと、迫りくる蛮族たちに応戦する形で陣形を組んでお互いに声を掛け合う。

「ザンちゃん!怪我は!?」
「大丈夫です!」

 お互いの状況を確かめ、それぞれに次の手を考える。
 しかし下級蛮族たちはまだ数が多く、ジリジリと距離を詰めて来ていた。

 一方、目の前の状況をディアボロとオーガは遠巻きから静観していた。

「なるほど、あの小娘はバジリスクの出来損ないか。あの射手もなかなかやる。無尽蔵に増える下級蛮族とはいえ、無為に配下を減らすのは良策とは言えんな、おい、残りを呼べ」
「はっ!」

 ディアボロはオーガにそう言うと、オーガは魔法文明語で呪文を唱え、空に向かって雷を放った。

 ザンカたちからも、雷は目視できた。しかし彼女には蛮族たちが何を目的としているのか理解できなかった。それに対してエィルクは冷静に事態を分析する。

「奴ら何を…!?」
「ちっ、他の仲間を呼んだのかもしんねェ、お母様を警戒して控えさせてたのか…?」
「まだ増えるということですの…?!」

 絶望的な状況だった。出血したザンカは徐々に体力を失い、エィルクは手練だが子供たちを守りながら大群と戦うほどの余裕はない。子供たちをこの状況から逃がそうにもすぐに蛮族たちに追いつかれるだろう。
 しかし状況は更に悪化する…。

「おい、遊んできてやれ」
「はっ!」

 ディアボロが命じるとオーガは馬車から巨大な剣を取り出し、ザンカたちの元へとゆっくりと歩を進めてきた。

「まじぃぞ…あいつやる気だ!」
「エィルク、あのデカブツの相手を頼めますか?」
「サシなら五分五分ってところだ!でも雑魚はどうする!」
「下級蛮族は私が抑えます。貴方は奴を引きつけて、小物さえなんとかすればみんなを逃がせるかもしれません…!」

 エィルクはザンカの目をじっと見る。それだけで十分だった。目の前の少女は、刺し違えてでも皆を助けようとする眼をしている!ならば自分もそれに応えるしかないと、彼は思った。

「分かった…。死ぬなよォ!ザンちゃん!!」

 彼は雄叫びを上げながら弓を放ち、下級蛮族を2、3匹始末しながらオーガへと迫る。

「うおおお!お前の相手は、オレだァァァ!!!!!」
「はははは!!鹿狩りと行こうか!!」

 オーガは巨大な剣をエィルクに振るい、エィルクは弓に矢をつがえたままヒラリと側転してそれを避け、着地すると矢を放つ!
 突き刺さる矢、しかしオーガの硬い皮膚と筋肉の前では致命の一撃とはいかない!

「ちぃっ!デカブツ野郎があああ!!」

 エィルクとオーガは死闘を繰り広げる。その一方、ザンカは次々と迫る下級蛮族と戦う。
下級蛮族は一匹一匹は大した力を持たない。しかし、その圧倒的な物量をもって数々の村や町を滅ぼしてきた。その力が今、一人の少女に向いている。

「くっ、キリがない!」

 迫りくる無数の凶刃を、ザンカは剣一本で立ち向かう。フッドの首を跳ね、ゴブリンの腹を裂く。しかしそれでも蛮族たちの手は止まらない。
 蛮族たちを怯ませていた彼女の血も結局は流すほどに体力を奪う。だんだんとザンカの視界が狭くなり、反応が遅れる。棍棒が彼女の足を打ち、膝をつかせる。

「ぐっ、ああっ!」

 蛮族の手は止まらず、ザンカの身体を打ち続け、懸命に耐えていたがついに彼女は声を上げた。

「ザンちゃん!?」
「余所見をしている場合か?」
「ぐあっ!?」

 ザンカの声に気を取られつい敵から目を離してしまったエィルクに、オーガの巨大な剣が命中する。ギリギリで致命に至らぬよう受けたが、その衝撃は彼の身体を跳ね飛ばし地面に叩きつけた。

「エィルク?!」

 ザンカもエィルクを案じて顔を上げる。しかしそこに見えたのはフッド族の粗末なナイフだ。
 ナイフは今にもザンカの顔に振り下ろされようとしており、彼女は直感的に死を覚悟し、目を瞑った。しかし次の瞬間、ガツン、という音がした。ザンカは目を開けると目の前にいたのは盾を持ったフリアだ。何故か盾を持ったフリアが、ザンカを守っていた。

「フリ…ア…」
「ザンカちゃん!大丈…」

 フリアがそこまで言いかけた瞬間、別の方向から棍棒が振るわれ、彼女の頭を打って跳ね飛ばした。

「フリア!!?」

 ザンカは咄嗟に剣を振り回し、自分を刺そうとした蛮族とフリアの頭を打った蛮族を斬ると、跳ね飛ばされ地に伏したフリアのもとに駆け寄った。

「フリア!?なんで…!」

 フリアは手に持った盾をザンカに向けて弱々しく呟く。

「えへへ…ごめんね…ドジっちゃった…」
「無茶な事を…!」

 ザンカはフリアから盾を受け取り、彼女の震える手を握りしめた。

「ほんとはね…知ってたんだ…エィルクさんと戦いの練習してたの…。こっそり後をついて行って、ザンカちゃんかっこよかったよ…」
「もう喋らないで!」

 フリアの声の強さも、目の輝きも、少しずつ失せていく。ザンカは涙を流しながら彼女の手を強く握りしめるが、手に伝わってくる彼女の鼓動は少しずつ弱まっていく。

「この盾ね…お祭りの時にプレゼントしようと思ったんだ…院長先生に無理言って町で買ってもらって…」
「フリア…!」
「こんなことなら、もっと早くプレゼント…すれば…よかっ…」
「…フリア?…フリア!!!」

 フリアの手から力がふっと抜けて、彼女は意識を失った。
 ぐったりとしたフリアの身体を抱えて黙り込むザンカ。彼女たちに下級蛮族たちが迫り、その命を今にも奪おうとしている。

 ザンカは思った。自分はいつもそうだった。無力で、誰かから支えられないと生きていけない。だからこそ母のように強くなりたいと思っていた。母のように強くなって、今度は自分が誰かを守り支えるのだと。しかしそれは叶わなかった。
 下級蛮族が再び二人を取り囲み、その命を奪わんとして迫る。

「お母様…フリア…もっと貴方たちに寄り添っていたかった…」

 ザンカはそう呟き、再び死を覚悟する。しかしその時、頭の中に声が響いた。

《諦めるな、我が身と同じく呪われし血に生かされる者よ》
「…なに?この声は?」

 ザンカの頭の中に響くこの声は優しく、力強く、そして暖かかった。
 声が聞こえ始めてから世界はその時間を引き伸ばしたようにゆっくりと進み、ザンカには、まるで自分だけが世界に取り残されたように思えた。

《我が名は復讐と慈愛の女神 ミリッツァ。龍血の乙女よ、貴様に力を与える。愛するものを守る慈愛の力、そして愛する者に仇為す全て打ち砕く復讐の力を!》

 ザンカの周囲が眩く輝き、暖かい光があたりを包む。いつの間にかザンカの傷は跡形もなく消えていた。そしてザンカが手をかざすと、フリアの頭の傷はみるみるうちに塞がり、彼女は安らかに呼吸をし始めた。

《さあ征け!気高き花よ!己が運命に抗い、そして打ち勝つのだ!復讐するは汝に有り!》

 ザンカはフリアを地面に優しく寝かせると、彼女から受け取った盾をぎゅっと握りしめた。そして剣を投げ捨て、蛮族が落とした棍棒を拾いあげる。そう、打撃武器。この方が、手に馴染む!

