物語 根の国(2)

★タナカ書房

翌日からボクはそこで働くことになった。昼間見るとずいぶん古い感じのビルだった。
一階玄関の上に「グンヂルビカナタ」と書いてある。
「ビルヂング」、ですか。
後で調べてみると市で二番目に古い鉄筋コンクリート造りのビルだそうで周りは小さな事務所や駐車場が多かったが新築らしいきれいなマンションも建っていた。
そういうワケで
ボクが働くことになったところは「タナカ書房」といった。
旨い珈琲を入れてくれた雇い主は「田中」さんといって、ようするにこのタナカビルヂングの三代目オーナーだった。それでもこのご時世で単行本は売れないし中心街からは半端に離れているし店子は入らなくなるしで今では「書房」といってもほとんどが「チラシ」や「ポスター」や「パンフ」の制作で細々と、だそうだ。
「固定資産税やビルの維持管理でたいへんなのよ」
「でもたまには自分史を出したい、っていう人なんかがね、いてくれて」
今時はチラシやポスターといったってパソコンとプリンターでちゃちゃっと作れてしまうのだがここの「売り」は素人がちゃちゃっとは作れない玄人の「センス」と編集力だった。
何というか古いヨーロッパの香りというかエキゾチックな雰囲気というか、ようするによくわからないけど上品な感じでそれでいてすっきりとわかりやすい。タナカさんはつまり「デキル文化人」なわけだ。
さてどうしてアルバイトが必要だったかというとファクスは使えるがネットにうとい、いささか高齢な顧客への使い走りのためだった。
タナカ書房はタナカさんのお父さんが始めて昔は歴史や文学なんかの本がよく売れたらしい。
(そして実は何となく言いそびれていたがボクも古いタナカ書房の本を一冊持っていた)

あの、ほら、この前の、おー
町内会のクラシックコンサートね
ポスター見て来ましたっていう、うー若い人がいてね
来てみたらアマチュアでも、ね、生の演奏ってすごくいいです
って喜んでくれてね
来てもらわないことには、あー、始まらないからねー、うんうん
訪ねてきたおじいさんがうれしそうにタナカさんと話している。
(なるほどセンスのいいポスターは人を呼ぶのか)

ボクは離れた机でそのおじいさんが持ってきた原稿と格闘していた。
これを元に町内会の「町内がん検診のご案内」を作成するのだ。
毎年切り貼りして使われていたらしい「町内がん検診のご案内」の用紙に変更やら思いつきやらごちゃごちゃと書き込んであってすごく読みにくい。
まずはその書き込んであることを項目別に書き出して整理してと言われたのだが何年もパソコンしか使っていなかったので手で字を書くのはかなりの苦行だった。

「じゃ、よろしく頼みますね」
と言うおじいさんの声にボクはあわてて立ち上がって頭を下げた。
表まで見送っていたタナカさんが戻ってきて僕の顔を覗き込んだ。
「疲れたーって顔をしてるよ」と言って「にゅいっ」と笑った。
「さあお昼にしよう。お弁当は持ってきたの?」
「あ、買ってきます-」
「いやあのね、お昼は出るからね。」
タナカさんは窓を指さして
「向かいの喫茶店でランチの好きなの頼んで持ってきてね。」
「ボクはランチのBだからね」「できるのを待って持ってきてね。」
「行ったり来たり信号渡らなくていいからね。」
必要なことだけ言ってくれるのですごくわかりやすくてありがたかった。

トレーにBランチを二人前乗せて戻ってくると衝立の向こうでタナカさんが珈琲を入れている横顔が見えた。ランチはボクもBにした。ホットサンドと温野菜サラダだった。飲み物は付いていない。
「タナカさんはつけなくていいことになってるから」と店で言われた。
なるほど珈琲は自分で入れるからなんだ。

「はい、珈琲。これ、向かいの珈琲豆なのよ。」
「いただきます。」と熱い珈琲を一口飲んでからこれも熱々のホットサンドをかじった。中身はごろごろしたポテトサラダにゆで卵とカマンベールチーズで黒コショウが効いていた。おいしいしボリュームもあってこれならバイトとしてはかなり割がいいと思った。
食べながらタナカさんが言った。
「手で書くと、疲れるでしょ?」
ボクは口いっぱいに頬張っていたのであわててうなづいた。
「だけどね」
「手を使うのとパソコンとじゃ頭に届く刺激が違う感じがしない?」
(…そう言われればそんな気がする)
「キミはちゃんと丁寧に書いているね。」
ボクはやっとのことで飲み込んで返事をした。
「あの、字がへたくそですみません」
「ヘタでも丁寧に書けば読める字になるの。だけど汚いと読むのもイヤになるんだよね。」
そうか、ヘタな字と汚い字は違うのか。
何となくうれしかったけどなるべくきれいに書くようにしようと思った。

午後からはボクが四苦八苦して項目ごとに書き出したものをタナカさんが別の紙に並べなおして「ご案内」の形にしていった。
「特に婦人部と書かなくてもいいいから削る、うん」「婦人科検診だけじゃないからこれも削る、うん」「もともと町内会の婦人部で企画した婦人科検診から始まったと言っていたけどもう5年以上前から胃も肺もやっているのに訂正なしできちゃったんだって」「婦人部だから男性は検診受けられないんですか?とか婦人科検診なのにどうして胃や肺も検査するんですか?とか婦人科以外もやるのにどうして大きく婦人科検診って書いてあるんだ!とか言われてきたけど、なかなか書き直す人がいなかったんだって」
などなど言いながら日時、内容、費用、送迎バスのコースと、どんどん書きこんでいく。
(すごいなあ)
「はい、これ持ってさっきの人のところに行って確認取ってきてね。」
「わかりにくいところや抜けはないですかって。」
(う…)
タナカさんはメモ用紙にさらさらと地図を描いた。
「ここの角から二軒目のお宅だから」と小さな四角を塗りつぶした。
「歩いて6、7分だから」
クリップボードに原稿を挟んで黒いショルダーバッグに入れてくれた。
そしてボクは初めてのお宅に一人で行くことになってしまった。

(どうしよう)
(ちゃんとしゃべれるかな)
(でもこれ仕事だから)(がんばらなくちゃ)

ボクはショルダーバッグのベルトを両手で掴んでタナカ書房を出た-

(つづく)


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