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なぜニヒリズムに陥ってしまうのか–ニヒリストの特性について

ニヒリズム(虚無主義)とは「物事の意義や目的といったものは存在しない、自分自身の存在を含めて全てが無価値だ」とする考え方や態度のこと。

絶対的な価値観が喪失し、社会全体を貫く新たな価値観を見いだせていない閉塞感漂う現代の日本においては陥りやすい考え方と言えるかもしれない。


しかし、もはやわたしたちは人生を生きるうえで神の存在を必要としていない。現代人は、神がいないからといって「ニヒリズム」に陥ったりもしない。この世界は人間の世界であり、人生を良くするも悪くするも生まれ持った遺伝的資質と人間の努力と運にかかっている。
また、ある程度勘のいい人ならば自分の人生に真の意味を求めたりもせず、人生や信仰対象を自ら選択し、自己形成するしかないのを知っている。もはやニーチェのいう「ニヒリズム」でさえ、不要な時代に生きているのだ。

という風にするととむしろこの現代社会に適応して生きてるまさに”健全”に見える人間こそが「真のニヒリスト」ではないかとも考えれるだろうが、今回は、常人の抱いている以上のニヒリズムを抱いている人間にスポットを当ててみよう。これをニヒリストと呼ぶことにする。平生「一切皆無!」と口に出して唱えている奴もそうはおるまいから、ニヒルさは雰囲気で感じ取るしかない。では、真のニヒリストの醸し出す雰囲気とは、いったいいかなるものなのか。

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ニヒリズムとは虚無と訳される。
虚無とは何か。それをわかりやすく言えば、人間らしい感情から遠く離れて懸隔しまったところに置かれた自我の境涯と言うところだろう。

こういったニヒリズムの初期の概念を生み出したのはキルケゴールだが、それを現代的な概念にして広めたのはお馴染みのニーチェ先生だ。

ニーチェの生きた19世紀は、哲学史では価値観の大転換期と評されていて、
その背景は、18世紀以降イギリスで始まった産業革命による個人主義、自由主義の浸透により、神を中心とした価値観が徐々に崩れていってしまった時代だ。

マックス・ウェーバーが、これ を「世界の脱魔術化」という言葉で語っていて、どういうことかというと、合理化というのは、魔法の力で世界や人間を美しく変えるとか、そういうことを人々が信じて生きるという状態がしだいになくなっていくことだと。誰もが合理的に物事を考え処理するようになり、社会も合理的に組織されるようになると、それによって社会は神だとか迷信だとかいったことがらから解放されてゆくわけだが、これには裏があって、魔術がきかなくなってしまうと、世界はまったく魅惑のない、味も素っ気もない世界になってしまうということ。彼はこれを「世界の脱魔術化」と呼んでいる。

この、社会的変化を鋭敏に感じ取ったのが、いわゆる19世紀リアリズム文学の作家たちで、例えば、ドストエフスキーが描こうとしているのは、神なき時代に善き意志をもって生きようとする人間の姿だ。 

神を信じることができるならば信仰に生きればいい。国家や共同体を信じることができれば、世のため人のため社会のために生きればいい。しかし神も、社会も信頼できない人間が、善き意志をもって生きようとすれば、時として周囲の共同体の枠をはずれ、未知の領域に踏み出していかなければならない。 それは世間の常識や、道徳や、法律で規制された領域から逸脱することを意味する。主人公のラスコーリニコフは、殺人を犯すことで、その領域の境界線を踏み越えてしまった。 

罪の意識もなく良心の呵責もない。彼は神を認めない。共同体も認めない。他人に同情することもない。だがその反動で、生きる意味を見失っている。 これは重要なことだ。自分の外部にあって自分を拘束する、神のような絶対者を失った人間は、生きていくことに飽きてしまう。ドストエフスキーは明らかに、来るべき二十世紀後の社会を先取りし、警告を発している。

