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明日、私は官僚を辞める #15「入省時の志はどこに」

キャリア官僚6年目の桜は、官僚を辞めて小説家としてデビューする決意を固めた。今日は人事課の担当者と面談して退職の意向を伝える日だ。絶対に引き留められるだろうと予想していたが、面談の結果は果たしてーー

 週末の帰省が終わり、また月曜日がやってきた。
 桜は退職の意向を人事に伝えるべく、人事担当室長である鈴木に連絡を取った。室長のご都合の良い時間があれば面談をお願いしたいとメールしたところ、すぐ返信があり、早速今日の15時に面談をすることとなった。

 職場の人事担当者に退職の意向を伝えるのは、両親に話したのとは比べものにならないくらい緊張するイベントだった。

 絶対引き留められるに違いない。それでもちゃんとそれを振り切って意向を伝えられるだろうか。

 不安を感じながらも、自分が決めた道だから、自分で切り拓いていくしかないと覚悟を決めた。

 15時少し前に指定された面談室に先に入った桜は、いつもより速い鼓動を感じながら、じっと鈴木の入室を待った。

「お疲れ様です。待たせてしまってごめんなさいね。今日はどうされましたか?」

 ゆったりとした挙動で鈴木が部屋に入ってきた。鈴木はいつも物静かで口数は少なめだが、話し出すと不思議と人を惹きつける。椅子に座るように促された桜は、改めて気を引き締め、用意した説明を口にした。

 桜が話している間、鈴木は穏やかな表情を変えず、時折うんうんとうなずきながらしっかり目を見て話を聞いてくれた。そして桜が一通り話し終わると、落ち着いた様子で口を開いた。

「なるほど。お話は分かりました。私の立場からは申し上げると、もちろん省に残っていただきたいのはやまやまです。ただ、平行線の議論をするのも良くないので、ここは少し趣向を変えて、昔話でもしてみましょうか」

 何の話が来るのだろう。見当がつかなくて、桜は身構えた。

「白川さんと初めてお会いしたのは、官庁訪問のときの面接でしたよね。私が第二クールでお話しさせていただいたと思います。懐かしいですね」

 第二クールとは、簡単に言えば官僚志望者を対象とした選考期間における、二回目の業務説明と面接のことを指す。桜は第二クールで鈴木から業務説明を受け、その後質疑応答の時間があった。あくまでも業務説明という体裁を取るが、実質的には選考の一環であるようだった。

「僕は第一クールと第二クールで何人もの学生さんとお会いしましたが、白川さんのことは特に印象に残っています」

 桜は、当時のことを思い出して懐かしい気持ちになった。それは鈴木も同じようで、柔和な笑みを浮かべながら続けた。

「白川さんはたしかX省の選考も進んでいて、X省の方がうちよりも志望度が高いと伺っていたと思います」

 そう、当時の桜は無謀にも、鈴木の前でこの省はあくまでも第二志望だということを明言したのだ。今から思えば失礼というか、何とも強気な姿勢だったと思うが、鈴木にとってはそれがむしろ好印象だったらしい。

「他の省からも高く評価されている学生というのは、ああいう場面で駆け引きの姿勢を見せることも多くてですね。そういう態度は職員側からすぐ分かるんです。でも、白川さんの場合はX省とうちの間で真剣に悩まれて、悩んでいるからこそ、X省になくてうちの省にある強みを知りたいと思っておられたのだと感じました」

 合っていたでしょうか、と鈴木は桜の目を見てにこりとした。

「そのように国のために、日本社会のために働きたい、そして自分のいるべき場所はどこなのだろうと真摯に検討されている様子は、とても素晴らしいものでした。だからこそ、あのときの初心を思い出してもなお退職の意向は変わらないのかどうか、私は気になっているのです。もちろん私は白川さんともっと一緒に働きたいと思っていますが、無理に引き留めることはできません。ただ、今回の選択が未来の白川さんにとって後悔するものにならないか、これまでのご自身の思いに矛盾するものでないか、こういった点をクリアにする必要があるのではないかと思ってお聞きしました」

