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明日、私は官僚を辞める #10「辞める? 続ける?」

キャリア官僚6年目の桜は、自作の小説を軽い気持ちでコンテストに応募したところ、見事大賞に選ばれてしまう。今日はコンテスト担当者と電話で話した。官僚のままでは書籍化ができないので、退職して小説家になったらどうかと提案されるがーー

 ブログコンテストの担当者である佐々木と電話をした日の夜。桜は机の上にノートを広げて、難しい顔をして考え込んでいた。

 桜の前にはどんな選択肢があるのか。そして、それぞれのメリットとデメリットは何か。整理しようと思ってノートを開いたのだった。

 一つ目に書いたのは「受賞を辞退すること」だった。
 何も大ごとにならないというメリットはあるが、その代わり、自分の文章を世の中に広めることはできない。

 二つ目の選択肢は、「官僚を続けながら書籍化と連載をすること」。
 国家公務員でも、上司の許可があれば小説を執筆して収入を得ることはできる。しかし、その許可というのが懸念点だった。ただでさえ国家公務員のSNS利用については、省庁の信用問題に関わるので総務省が注意を促している。そんな中で小説を書いて広く出版するという行為が上司から認められるのだろうか。桜は、可能性は低いだろうと見た。仮に認められても、上司や人事は桜の作品をチェックするのだろう。それも嫌だった。

 最後が、「官僚を辞めて小説家になり、文筆業に専念すること」。
 文章を書くという自分の好きなことを仕事にできるというメリットはあるものの、いかんせんデメリットが多すぎた。

 まず、いくら褒めてもらったとはいえ、桜は小説のスキルは何もない。そんな状態で、小説家一本で生計を立てることができるのだろうか。
 小説家の世界は厳しいと聞く。売れなければ本当に収入ゼロになってしまうし、連載の仕事を受けていても毎回締め切り前は大きなストレスを感じるらしい。売れるのはごく一握りの人だ。
 幸い、桜の場合は書籍化が決まり、ある程度の発行部数が確保されている。また、連載も一定期間続けることができそうだ。しかし、その連載が終わったらどうなるのか。小説家とは別の仕事も確保しておいた方がよいだろうか。

 また、せっかくキャリア官僚になったのに、すっぱり辞めてしまってよいものだろうか。国家公務員試験は超難関だ。東大生でもちゃんと対策しなければ普通に落ちる。ようやく掴んだキャリアを自ら手放してしまってよいのだろうか。

 ここまでざっと書き出して、桜は頭が疲れてきてしまった。

「結局、好きなことを仕事にできるほど世の中は甘くないんだろうな」

 ため息をつきながら、何気なくスマホを手に取った。いつものニュースアプリで今日のニュースをチェックする。
 そのとき、とある記事のタイトルが桜の目を引いた。

『若手キャリア官僚はなぜ霞ヶ関を去っていくのか』

 キャリア官僚が若手のうちに退職し、民間企業に転職するケースが年々増えていることについて考察する記事だった。

「何だか、今の私の状況と似てるような気がする」

 桜は全文を読むことにした。

 インタビューを受けた元若手官僚のAさんは、退職の背景について二つ挙げていた。残業時間の多さと、自律的な業務の少なさだ。

 残業時間の多さについては桜も経験済みなので、もっとホワイトな環境を求める気持ちは本当によく分かる。

 また、自律的な業務の少なさを不満に思う気持ちにも、桜は心から共感した。

 官僚の仕事は、他律的な業務が多い。どういうことかと言うと、多くの場合、自分たちのみで意思決定をして業務を進めていくことが難しいのだ。他省庁との協議が必要だったり、国会議員に合わせて対応しないといけなかったり。あとは、官僚の頭脳を結集して考えた案が重鎮議員の鶴の一声で一気にひっくり返ることだってある。
 実際、桜が初期配属となった部署で、どうしようもない政治の力が働いて意思決定が覆ったことがあった。その対応にあたった中堅の官僚が「こんなの飲まないとやってらんないよ」と言って土曜朝の新橋で酔いつぶれていたらしい。前日の金曜日が奥様との記念日にあたる大事な日であったにも関わらず、だ。

 国を良くしたい、国を支えたいという高い志を持って入ったのに、自分たちの頭で考えてもどうしようもない局面に立たされるのでは、やるせない気持ちになってしまうのも無理はない。
 そして、そのように志を高く持ってキャリア官僚の世界に足を踏み入れた優秀な人材が、働き方などの環境要因によって早々と退職してしまう事態には桜も危機感を抱いた。

 でも、と桜は思う。
 自分は今、どんな志を持っているだろうか。入省したときの志の高さを保つことができているだろうか。

 最近までの桜は、必ずしも希望していなかった部署で働く中で日々の残業で疲弊し、入省したときの志を忘れ、やりがいを見失っているのではないか。
 報告書の前書きの作業を始めた年末までの自分は、志がないまま機械的に仕事をこなすだけの人間と化していたような気がした。
 報告書の前書きはたしかに楽しかったが、その作業が終われば、また日々の国会対応やその他の交渉業務などに忙殺されるだろう。報告書の前書きだけでは、根本の問題は解決できないように感じた。

「結局、私は何のために、何がしたくて仕事をしているんだろう?」

 桜は、この問いに対してすぐ答えを出すことができなかった。

 今回、自分の小説が大賞に選ばれたことは思いがけない出来事で、正直に言ってとても焦った。もし選ばれなければ、桜はいつも通り仕事を続けていればよかったのに、選ばれてしまったことで、色々と考えるべきことが増えてしまった。

「面倒なことに巻き込まれちゃったかな」

 そうつぶやくと、ついため息が出た。
 しかし、受賞がきっかけとなって自分のキャリアにしっかり向き合おうとも思えるようになったので、今回の受賞はそこまで悪い話ではないのかもしれない。

 一通り自分なりに考えてみた桜は、次は誰かに話を聞いてもらいたいと思った。寝る前に瑞希と聖奈の3人のチャットルームの画面を開き、メッセージを送る。

「ちょっと相談したいことがあるんだけど、今度平日のどこかでランチに行けないかな?」

 相談、という言葉から二人とも何かを察したらしい。瑞希と聖奈は桜に予定を合わせてくれて、明後日に職場の近くのカフェでランチをすることになった。



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