ニヒリズムとロマンチシズム

おそらくは、「一切皆無」の境地に達することができれば強く生きられることのだろうと思う。それは、ニーチェの言う超人だろう。しかし、なかなかその境地に達するのは難しい。なぜならニヒリストは元来ロマンチストだからだ。ニヒリズムは幻滅という言葉で表現されることがある。現実に幻滅するということは、その前段階として現実に幻想を抱いている必要がある。つまりロマンチシズムが幻滅してしまったのが二ヒリズムといっていいだろう。

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『サピエンス全史』で語られたように、アタマで“虚構”を生み出せるのはホモ・サピエンス特有の能力とされている。

ヒトの世界には架空の現実(漫画、小説、ドラマ、映画)がたくさん存在しており、それらは作者によって実際のものとは大きく歪められている。だが、ヒトは事実と虚構について、コトバ上(理性、タテマエ)では判別できるものの、脳の仕組み上、実感として判別する事はできない。

ゆえにヒトは存在しない概念や現実を、“実際に存在するもの”として自分の中に蓄積し無意識のうちに信仰してしまう。

愛はその最もたるものだろう。

──愛とは“思いこみ”であって、その“思い込み”によって思い込まされたもので合って、それはペテンである。「すべての結婚は詐欺」  

全くその通りである。“魔法”が使えるのは、そこに“魔法”が働いているように見えるのは、虚構の世界にいるからで、その幻からいつか醒めたとき、それはただの“勘違い”になってしまう。そのいつかのタネ明かしすら飲み込んで、とにかくいま、目の前で繰り広げられているイリュージョンに、全力で興じること。忘れること、頭から消すこと──みずからの脳みそに、みずから仕掛ける壮大なペテン。 だから、ほんとうの嘘つきにしか、ほんとうに人を愛することは出来ない。

そしてそのことが、いま現在の自分のアイデンティティのすべてを構成するものであるとしたら──?


この概念や構造を、みずから、体験し、認識し、実感してしまうと、今度は別のが問題が顔を出す。ニヒリズム(Nihilismus)である。

これまでの自分、これまでの人生、それらが全部「仮象」だったと “気付いて” しまったことで、「世界のすべても無価値である」という “虚無の認識” に繋がってしまう。 

自分が「価値がある」と思って人生で拾い集めてきたものの全てが仮象だった、いや、「大切だ・価値がある」という自らの価値観自体がもはや偽物だった、自ら吐いた嘘であり、自らの思考の全てが蜃気楼だった・・・・となると、人間は”信じる”という行為ができなくなってしまう。

しかし、そのロマンチスト的傾向はニヒリズムに出会っても劇的に変化するということはないだろう。恐らく健全な精神の持ち主なら早々に新しい依存対象を見つけ、前あった価値観を否定しつつ新しい価値観に飛びつくことができるのだか、それに上手く適応できない場合は、すべての確かさを否定することだけが唯一の確かさだと思い、ニヒリズムそのものを絶対視してしまうのである。これでは「一切皆無」の境地には程遠い。ニヒリストとは、ニヒリズムを目指しながらも、一向にニヒリズムにたどりつけない存在なのかもしれない。 

人間を冷笑にバカにしつつ、一方でその可能性を信じてしまう。困ったことに、彼らはある種ロマンチストであるがゆえにニヒリズムから脱け出せないのだ。人間や人生をこよなく愛し、その可能性を信じていた。だから彼らは、人間に絶望と可能性の両方を発見し、そのあいだに引き裂かれ苦悩するのである。

芥川龍之介に悲劇があるとすれば、都市の近代的知識人としての孤独にあるのではない。都市下層庶民の共同幻想への回帰の願望を、自死によって拒絶し、拒絶することによって一切の幻想からの解放を求めた点にあるのだ。 一方で「母胎」への回帰を果たし、個人と集団を調和できた人、無意識に根ざした人間の夢を信じることができた人、それが柳田国男であった。彼は神経質な死へのいらだちや不安、そういう体験とは無縁だった。死へのイメージも芥川のそれとはまったく違ったものとなる。ー吉本前掲書-八九〜九〇






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