 鈴木は穏やかな表情でこう桜に問いかけた。

 国家公務員は中途採用があまり頻繁にないから、特に若手の退職は痛いだろう、絶対引き留められる。そう思って警戒していた桜は、思いのほか優しい鈴木の言葉に少し拍子抜けした。
 しかし、その優しい言葉の奥には、桜の真意を引き出そうとする力もあることを同時に感じた。適当に言い繕おうとしても、鈴木の前では見破られてだろう。そんな怖さもあった。

 桜は、耳当たりの良い言葉を言おうとするのではなく、拙くても自分の言葉で話そうと決めた。

「仰る通り、私は国を良くしたい、未来のためにより良い社会を引き継ぎたい、そう思って就活に臨みました。そして、X省と最後まで迷いましたが、この省に行きたいと決めた自分の選択は正解だったと思っています。あの頃抱いていた志は、まだ消えていません。それでも、その大きな志を実現する手段は他にもあると思ったし、他の手段に挑戦してみたいと思ったからです」

 桜は、帰省中に考えたことをできる限り丁寧に話そうとした。

「今から思えば、就活のときの私は、自分にとって大事な価値観を重視して就職先を検討していたのだと思います。でも、この省で6年間働いてみて、もっと自分の好きなことや得意なことをベースに考えてもよかったのではないかと思うようになったんです」

 鈴木の目が、どういうことか、と桜に問うていた。

「私の場合、文章を書くのが好きで、得意だと思っています。文章を通して読み手の自分の考えや思いを伝えて、何かを感じ取ってもらうのが好きです。それを仕事にも生かしたいと思うようになって、調査課の手塚室長にもご相談し、文章を書く業務を一つ私に回してもらいました」

「そうですね。手塚くんにちょうど昨日食堂で会ったとき、白川さんがとても良い仕事をしてくれたと喜んでいましたよ」

「それは嬉しいです。ただ、省庁の仕事はそのような文章を書く仕事ばかりではなく、むしろ調整業務が多いと思います。その中で、私は文章を書くことをもっと仕事の中心にしたいと思うようになりました。今でも、この国や社会に貢献したい気持ちはあります。それを実現するため、就活生の私は国家公務員という立場を選びましたが、民間企業やフリーランスの立場からの貢献ももちろん可能だと思います。そこで、私は自分が好きで得意なことをもとに、文章を書く仕事を通して社会に貢献しようと思ったんです」

 桜はそこまで一気に話し終えて、息をついた。
 鈴木は、分かったというように一度大きくうなずいた。

「白川さんご自身が納得される形で後悔のない決断をされるなら、私はこれ以上何も口を挟むことはできませんね。好きなことを仕事にすることの大変さはまた別途あるとは思いますが、白川さんもその点は十分お考えでしょう。どの道を行くにしても苦労はつきものですが、白川さんが少しでも楽しく充実した生活を今後も送ることができるよう、願っております」

「ありがとうございます。6年間、大変お世話になりました。たくさんのことを勉強し、尊敬できる上司や先輩方に囲まれて、とても刺激的で充実した時間を過ごすことができました」

 それから、鈴木から退職までの流れについて説明を受け、今後は部署内で引き継ぎを済ませてほしいと言われた。誰が桜のポストを引き継ぐかについては、鈴木が桜の上司たちと相談して後日連絡するとのことだった。
 一通り話を終え、桜は鈴木に促されて部屋を出た。

「お忙しいところお時間をいただき、ありがとうございました。あとわずかの期間ですが、引き続きよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。退職にことに関して疑問に思うことなどあれば、いつでもご連絡くださいね」

「ありがとうございます」

 桜が鈴木に礼をすると、鈴木はにっこりと笑ってから桜に背を向け、人事課の部屋に戻っていった。





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