「はぁっ!!」

 ザンカが武器を掲げると鋭い光が周りを取り囲む蛮族たちに降り注ぐ。ザンカ本人すらおかしくなってしまいそうなほど眩い神の光に、蛮族たちはその意識を乱し、影響を受けた者は錯乱し始めた。
 スキだらけになった蛮族たちに、ザンカは容赦なく棍棒を振るう。

「許さない…私の大切なものを傷つける貴方達を!」

 ザンカは次々と蛮族の頭に棍棒を叩き込む!
 次第に正気を取り戻し始めた蛮族たちが反撃を試みるが、彼らはその攻撃をザンカの持つ盾によって防がれ、その次の瞬間には無慈悲に頭蓋を砕かれていた。

「な、何が起きた…?!」

 突然の出来事に、エィルクと対峙していたオーガはその手を止めて唖然としていた。

「馬鹿な…こんなことが…?!」
「へへっ…余所見をしている…場合かァ?!」
「なっ、ぐあっ!?」

 オーガが振り返ったその瞬間、その胸に矢が刺さり、眩く輝いて炸裂した!その衝撃はオーガの心臓に致命的な衝撃を与える!

「なっ、こんな…こんなやつ…に…」
「へへっ、とっておきの魔力の矢だ、テメェにくれてやるよォ…!!」

 巨大な身体が倒れ、ズシンと音がする。
 オーガが絶命したのを確認したエィルクは体制を崩して倒れると、そのまま気絶した。

 離れた位置から状況を俯瞰するディアボロは目を丸くして目の前の光景を噛みしめていた。
 忌々しい神の御使いが居ない今ならば、こんな孤児院ごとき簡単に制圧できるはずだった。しかし今の状況はどうだ?
 出来損ないと見下した小娘が雑兵を全滅せん勢いで暴れまわり、右腕たるオーガはその為に不意を撃たれて命を落とした。
 だが自分の力量と、後ろに控えるさらなる手駒を考えれば勝利は必然。なのに何故これほどまでに苛立つ?バルバロスの軍族たる自分が、なぜこんなところで足踏みをしている?

「卑小な、出来損ない如きがァ!」

 ディアボロは突如としてその怒りを滾らせ、ザンカの元へと突撃した。

「小娘ェ!出来損ないの分際でよくも俺の顔に泥を塗ってくれたなァァァ!!」

 その巨躯に溢れ出んばかりの怒気を滾らせ、ザンカを睨みつける。しかし、この悪意と暴力の権化のような存在を前に彼女は怯むことはなく声を上げた。

「貴方達は、悲しい生き物です。奪うことしか知らず、誰とも分かち合おうとしない!欠けた何かを補い合うことが出来ないから、永遠に満たされることがない!私の生みの親のように!」
「ぬかせえェェェ!!」

 ディアボロはその身体の突起を引き抜き、瞬時に身体を変化させた。魔神を思わせ、さらなる禍々しさと巨躯を得たこの圧倒的な力に、ザンカは尚も抗い、向き合った。

「貴方は、私を簡単に殺せるでしょう。でも必ずお母様が復讐に来る。ミリッツァの復讐神官であるお母様が貴方を打ち滅ぼし、私達の仇をとります!」
「なんだと…!」
「貴方はお母様を恐れている!そうじゃなければ弱い者しかいないはずの孤児院に奇襲なんか仕掛けはしないはずです!噂に聞いただけのお母様の実力を恐れて、奇襲を仕掛けた卑怯者!」
「ぐ、ぐぐ…」
「私を殺し、逃げ回りなさい!そして怯えながら生きるのです!寝る時も、食事の時も、母の復讐を恐れ心休まることはないでしょう!そして…」
「だ、黙れエェェェ!!!」

 ディアボロは怒りに任せて真っ黒い呪いの瘴気を放ち、ザンカの身体を蝕ませ、圧倒的な呪いの力に彼女は傷つき、気が遠くなり、そして膝をついた。
 薄れゆく意識の中で、ザンカは懺悔をした。

 ごめんなさい、お母様…フリア…みんな…。貴女たちから沢山のものを貰ったのに、私は全然恩返しができなかった。みんなを守ることも出来なかった。それなのに、私は一人だけ満たされている。最後の最後に意地を見せることが出来たのも、貴女たちのおかげなのに…。
 お母様はきっと怒りますよね。でもね、私も頑張ったんですよ…。
 だから、また、子供の頃のように私を褒めて…。

 しかしその時、天からはらりと大きな羽が1枚降ってきて、ザンカの目の前に落ちた。

「これは…?」

 そして次の瞬間、ズシンという音がして、ディアボロとザンカの目の前に何か大きなものが降ってきた。
 鎧を纏い、巨大な盾と剣を持つ、この背中は。ザンカが何度も追いかけたこの背中は…!

「ザンカ、大丈夫か?!」
「お、お母様…!」

 母はザンカに手をかざし、その傷を癒やすと、ディアボロに向き合って叫んだ。

「テメェ…!アタシの子供達にちょっかいかけて、生きて帰れると思うんじゃねェぞ!!!」
「な、なんだお前は!まさか…」

 ディアボロが怯んでいると背後から爆発音がした。直後遠くから煙が上がる。

「な、なんだ?!」
「テメェの部下共をアタシの仲間たちが蹴散らしてる音だよォ!」
「な、なんだと…」
「ペイル!お前も行ってこい!コイツはアタシが一人でぶっ潰す!」

 母は上空のペイルに合図を送ると、彼はグリフォンの手綱を握り、アルゴスたちの元へと向かった。

「さてと、アタシはな、絶対にぶっ殺すと決めた相手には敬意を表して正々堂々と名乗る事にしてるんだ」

 スーは盾をガツンと地面に突き立て、雄々しく叫んだ。

「我が名はスー・シャノウ!無慈悲なる復讐神官!母なるミリッツァの名の元、今ここに弱き人々の剣とならん!」

 腹の底から響くような声量に、空気が震え、ザンカの血をも熱く滾らせる。
 激しい怒りを滾らせる神の御遣いを前に、ディアボロは怯みながらも意地を見せて彼女にに名乗り返そうとする。

「くっ…わ、我が名は…」
「オラァ!!!ミリッツァよォ!!!!」
「な!?!?」

 ディアボロが名乗りかけた途端、スーはゴッドフィストを行使し、相手の顔面めがけて飛ばした!
 不意をつかれて抵抗も出来ずに弾き飛ばされるディアボロ、彼は震えながら起き上がり、情けなく声を裏返して叫ぶ。

「き、貴様ああ!!?卑怯者がぁぁぁ!!!」
「テメェが言えたことかァ!?まだまだ行くぜェェェ!!!!」

 スーはブンブンと剣を振り回しながら飛びかかり、ディアボロもそれに応戦する。

「お母様…」

 傍若無人な鬼神のように戦う母の姿を見ながら、ザンカは涙を流していた。
 母はまた、自分の事を助けてくれた。また、守られてしまった。こんなに情けなくて、そして嬉しいことはない。
 そう思うと張り詰めていた心がふっと楽になって、ザンカはそのまま倒れて気を失ってしまった。


【祈り】

 穏やかに晴れた日、ザンカは孤児院の庭を母と手をつないで歩いている。
 目に入るもの全てが不思議な物に見えて、もっとよく見ようとあちこち歩いていこうとするザンカに手を引かれ、母も歩幅を合わせて歩いてくれていた。
 ザンカはまた気になる物を見つけたようで、首をもたげ背伸びをしながらそれを観察しようとする。

「お母様、あれはなんですか?」

 ザンカは庭木の枝の上の物を指差して母に聞く。

「ん、なんだ?ああ、渡り鳥の巣か」
「渡り鳥?」
「ああ、寒い季節はもっと暖かい場所で暮らして、春になると帰ってきて子育てするんだ。もう卵を抱えてるみたいだな」
「卵?」
「親鳥が産んだんだ。鳥の子供がそこから出てくる。そこからじゃ見えないか?よし、だったら…」

