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提出日

ボクは地下鉄駅の階段を出口に向かって上がっていた。
見上げると夕方の薄暗い空が見えた。
正月が過ぎたばかりなのに、雪が雨になっていた。
ヘンに暖かい風だ、と思っていると、後ろから階段を駆け上がってくる音がしたので手すりの方に身体を寄せるとすぐに男が息を切らして追い越して行った。階段を上がりながら身体をよじって傘を開こうとしている。
ずいぶん慌てているなあ、と見ていると外に出た瞬間その人が消えた。
(!)
「ゴどしゃ!」と音がした。
急いで出口まで駆け上がると、その人が仰向けにひっくり返っていた。
左腕で自分の胸を押さえていて、伸びた右腕のそばに半開きの傘が落ちている。「大丈夫ですか!」と駆け寄ってしゃがみ込んだけど、これは全然大丈夫じゃない。その人は目をぎゅっと閉じて歯を食いしばったまま浅い呼吸をしている。
えと、えと、こういう時は、119番だ!
ボクはしゃがんだまま急いでスマホを出そうとしたけど、なかなか出てこない。焦ってたら、すぐ横で「けが人です」と言う声が。
振り仰ぐとスマホを手に普通な感じでここの住所を伝えている女性がいた。
女性は通話を終えると「すみません私仕事があるので」と急ぎ足で行ってしまった。気が付くと周りを囲んでいた他の人たちも何となくいなくなっていた。取り残されたボクは、雨の中動けなくなった人をどうにかしなくちゃと
あ、そうだ、せめて頭の下に何か入れないと、髪がびしょびしょだよ。
駅を出てすぐの地面は、凍ったところに雨が降って、ツルツル路面になっていた。氷の上に水がかかると滑りやすいなんてもんじゃない。
摩擦係数が限りなく0に近くなって、滑ったと思う前にもう転んでいるのだ。
ボクは自分のショルダーバッグを下ろしてそうっとその人の頭を持ち上げて下に差し入れ、とりあえずの枕にした。それから、せめて顔には雨がかからないようにと思って、落ちていたその人の半開きの傘を拾ってきちんと開いてその人の顔の上に差しかけて
「もうすぐ救急車が来ますからね!」と呼びかけたが今度はその人の身体がガクガク震えだした。
やばいよやばいよ・・・と、ボクの身体も震えだした。
雨傘に雨がぷちぷちと音を立てている。
そばにしゃがんで救急車が来るのを待っていると、その人がしきりに左手で自分の胸を叩いているのに気が付いた。見ると、コートのふところにビニール袋に入れた何かがあって、それをコートの上から左腕で抱えるようにしている。
「うっ、うっ」と喰いしばった歯の間からうなり声がもれる。
何か言いたいんだ。
「これですか?」とボクが抱えているものに触るとその人は「うっうっ」とうなづいた。
腕の力を緩めてくれたので取り出すと、黒い固い表紙で綴じてある厚さ3センチほどの・・・あ、これは!
ボクの胸が後悔と切なさで音を立てた。
ボクは今日が1月最初の金曜日なのを思い出した。今日は修士論文の提出期限だ。この人は修士論文を出しに来て大学を目の前に動けなくなってしまったんだ。
ボクはようやくスマホを引っ張り出して時間を見た。4時40分。
提出期限まであと20分だ。ビニール袋にくるまれた論文の表紙を見ると「文学部」の文字が。もう目の前は大学だけど、門を入ってからが結構長い。
「大丈夫ですよ!ボクが論文を出してきます!」
その時、サイレンが聞こえた。
早く、早く来て・・・!
救急車が見えて、ボクは立ち上がって大きく両手を振った。

救急隊員に早口で事情を伝えながらボクはとにかく論文を届けなくちゃと思った。もう4時50分を過ぎてしまっている。
ここから文学部の教務課まで歩いて10分だから、これはもう走るしかない。
ボクはパーカーのフードを前に引っ張ると、論文の入ったビニール袋を左腕に抱え、右手でバランスをとりながら不器用に走り出した。

転んだらオシマイだ、転んだらオシマイだ、修了が一年遅れてしまう。

信号を渡って、門を通り抜けて、人影まばらな大学構内を及び腰で走ると靴の下で雪がぐしゃぐしゃ飛び散って、パーカーのフードから顔に大きな水滴が飛んだ。
守衛所横の重い扉を「うんっ!」と開いて文学部の建物の中に走り込むとボクの足音が廊下に大きく響く。
教務課は目の前だ!
5時1分前!
間に合った!
ボクは息を切らしながら丁寧にビニール袋を外して、黒い紐で綴じられた黒くて固い厚紙のみっしりした修士論文を受け付けの小窓の中に差し出した。
「これを、お願い、します」
「はい、ご苦労様でした」
教務課の人は受けとった論文の名前を確認して名簿にチェックを入れた。

ボクは教務課の窓口を離れると
廊下を横に折れてすぐ脇にある休憩コーナーの椅子にへたり込んだ。ちょっと、休まないと、ノドが乾いて、くっつきそうで、胸が、苦し…
座るとすぐに汗が冷えてきた。
目の前に自販機があったので熱いコーヒーが飲みたくなって、さて財布を
と思ったところで
ショルダーバッグを「現場」に置いてきてしまったことに気が付いた。
財布はバッグの中じゃないかよー・・・。
慌てていたボクはバッグを男性の枕にしたままで論文を抱えて走り出したのだった。
ヤバい・・・情けないというか・・・アホというか・・・
あ、でも、そうだ!と思いついて
デニムのコインポケットを探ると固い手ごたえがあった。
きっちりとハマったコインを力づくで引きだすと、鈍く曇った500円玉が出てきた。これは母さんに言われて入れておいたんだ。
大学に入った頃だった。

コインポケットっていうのはコインを入れておくためについているんだよ
いざと言う時に500円あればずいぶん助かるよ

そのまんま忘れてた。何年も、何度も洗濯したのに落ちなかったんだ・・・
不意に喉の奥が熱くなった。
ボクはコインを自販機に入れて「温かい」缶コーヒーを買った。
缶が転がり落ちる大きな音が響き、手に取るとその熱さがありがたかった。
プルタブを引いて、少しずつコーヒーをすすっていると
階段の上から「どどどどど」と足音が響いてきた。
見ると、セーターにサンダル履きの男性が走り抜けて視界から消えて  「黒い表紙」を両手で持って前に突きだした格好が網膜に残り
すぐにせわしくガラス窓を叩く音が廊下に響く。
(さっきのボクもこんな感じだったんだろうな)

時計を見ると5時5分になっていた。
でも、教務課の時計は5分くらい遅れているんじゃないかな、と思う。


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