 そう言うと母はザンカを肩車する。

「きゃっ…」
「しっかり掴まれよ?ほら、見えるか?」

 母の分だけ背が高くなったザンカは鳥の巣を覗き込む。そこには斑模様の卵があり、それを親鳥が大切そうに抱いていた。それは微笑ましくて、なんだか羨ましい光景だった。

「手は出すなよ?よし、下ろすぞ。よっこいせ…。あ゛!腰が…!」

 ザンカを下ろした母は腰をさすりながら言う。

「いって〜…アタシまだそんな歳じゃねえのにな…」
「お母様、あれは?」
「あ?」

 痛がる母をよそに、ザンカは木の幹を登る長細い生き物を指差していた。

「ああ、ヘビだな。鳥の卵を食おうとしてる」
「えっ、助けないと…!」

 ザンカは鳥と卵が心配で木の幹に駆け寄り、出来もしないのによじ登ろうとするが、母は肩を掴んでそれを止めた。

「まあ見てろって」
「でも…」
「いいから」

 大きなヘビはどんどん幹を登っていき、鳥の巣までたどり着くと身体をもたげて卵を狙い始めた。ザンカがハラハラしながら様子を見守っていると、親鳥は翼を広げて威嚇し、くちばしでヘビをついばむと、たまらずヘビは逃げていった。

「な?大丈夫だったろ?」

 母はザンカに微笑みかけながら言う。

「あの鳥は外敵に対しては結構凶暴なんだ。ヘビも生きるためにやってるから悪いわけじゃないけどな、まあ親鳥からすれば我が子の危機だし当然戦うしかないってわけだ。うーん、自然の摂理」

 我が子の為に自分より大きなヘビに立ち向かう親鳥の姿に、ザンカは子供ながらに大きな感銘を受けた。

「凄かった…お母様みたい…」
「アタシ?親鳥のことか?おいおい、アタシはあんな凶暴じゃないっつーの。あ、もしかしてヘビの方?ヘビもかっこいいから好きだけどさ」

 母はそう言いながら、ザンカの手を引いて歩き始める。

「さ、そろそろ行くぞ」
「でも…」

 母はそう言うが、ザンカはまだ母と過ごしていたくて、なぜか分からないが不安でいっぱいで、泣いてしまいそうになった。そんな様子を見ながら母はやれやれといったふうに笑みを浮かべるとザンカを抱き上げた。

「また明日遊ぼうな。アタシたちにはまだまだ時間があるんだから」
「絶対ですわよ…また明日、約束…」 「はいはい…」

 そうして母はぐずるザンカを抱えたまま歩いていく。何処かへと、前へ前へ…。そして…。



 そして、ザンカが目を覚ますと、そこには見慣れない天井があった。いや、見慣れないというよりは、懐かしいというべきか。
 母のベッドの上。ここで目を覚ましたのは何年ぶりだろうか。しかもあんな夢まで見るなんて。
 窓の外を見ると日が射しており、どうやら今は昼頃であることがうかがえた。

「目が覚めたか、お姫様。寝心地は?」

 声の方向を見ると、母が椅子に座って腕を組んでいた。ザンカは、そういえば昔にもこんなことがあったような、そんな気がした。

「湿気っぽい…。ちゃんと干さないから…」
「へっ、可愛くないこと言うようになっちゃってまあ」

 悪戯っぽく少しニヤけながら言うザンカに、母も苦笑いのような笑みを浮かべて言葉を返す。
 しかし直後ザンカは気を失う前の出来事を思い出し、血の気が引いたようになり、慌てたように母に問う。

「お母様!フリアは!?子供たちや院長、それにエィルクは?!」
「無事だ。全員無事。神官たちもギリギリで治せたし、もう誰も怪我ひとつ残っちゃいねえよ。被害といえばまあ、お前が珍しく寝坊したぐらいか」
「よかった…」

 心の底から安堵したザンカの頬を涙がつたう。
 あの後、母はディアボロとのサシの勝負に打ち勝ち、残りの蛮族も母の仲間達が全滅させていたのだ。

「奴ら、ハルシカの南部を中心に人族領域に進出してきた若い士族の連中みたいだ。ギルドも討伐隊を編成したが、どうにもあと一歩のところで逃していたらしい。手負いになった連中は追撃を逃れつつ村や通行人を襲って体勢を立て直そうとしたんだろう。それで、とうとうこの孤児院まで来たってわけだ」
「奴ら、お母様の事を知っていました…」
「ふーん…知ってるのに来たってことは休むついでに首でも取ろうと思ったのかもな。ディアボロってのはプライドも高いし身内での体裁ってのを気にするからな、手土産無しに実家に戻るなんて出来なかったんだろうよ」

 母は表情も変えずに淡々と話す。

「何にしても人族をナメたツケは払わせてやった。逆にアイツの首を取ってギルドに引き渡してやったぜ。ま、酒代程度にはなったな」
「お母様はやっぱり凄いです…。もしもお母様が戻ってこなければ、私は今頃…」
「いや…」

 母はザンカの言葉を遮るように言うと椅子から立ち上がった。

「皆が無事だったのはザンカのおかげだ。よくやった」

 母はそう言うとザンカの頭にぽんと手を乗せる。その手はなんだか、昔よりもぎこちなかったが、それでもザンカは嬉しかった。

「お母様…」

 そして母は神妙な面持ちになり、言葉を続ける。

「お前、神の力を行使したらしいな…」
「は、はい…ミリッツァの声が聞こえて…」
「そうか…」

 そう言いながら母はザンカの頭から手を下ろし、振り返って部屋の扉まで歩き始めた。
 神の声が聞こえたと言うことは、即ち神に選ばれたということ。にも関わらず、あまりに反応が薄い母に、ザンカはキョトンとしてしまった。

「お母様…?」
「祝祭は明日に延期らしい。アタシも出る。お前は今日は寝てろ」

 母は振り返らずにそう言うと、扉を開けて出て行ってしまった。

「お母様…どうして…」

 ザンカは、てっきり母がもっと褒めてくれると思っていた。皆を守り、神の声を聞いた自分の事を少しは認めてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていたのだ。
 なんだか寂しい気持ちになって、布団に包まろうとしたその時、ドアが乱暴に開け放たれて、見覚えのある男がドカドカと部屋に入ってきた。

「ザンカ〜〜〜!!!大丈夫だったか〜〜〜〜〜!?!?」
「あ、アルゴスおじさま!?」
「私たちもいま〜す!」
「…久しいな」
「クローネお姉さまにペイルおじさま!」

 母が冒険に行っていなかった間、ザンカは彼女の仲間たちとも疎遠になっており、今日会うのは本当に久しぶりの事であった。
 10年の歳月が流れ、さすがに多少年齢が見た目に出るようになった母と比べ、全く老化する事のないルーンフォークのアルゴスはもちろん、老化が極めて遅いエルフのクローネとティエンスのペイルも、まるで昔の姿のままであった。

「ザンカ!綺麗になったなぁ〜!よく無事でいてくれた〜!うぅ…!」
「お、おじさま、落ち着いて…」
「そうよ、ザンカちゃん引いちゃってるじゃない!」
「…うるさいと嫌われるぞ」

 ザンカが無事でいてくれた事と、彼女の成長した姿にアルゴスは顔をぐしゃぐしゃに濡らして感激していた。仲間二人はそんなアルゴスに冷ややかな目線を送るが、気持ちは彼と変わらないようで、ザンカとの再会を喜んでいた。
 無口なペイルもこの時ばかりは普段より口数が多くなり、ザンカに称賛の言葉をかける。

「しかしよく持ちこたえてくれた。怖かっただろうに、よく頑張ったな、ザンカ…」
「おじさまたちが駆けつけてくれたおかげです。あの空飛ぶ獣はペイルおじさまの?」
「ああ、グリフォンだ。あいつを連れていたのは我ながらいい判断だった…」

 珍しく誇らしげにするペイル。二人も負けじと自分の功績をアピールし始める。

「お、俺も敵を撃ちまくってやったぞ!」
「私も!」
「ふふふ…皆様ありがとうございました…」

 昔と変わらず賑やかな三人の姿に、母への疑問でモヤついていたザンカの心も解れていった。
 そうするうちにまた部屋の入口でガゴっと音がし、皆がそちらの方を見ると、そこに居たのは角を入口に引っ掛けて窮屈そうにしているエィルクだった。そしてその後ろにはフリアも居た。

「エィルク!フリア!」
「ザンカちゃん…ザンカちゃあん!」

 フリアはザンカの顔を見るなり駆け出してハグをしてきた。急だったので驚いたザンカだったが、ぎゅっとハグを返してお互いの無事を喜んだ。

「ザンカちゃん…!私を…皆を助けてくれてありがとう!」
「フリアこそ、貴女が居なかったら私は死んでいました…。エィルクも、皆のために戦ってくれてありがとう…」

 ザンカは涙を浮かべながらエィルクに目線を向ける。彼は照れくさそうに顔をもたげて顎を弄ると彼の角がまたガゴっと天井に当たった。

「いやあ、当たり前のことをしたまでだぁ…。ところで、この人らは?」
「お母様の仲間たちです。私を城から連れ出してくれた時からの知り合いで」
「ああ、この人らが…どうも初めまして」

 エィルクが丁寧にお辞儀をすると、彼の兜の角が人がいっぱいの部屋で暴れまわり、アルゴスたちはすんでのところで避ける羽目になった。

「おい!?危ないぞ!?」
「えっ?」

 アルゴスの叫び声にエィルクが頭を上げると、また角が暴れてひと悶着起きる。

「きゃ〜!狭いんだから考えてよ〜!」
「うふふ、アハハ…」

 皆のドタバタが面白くて、ザンカがつい笑ってしまうと、場が和やかになって皆も笑い始めた。

 それから、ベッドに入ったまま皆と少し話をした。アルゴスたちは今夜は孤児院に滞在して明日の祝祭にも参加すると言い、エィルクは一度森に帰ってまた明日来ると言った。
 大人たちがそれぞれに部屋を出たあと、フリアとは日が暮れるまで話をしていた。食事の時間が来ればフリアが食事を持ってきて、部屋でそれを一緒に食べた。
 そしてそのうち、だんだんと眠くなるとフリアを部屋に帰してザンカは母の部屋で眠りについた。

 次の日の早朝、ザンカは普段起きる時間に目を覚ますことができた。しかし、部屋を見てもザンカが眠りについたときのままで、母がこの部屋に戻ってきた形跡はどこにもなかった。

 母がどこに行ったのかと疑問には思いつつも、ザンカは身支度を済ませて朝食を用意するために食堂まで向った。
 すると彼女の疑問はすぐに解けてしまった。母と三人の仲間は、ある者は机に伏し、ある者は床で、母にいたっては大きな酒瓶を抱き枕にして寝ていた。机や床には空の酒瓶やグラス、永久氷片などが滅茶苦茶に散らかされており、昨晩ここで何が起きていたかは明白であった。

「呆れましたわ…。まったく、真面目そうなペイルおじさままで、こんなだらしのない…うっ、お酒くさっ…」

 呆れ果てて開いた口が塞がらないザンカに、厨房から出てきた院長が話しかけてきた。

「ザンカさん、もう大丈夫なのですか?」
「院長先生、私はもう平気です。身体もこの通り。でも…」

 ザンカはそう言いながらだらしない大人たちに視線を向けてため息をつく。院長も続いて腰に手を当ててため息をつき、同じく呆れたように話す。

「まったく、一晩中飲んでいたようですね。しかし孤児院を守ってもらった手前、咎めづらくて…」
「別にいいのではありませんか?それはそれ、これはこれ、ですわ」
「そうですね、同じように孤児院を守ってくれた貴女が言うのなら…」

 そう言いながら院長は前に出て咳払いをすると、大声で叫んだ。

「貴方達!!起きなさい!!!!」
「うぅっ?!」

 院長の細身の身体からは想像がつかない大声に、空気はビリビリと鳴って、4人の泥酔者はたまらず跳ね起きた。

「あ〜!頭が〜!」
「ふぎゃ〜っ…」
「大声は…やめてくれ…響く…頭に…うぐっ…」

 各々によろよろと立ち上がると、それぞれに体調不良を訴える。院長はお構いなしに彼らの身体をビシビシと叩きながら追い立てるように嗜める。

「子供の手本になるべき大人が4人も揃ってなんですか!そんなにだらしない姿をして!子供達に悪影響が出ますから、皆が起きてくる前に出ていきなさい!」
「わ、わーったよ院長〜!わーったからもうちょっと優しくぅ〜…」
「ほら!早く出ていきなさい!」
「ぎぃいぃ〜!」

 流石は元司祭の院長、容赦なくビシビシと酔っ払いを嗜めて退散させてしまった。普段は柔和な彼女もミリッツァの使徒らしく激しい一面を持っていたのだ。ザンカはパチパチと手を鳴らしながら院長を称賛する。

「お見事です。院長先生」
「貴女はあんなふうになってはいけませんよ。お酒は嗜む程度に、いいですね?」
「もちろんですわ」

 酔っ払いを追い出した二人は台所で朝食を作ることにした。
 台所に入ると、先に調理を始めていた二人の神官はザンカの姿をみるなり敬服したようにお辞儀をした。やはり神官として神に導かれたザンカは年下であろうとも尊敬の対象なのだろう。ザンカはそんな二人に謙遜しつつ、一緒に朝食を作った。
 今日は祝祭でいろいろな料理が供される。そのため朝食は本当に簡素なもので留めるのがこの孤児院の毎年の伝統であった。

 ザンカたちが簡素なスープを作り終わった頃には子供たちも皆集まっており、挨拶をして朝食を済ますと、各々が持ち場に行き、祝祭の為に手を動かし始める。

 秋の祝祭は収穫や実りといった恵みに感謝する日であり、それらを食するのみならず、手をかけて調理するのを楽しむことも感謝の表し方のひとつであった。

 ザンカは子供たちとともに生地をこねて、木の実の入ったパンを焼き上げ、フリアはその横でまた他の子供たちと果実のジャムを作っていた。
 外ではエィルクが男の子達を集めて魚の捌き方を熱心に教え、冒険者たちは肉や魚を焼くための準備を進めていた。
 今年は作物の収穫も多く、エィルクが森から採ってきた果実や魚もあり、さらには冒険者たちが持ち込んだ珍しい調味料や飲み物などもあり、供される料理はかなり充実しそうであった。
 更にエィルクがアルゴスとペイルと協力して狩猟をし、鹿までも持ち込んだことで半ばバーベキューの様相をも呈し始め、ザンカは大人たちがまたそれを肴にしてベロンベロンに酔っ払うのを想像し、腰に手を当ててがっくりとため息をついた。

 そして昼頃になり全ての準備が整うと、皆はまず食堂に集まった。
 食堂は子供たちが作った装飾で賑やかに飾り付けられており、テーブルには木の実のパンやクッキー、大きなパイなどが用意され、座っている皆の前にはそれぞれに赤い飲み物、ザクロのジュースの入ったコップが用意されている。

 子供たちは早く料理が食べたくて、ある子は目を輝かせ、ある子は足をパタパタさせていた。ザンカは子供たちの姿を見ていると自分もそんな時期があったなと懐かしい気持ちになったが、ふと横に座っているフリアを見ると、彼女も料理を見て足をパタパタさせていたので少し笑ってしまった。

 院長先生が立ち上がり、全員が揃ってるのを確認すると、ゆっくりと話を始めた。

「ごきげんよう、皆さん。先日は大変なことがありました。しかし、一日ズレてしまったものの、またこうして誰一人欠けることなく祝祭を開けることが出来ました」

 皆はしんと静まり返って、落ち着きのなかった子供たちも院長先生の言葉をじっと聞いている。

「私達が無事でいられたのはミリッツァ様のご加護と、そしてここにいる冒険者の方々とエィルクさん、そしてザンカさんやフリアさん、皆さんが頑張ってくれたおかげでしょう」

 院長の言葉に、ザンカは昨日の出来事を頭の中で反芻する。誰一人欠けることがなかったのは本当に幸運で、少しでも歯車が狂っていればどうなっていたのかと、少し想像するだけで血の気が引く思いがした。

「この祝祭は収穫や実りに感謝するものです。転じて、皆さんが産まれてきて、ここまで育ってくれた事を祝う日でもあります。皆さんもそれを噛み締めて、この幸福に感謝してお料理をいただきましょう。いいですね?」
「はーい!」

 院長先生の言葉に子供たちは一斉に返事をする。例年であればここから院長先生が音頭を取って乾杯をするのだが、今年は少し違うようだった。

「さて、今年はもうひとつ祝うべきことがあります。ザンカさんがミリッツァ様の声を聞き、神の奇跡を代行できるようになったことです。ザンカさん、今年は貴女が乾杯のご挨拶をしていただけますか?」
「えっ?は、はい…」

 院長に言われるままにザンカは立ち上がったものの、どうにも戸惑ってしまい、不安げに皆の顔を眺めてしまった。
 子供たちも大人たちも、ザンカの事を祝うように微笑んでいた。しかし、母だけはじっとうつむいていた。きっと彼女なりに思うところがあるのだろう。
 ザンカはやはり少し寂しい気持ちになったが、今は堪えて顔を上げて、ゆっくりと口を開いた。

「えっと…。院長先生のおっしゃるとおり、私はミリッツァの声を聞きました。神の力を借り、そのおかげで大切な友人、フリアの命を救うことができたのだと思います。でも…」

 ザンカは戦っていた時のことを思い出す。あの時は皆を守ろうと本当に必死になって戦った。しかし結果的に皆が助かったのは母が来てくれたおかげで、もしも間に合わなければ自分も、皆も死んでいたかもしれない。
 母は以前言っていた。戦うことは何か失うことでもあると。あの時の私は、本当だったら命を失っていたのだろう。皆の為に命を投げ出すことは惜しくないと本心から思ったからこそ、ミリッツァは力を貸してくれたのかもしれない。それでも結局弱い自分では誰も守れなかったのだ。しかし、だからこそ…。

「でも私は、私自身は未熟です。本当に皆を守ったのはお母様たちで、今の私では神の力を借りたとしてもきっと誰も守ることは出来ません。だから私は、もっと強くなりたい。今のままじゃダメなんです…!それで、えっと…」

 そこまで言ってザンカはハッとした。乾杯の音頭のはずが、つい熱くなって変な話をしてしまった。しかも皆が期待する景気のいい話でもない。ここからどうやって乾杯に繋げればいいのだろうか?考えても言葉の続きが出なくなってしまった。
 しんと静まりかえった部屋の空気に、気まずさを感じたザンカだったが、静寂を破る声があった。

「ザンカおねーちゃん!かっこよかったよ!」

 その声の主はミリィだった。

「蛮族は怖かったけど、私ちゃんと見てたもん!怖かったけど、ザンカお姉ちゃんが頑張ってたから私も泣かなかったよ!」
「僕も!」
「あたしも!」

 ミリィの言葉に他の子供たちも次々と続く。弱く小さな子供たちも、あの瞬間は自分たちの恐怖と戦っていたのだった。それでも窓から戦いの様子を見守って、ザンカの事を応援していたのだった。

「そうですよ、ザンカさん。私も見ていました。あの蛮族に物怖じせずに立ち向かった貴女は立派でしたよ」
「院長先生…みんな…うぅ」

 皆の言葉にザンカの目にはじわりと涙が浮かんできてしまった。
 しかし次の瞬間、端の方の席から空気をぶち壊すような大声が聞こえてきた。

「あーあー!祝祭だってのに辛気臭ぇなー!」

 声の主はスーだった。突然の事にみんなスーの方を見て静まり返る。そして彼女はどかっと音を立てて立ち上がるとザンカに向かって歩いてきた。
 ザンカは母に叱られるのだと思った。ザンカが戦いの訓練をしていた事も、神の声を聞いた事も母は良くは思ってくれなかったと感じていたからだ。
 少し怯えたようにするザンカに母は寄り添って言葉をかける。

「こういう時は堂々としてりゃいいんだよ!ほら!」
「きゃっ…」

 そういうと母はザンカの首に手をかけて皆に向かって高らかに語りかける。母のもう片方の手をよく見るとザクロのジュースが入ったグラスが握られていた。

「お集まりの皆々様!秋の実りに感謝を!そしてアタシ達にもな!」
「ちょ、ちょっとお母様!?」
「ザンカはみんな知っての通り、よく出来た娘だ。まあアタシの娘だからな当然だけどな!」

 そう言いながら母はザンカの頭をぐしぐしと強く乱暴に撫でた。

「痛っ!痛いですわよお母様!」

 嫌がって腕を振りほどこうとするザンカをよそに、母は演説を続ける。

「ちびっ子たちは知らんだろうから教えてやるが、ザンカお姉ちゃんは初めてここに来たとき他の子たちにビビってオドオドしてたんだ。さっきと同じだな」
「ちょっと?!」

 母がまた恥ずかしい昔話を始めたのでザンカは顔を赤くして必死に腕を振りほどこうとするが、母の腕力は凄まじくビクともしない。

「けどな、そんなお姉ちゃんもこの前の戦いでは堂々としてた。ディアボロ相手に物怖じせず啖呵切るなんて誰でも出来ることじゃない。ザンカは精神的にはアイツより強かったってことだ」
「えっ…?」

 改まったように急に落ち着いて話す母に、ザンカは驚いて抵抗していた手の力が抜けてしまった。
母はまた落ち着いた口調で話を続ける。

「さっき院長先生が言った通り、秋の祝祭は子供の成長を祝う日でもある。だから、皆もアタシの娘の成長を祝ってやってくれ」

 母がそう言うと一瞬しんとして、その後座っている皆からザンカを祝福する言葉が聞こえてきた。

「ザンカちゃん!おめでとう!」
「強くなりてェならオデがまた訓練に付き合ってやっからよォ!頑張ろうなァ!」
「本当に立派になったなぁ…うぅ、涙が…」

 次々と聞こえてくる祝福の言葉に、ザンカの胸はまた熱くなって、涙がじわりと浮かんできた。母はニヤけながらザンカに声をかける。

「ほら、堂々としろって言ったろ?乾杯はお前の役目だ」
「お母様ぁ…ぐすっ…」

 ザンカは涙を腕で拭って、コップを取ると高く掲げ、皆に向かってもう一度話しかける。

「皆様、本当にありがとう…!さあ、そろそろ皆でご馳走を頂いて祝祭を楽しみましょう!大地の恵みに、子供たちの成長に、乾杯!」
「乾杯!」

 乾杯の音頭のあと、皆は一斉に手に持ったジュースをぐいと飲む。久々に飲むザクロのジュースは甘酸っぱかった。

 そして皆はそれぞれに好きなものを食べる。子供たちはお菓子を嬉しそうに頬張り、大人たちは食堂にある料理を楽しんだあとは、庭に出て肉や魚を焼き、酒を楽しむ。
 ザンカは子供たちの面倒を見ていたが、途中で外に出ると大人たちに混ざって食事を楽しんでいた。

「ほらザンちゃん、強くなりてェなら肉食わねェとな!」
「こ、こんなに食べられるかしら…」

 エィルクはザンカの皿にどんどん肉を乗せてくる。大人の習性なのだろうか、彼以外の大人たちも口々にあれを食えこれを食えとザンカの皿に色々と乗せてきた。彼らなりにザンカをちやほやしているつもりなのだろうが、当のザンカは苦笑いをしている。

「おいおい、アタシの娘が太ったらお前らのせいだからな」

 そう言いながら歩いてきた母が持っていたのは、少し古ぼけたようにホコリをかぶった瓶だ。ザンカは肉を一生懸命咀嚼して飲み込むと、母に尋ねた。

「お母様、それは?」
「これはな、ザクロ酒だ。去年漬けたものだが、これなら甘いしお前でも飲めると思ってな」
「わ、私が?」

 グラスにとくとくとザクロ酒を注ぐ母だったが、酒を飲むということに抵抗があるザンカはモゴモゴと言い澱むように言葉を返す。

「お、お母様、お酒はちょっと…」
「ザクロ酒はミリッツァ様に縁深い聖なる酒だぞ?ちょっとだけ飲んでみろって、ほら」
「でも…」

 ザンカは母からザクロ酒を受け取る。色は先程飲んだジュースと大差ないが、甘酸っぱい匂いに酒の独特な匂いが混ざって、なんとなく忌避してしまう。
 じっと酒を見つめるザンカに、クローネが話しかけてくる。彼女は既に酒を飲んでおり、もうだいぶ出来上がりつつあった。

「だめよぉ〜ザンカちゃん。お酒飲めるようにならないとデートする時とか大変よ〜?」
「クローネお姉さま…私は別に色恋は別に…」
「えぇ〜?!そうなの〜?!」

 そこに、フラフラとペイルが歩いてきて、彼らしくもなく少し大きな声で話しかけてきた。彼は酒に弱く、少し飲んだだけで酔ってしまうようだが、酔っている彼は少し饒舌になる。

「そうだぞザンカ…酒をどれほど飲めるか自分で理解していなければ、大変なことになる…。若い頃の俺は限度を知らず、すぐに酔いつぶれて財布を盗まれたりして大変だった…。女性のお前ならより危険だ…」
「飲まなければいいだけでは…?」

 そこにアルゴスまで絡んでくる。彼も酒好きで、既にかなりベロンベロンだ。

「お前を泣かせる男は俺が射殺してやるからな!!頼りにしてくれ!!」
「お、落ち着いてアルゴスおじさま…」
「アルゴスくんはね〜〜ザンカちゃんが寝てる間ずっと泣いてたのよ〜〜〜!」
「泣いてない!!」

 彼らの話はすでに全く関係のない方向に向かい始め、ザンカはこれだから酒など飲みたくないと思うのだが、前に母が一緒に酒を飲みたかったと言っていたことを思い出し、少しだけ気が変わった。

「…一口だけですわよ」
「ああ、飲んでみろ」

 ザンカは恐る恐るグラスに口をつけ、ザクロ酒を一口だけ飲む。
 味はジュースより新鮮さはないが、漬けていたためか熟成されたような柔らかい口当たりと香りがあり、アルコールの匂いもさほど気にはならなかった。酒を飲み込むと喉が少し熱くなり、体温が上がる気がする。今まで味わったことのない感覚だが嫌ではなく、むしろ心地よくさえあった。

「…美味しいですわ」
「おっ、イケる口か。流石アタシの娘」

 これが果実酒だった為か、ザンカは意外と抵抗なく酒が飲めた。またこの味と感覚を楽しみたくなって、ザンカはぐいと酒を一気に飲む。

「お、おい!そんな一気に飲んだら…!」
「ぷはっ、これ美味しいですわね!おかわり!」
「あ?」

 無茶な一気飲みに流石の母も焦ったが、当のザンカはケロッとした顔でおかわりを要求した。キョトンとしている母をよそにザンカは自分でザクロ酒をグラスに注ぎ、またぐいと飲む。下戸であるため一人だけシラフだったエィルクもそんな様子を見て流石に焦ってザンカに声をかける。

「あ、ああ…ザンちゃんそんな飲んじゃぶっ倒れちまうよォ!」
「鹿男の言うとおりだ!もっと大事に飲め!!そんないっぱい作ってねえんだぞ!!!」
「そういうこっちゃねェんじゃないの?!」

 エィルクの心配をよそに、ザンカはまたもケロッとした顔をしていた。

「お酒って美味しいんですのね!今まで飲んでなかったのが馬鹿みたいですわ!」
「う、うわばみとは言ったもんだな…」

 ザンカはかなり酒に強いようで、その後も何杯か酒を口にしたが、いつまでもほろ酔い程度にしか酔わず、彼女のペースに合わせて飲んでいた大人たちは次々とダウンしていった。
 しかし酒好きでいつもはもっと飲むはずの母は最初の一杯しか飲まず、皆と食事を楽しんでいるときでも時折寂しそうな表情をしていたのをザンカは見逃さなかった。

 昼から始まった祝祭だが、日はとっぷりと暮れて夜になった。夕食も兼ねているこの宴に、食事に飽きて遊んでいた子供たちも帰ってきて、最後はまた全員食堂に集まって一緒に食事をした。
 そして、最後は院長が挨拶をし、解散となる。食堂も外も散らかりっぱなしではあるが、片付けは明日に持ち越された。これも伝統のひとつであった。

 みんなが各々寝る準備を始めた頃、母はザンカに話しかけてきた。

「ザンカ、少し散歩に付き合え」
「こんな時間にですか?」
「ああ、酔い覚ましに涼みたくてな。お前も飲み過ぎだ。少し頭冷やせ」
「いいですけど…」

 母がこんなふうに散歩に誘うことは今まで一度もなかったのでザンカは少し訝しんだが、だからこそ久しぶりに二人きりでじっくり話をするいい機会だと思って承諾した。

 外に出ると今夜は満月で、夜の闇を晴らすように優しく輝いていた。
 酔い覚ましと言う割にはフラつきもせずしっかりと歩く母の後ろをザンカもついていく。しばらく歩いて母は立ち止まり、そして口を開いた。

「懐かしいな。覚えてるか?ここ…」

 この場所はザンカにも覚えがあった。ここは子供の頃にフリアと花の冠を作った草原だ。あの頃はものすごく広く感じたこの場所も、大人の目線で見ればなんてことはなかった。

「本当に懐かしいですわね…」
「花輪、作ってやろうか?」
「お母様は下手だったじゃないですか」
「余計な事ばっかり覚えてやがって…」

 母はしゃがんで少し足元の草をいじるような素振りをしたあと、また立ち上がり、ザンカに背を向けて問いかける。

「お前、これからどうしたいんだ?」
「これから…?」
「歯を磨いて寝るってことじゃないぞ。それぐらいは分かるだろ」
「…」

 母が何を言いたいのかは分かる。そして自分が何を言いたいのかも。しかし、それは本当に言っていいことなのかわからず、ザンカは黙ってしまった。
 しばらく沈黙が続くと、母の方が先に口を開いた。

「神官として神殿で働くって道もある。アタシがメルジーヌに口利きすればそれもできるだろう。どうだ?」
「お母様、私は…」
「なんだ?」

 神殿で働く。人々の為に尽くす尊い仕事だ。それもきっと良き道なのだろう。しかし、ザンカの胸のうちにある憧れは、その道を照らしてはいなかった。
 ザンカは意を決して母の問いかけに言葉を返す。

「お母様…私は放浪者になりたいです」
「冒険者じゃなく放浪者か。昔そんな話を読んでやったな。お前もあれに影響受けた口か?だったらあの授業をしたのは間違いだったかもな…」
「確かにあの本は素敵でした。広い世界をめぐり、人々を助ける。蛮族である私がなるなら、冒険者ではなく彼のように自由な旅人だろうと思いました。でも、私が本当に憧れたのは本の中の英雄じゃなく、貴女です!」
「…」

 母の言葉をザンカは強く否定し、本心を吐露する。母もゆっくりと振り返り、自分の娘にしっかりと向き合った。

「ずっと憧れていました。強くて優しい貴女に…。貴女のようになることが私の生きる目標です…!」
「…っ」

 それを聞くと母は苦虫を噛み潰したような悲しい表情をした。

「もういい。もう言うな」
「お母様…」
「前に言ったよな、冒険者になりたければアタシより強くなきゃ駄目だって!」

 母がそう言った次の瞬間、ザンカの頬に何か重たい一撃が加わり、彼女は後ろ側によろけてへたりこんでしまった。
 顔を上げると母が拳を握りしめてザンカの事を睨みつけている。その拳は震えていた。

「放浪者でも同じ条件だ。立て!アタシに勝ったら認めてやるよ!」

 ザンカはまた昔の事を思い出していた。邪龍となった父に殴り飛ばされた時の事、今の母に初めて頬を叩かれたときのこと、ザンカが本当に間違ったときには同じようにまた叩かれた事を。しかし母の拳は父の暴力とは違った。親が子を思うからこそ振るった手からは哀しみが伝わってくるからだ。
 母はきっと、間違ってほしくないのだ。自分の事を本当に考えてくれているからこんな事をしている。
でも、今は、今だけは譲ることは出来ない。そう思いながらザンカは両の脚に力を込めて立ち上がり、母に向き合った。

「上等…上等ですわ…!」
「…っ!?」

 ザンカは思いっきり脚を踏み込み、母の顔面に拳を叩き込んだ!
 母は仰け反ったが倒れはせずに持ち堪え、ザンカをまた睨みつけた。

「テメェ…親を殴るとは親不孝もんだなァ!」
「貴女が始めたんでしょう!!」
「口答えするな!!!」

 そう言うと母はまたザンカに殴りかかるが、ザンカも負けじと拳を繰り出す。

「アタシみたいになりたいだと!?放浪者だと!?笑わせるな!!」
「私の勝手です!」
「ガキの頃はもっと可愛かったのによォ!」
「貴女だって老けましたわよ!!」
「テメェ!!!」

 二人はお互いに殴り合いながら言葉を交わす。こんな形ではあるが、こんなに長話をしたのはいつ以来だろうとザンカは思っていた。

「お前なんか旅に出てもすぐ死ぬぞ!」
「死にません!」
「平和に暮して男作ってガキでもこさえてればいいんだ!お前は!」
「勝手に決めないで!こんな体の私がそうなれると思って!?冒険者もそれで諦めたのに!!」
「知るか!出来るかもしれねえだろ!!」
「じゃあ放浪者も出来るかもしれないでしょう!!」
「ダメに決まってんだろ馬鹿ァ!!」

 まるでキャッチボールのように言葉と拳を交わす二人。だんだんと幼稚な言い合いに落ちていくが、それでも今できる精一杯の心の交流だった。

「ぐっ、テメェ…」
「はぁっ、はぁっ…」

 顔をさんざん殴られたザンカは鼻血をたらし、意識も朦朧としてきた。
 母も意外なザンカの善戦に同じく鼻血をたらし、ザンカの血がついた拳は焼けただれていた。

「なんで、なんで分かんないんだ…!」
「言わなきゃ…分かるわけないでしょう…?」
「ぐっ…!アタシの姿を見ろ…!」

 母は眼帯を外し、服をまくって腹の傷を見せた。昔一緒にお風呂に入ったときのままの、大きな傷がそこにあった。

「アタシはな!本当は親になる資格なんかなかったんだ!自惚れて無茶な事をして、大事な物を失った!」
「大事な…物…」

 服を戻し、母は独白を続ける。

「冒険者になってそれほど経たない頃、アタシは仲間の一人と恋仲になって、子供ができた…。そしてお腹がまだ膨らんでない頃、急ぎの依頼が来た」
「…」

 母の独白をザンカは黙って聞く。母が自分の昔話をするのは初めてのことであった。そして、こんな悲痛な顔をしているのも。

「街道で何人もの女が蛮族に攫われた事件の解決だ。女たちの安否を考えれば急を要すと判断して、アタシは自分自身を囮にする事を提案した。みんな反対してたが、アタシは押し切って依頼を受けた。実力を過信していたんだ…だが、その結果は…」

 母は震えながらポロポロと涙を流し始めた。こんなに弱々しい姿の母を見るのも初めてのことであった。

「作戦は失敗し、アタシは捕らえられ、助けに来た恋人は殺された…!頭と心臓を潰されて蘇生も不可能なぐらいに惨たらしく…!そして蛮族共はアタシの眼をえぐり、腹に刃を…あいつら!お腹を…!アタシの赤ん坊を…!!」

 涙を流しながら拳を握りしめる母の姿を見て、ザンカの頬に涙が伝う。やはり母は大切な物をなくしていたのだ。

「ミリッツァはアタシを助けてくれたが、お腹の中の赤ん坊までは助けることができなかったらしい。神の力も万能じゃない。それは、別にいい。仕方のないことだ。だがアタシは、自分が許せなかった!それはお前に出会ってからもだ!」
「お母様…」
「お前と出会ったとき、アタシは自分の子供が帰ってきたような気がしたんだ。傷だらけのお前を代わりの子供にして自分を慰めていたんだよ!そんな自分もアタシは許せない!最低の親だ!」
「お母様、それは違います…」

 ザンカは母にそっと近づき、両手でぎゅっと抱きしめて言葉を続けた。

「私もお母様に出会って、欠けた何かが埋まったのです」
「なっ…」
「貴女は私に色々なものをくれましたね。生きるための知恵に、新しいお家、素敵な名前…。それに、沢山の愛を。きっと、何かが欠けた二人だから、貴女だったから私は救われたんです…」

 ザンカはそう言うとさらに強く母を抱きしめた。

「欠けていても、傷ついていても貴女は愛する事をやめなかった。そんな強くて優しい貴女だからこそ、私は貴女のようになりたい…」
「やめろ…アタシは…!アタシみたいになりたいなんて言うな…!」
「やめません…!大好きです、お母様…!」
「ぐっ…うぅ…」

 母は大粒の涙を流しながらザンカの手を振り解き、少し距離を取ると涙と鼻血を拭きながら振り絞るように声を出した。

「くっ…まだだ!まだ決着はついていない!!」

 母はそう言うとまた拳を構えた。ザンカはそれに答えるように自分も涙を拭い、またゆっくりと拳を構える。 

「お母様…私はずっと寂しかった…。だから今はとことん付き合います…!」

 二人はよろよろと距離を詰め、そしてお互いに拳を繰り出した。ふたつの拳はそれぞれの顔面に直撃し、そして二人はどさっと倒れ、天を仰いだ。
 天には星空が広がり、キラキラと光って地上の命を祝福する。
 ザンカはもうほとんど動く気がしないほど疲れ果て、顔も手もジンジンと傷んでしかたなかった。しかし、久しぶりに母と心を交わせた気がして、とても満足な気分だった。

「はぁ…はぁ…お母様…。決着は、まだ付きませんか…?」
「…あーもう!」

 母もザンカと同じく天を仰ぎ、そして叫んだ。

「あーもういい!もうイヤ!!こういうことかよミリッツァ様よォ!嫌いになりそうだわもう!!あ〜!!」

 母は地面をバンバンと平手打ちし、草をちぎっては投げる。

「そういう事言ってるとまた神罰をもらいますわよ…」
「うるせえよ!ったく、お前の勝ちだ!バカ娘が!!」
「やった…ふふ…」
「へっ…知らないうちに強くなりやがって…」

 しばらくして二人は立ち上がり、お互いの肩を借りながらよろよろと孤児院へと戻っていった。

「あー、痛え…戻ったらとっとと治療するぞ」
「こういう私事での怪我でも神の力を借りていいものなのですか?」
「知らねえよ!細かいこと気にしてると旅の最中死ぬからな!気をつけろよ!」
「わ、わかりましたわよ…」

 こんな状態でも悪態をつくことができる母のタフさにザンカは敬服しつつも、本当にこんなふうになるべきかと少し考えてしまうのだった。

「あーあ、酔いが覚めちまった。飲み直すから付き合えよ。とっておきの酒があるんだ」
「とっておきの酒…。ま、まあ仕方ありませんわね」

 酔い覚ましにと誘ったくせに飲み直そうとする母に少し呆れたザンカだったが、とっておきの酒に釣られて自分も付き合うことにした。

 その後二人は身体を治療したのち、ザンカは食堂に来てグラスを用意した。そして母は部屋からなにやらホコリをかぶった酒瓶を持ち出してきたようだ。

「これはお前に出会った年に買った上物のワインだ。お前と飲むのを楽しみにしてた」
「意外とロマンチストですわよね、お母様って…」
「うるせぇ、開けるぞ」

 母はワインのボトルを開けるとグラスに注ぎ、ザンカに手渡した。

「いい香り…」
「ふふっ、飲んでみろ」

 まずはワインの香りを楽しみ、それから一口飲んで口の中で転がす。これも初めての味だったが、芳醇な香りと味にザンカは感動して飲み干してしまった。

「美味しい…もう一杯!」
「だーっ!その飲み方やめろ!もっと大事に飲め!」
「でも…」
「わかったわかった、他の種類の酒も持ってくるから少しずつ飲もう。飲める酒が増えれば世界が広がる」
「ぜひ!」

 言葉通り母は次々に違う酒を持ってきては二人でそれを飲んだ。どの酒も美味しく、ザンカはそれぞれに舌鼓を打ち、そうするうちにどんどんと夜は更けていった…。

 そして次の日の朝、食堂にやってきた院長はすっかり呆れ果てていた。

「まったく…。こんなところまで似なくていいというのに…」

 院長の目の前には机に伏して眠るスーと、それに寄り添って幸せそうに眠るザンカがいた。結局二人は一晩中飲んでいたようで、そのまま眠ってしまったらしい。
 院長はこの前のように大声で怒鳴る。

「こら!二人とも!だらしないですよ!!」
「ひぃっ!?」
「うぎぃ〜っ!?頭が〜!!!?」

 院長にビシビシと叩かれ、二人の似たもの親子はたまらず退散していった。

 そして、その日から母はザンカの訓練に付き合ってくれるようになった。母と同じく巨大な盾と武器を手にする戦い方の基礎訓練を毎日行い。彼女が培った戦闘のイロハを叩き込まれていく。
 母の訓練は厳しく、時折心が折れそうなほどキツい事もあったが、それでも母は手を抜くことはなかった。ザンカも母の厳しさの中に確かな思いを感じ、それに応えるため必死に身体を動かした。身体は毎日のように悲鳴を上げたが、母と過ごす日々はとても幸せだった。

 母はそのうち、ハルシカのミリッツァ神殿にザンカを連れていき、神官として認めるよう大司祭に頼んだ。大司祭は神の声を聞いたザンカを認め、晴れて彼女は正式な神官となった。

 そうこうするうちにあっという間に一年が過ぎ、めきめきと力をつけていったザンカは、エィルクが同伴するという条件で、ついに母から旅立ちの許可を貰うことができたのだった。

 そして旅立ちの日、ザンカとエィルクは準備を済ませて孤児院の玄関を出た。ザンカは重厚な鎧を纏い、大きな盾とメイスを背負っていた。

 ザンカたちが外に出ると、孤児院のみんなは先に集まっていた。フリアに院長、ミリィや他の子供たちがワイワイとザンカ達の旅路の無事を祈って言葉をかける。

「ザンカちゃん!強くなったらまた帰ってきてね!お土産期待してるから!」
「フリアったら…仕方ありませんわね!」
「どうぞご無事で、ミリッツァ様の加護がありますように」
「ありがとうございます、院長先生もお元気で」
「おねえちゃん!頑張ってね!」
「ふふふ、ありがとうミリィ」

 そして母は皆の後ろの方で黙って腕を組んでいたが、フリアに手を引かれて前に連れ出された。

「おいなんだよ!」
「お母様は挨拶しなきゃでしょ?」
「ったく…」

 母は悪態をついていたが、仕方ないなというような素振りを見せて、照れくさそうにザンカに声をかけた。

「えっと、そうだな。鎧の着心地は?」
「少し重いですけど、身体に馴染みます」
「そうか、他の子たちのこともあって今までお前にきれいな服のひとつも買ってやったことは無かったからな…。まあ鎧や武器ぐらいはな…」
「ありがとうございます。お母様」

 ザンカに礼を言われて母はまた照れくさそうに目線をそらして頭を掻く。

「まあ、なんだ…。せっかく旅に出るんだからデカイことのひとつでもしてこい。あと、たまには手紙のひとつでも寄越せよ」
「はい、お母様。ふふっ」

 ザンカはそう言うと母に抱きついた。母は驚きながらも咄嗟に抱き返し、呆れたように口を開く。

「お前なぁ、旅立つって時に甘えるやつがいるかよ!しかも鎧で抱きしめられたら痛えっつーの!」
「貴女の祈りが籠められた名前に護られていますから、私はきっと強くなって帰ってきます。大好きですよ、お母様」

 いたずらっぽく言うザンカに、母もタジタジになり、咄嗟に話を逸らそうとしてエィルクを指差して怒鳴り始めた。

「あー…あー!鹿男!ザンカに手ェ出したらタダじゃおかないからな!覚えてろ!」
「そ、そんな恐ろしい事しねェって前から言ってンのに!」
「あはは…」

 こうしてあまり締まらない雰囲気ではあるが、二人は旅に出た。

「行ってきます!」

 ザンカは皆に手を振りながら歩いていく。その胸の内にあるのは少しの不安とまだ見ぬ世界への期待、そして母のような立派な人になるという決意だった。

 丘を下り、段々と小さくなっていく娘の姿を、母はいつまでも眺めていた。

 こうして少女は幾つもの痛みを超えて成長し、旅に出たのだった。
 そして、今…。



「ザンカ殿」
「ん…あら、おじさま…。もう交代の時間ですの?」

 昔の事を思い返すうちに少しだけウトウトしていたザンカの肩をペッシェが揺らし、目を覚まさせた。まだ夜は明けておらず、星は相変わらず瞬いていた。

「私ったら、見張りをしていたというのに…」
「やはり疲れているのだろう。さ、代わるから寝てきなさい」
「わかりました、おやすみなさい…」

 ペッシェに促され、ザンカはテントに入って鎧を脱ぐと、そのまま毛布に包まり眠りについた。

 目を覚ませばまた、人の悪意や強大な敵と戦う日々が続くのかもしれない。
 しかし、彼女の胸の中には母やその仲間、そして友と子供たちから受け継いだものが今も生き続けている。
 皆から貰った大切な物を受け継ぎ、新たな仲間たちと心を交わしながら彼女は旅を続ける。いつか母のように強くなる、その日を夢見て…。

おわり

あとがき

 お見苦しい文章ですが、読んでいただきありがとうございました。
 こういった形で文章を書くことがほとんどなかったので相当に苦労というか、どうしたらいいのかわからないでがむしゃらに書いてしまったので、ところどころおかしい部分もあったかもしれません。でも書いてて楽しかったです。
 正直こんな稚拙な文章をパブリックな場に出すのは少し恥ずかしいのですが、動画を投稿していた頃もそうだったように、多人数に見られるようにして初めて前に進める気がしたので投稿してみました。

 読んでいて分かるかと思いますが、ところどころに色々なコンテンツからの引用というか、なんならモロパクリのような要素があるのが分かると思います。なんならタイトルは覚悟のススメのパクリですし。ザンカという名前は『双亡亭壊すべし』の木下残花少尉から取ってますし。

 普段から仲間内でソードワールドの世界観や自PC語りをすることが多く、その延長でこのSSを書いてみました。そういった事情もあり卓の外の人たちが読んでも面白いのだろうかという不安がありますが、楽しんでいただけたのなら幸いです。
 またこういった文章を書く機会があれば乗せてみたいと思います。
 その時はまた、よろしくお願いいたします。
 みんなもソードワールドやろうな!


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