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エッセイ:誰のせいでも


真夜中、ラーメン屋にむかう道すがら罪悪感について考える。



Nothing's gonna change my world
Nothing's gonna change my world

『Across The Universe』The Beatles



望んでうまれたわけではない。
と気づいたときにはもう、どうにもならない事ばかりで、苦しみにまみれている。
今ここに、苦しみとともに有らしめているのは、このどうにもならない宿命と、いずれ死ぬべきものとして生きて有るということ。

始まりも、この先のこともわからないままに時が流れていくのは、
だれのせいでもない。
望んでうまれた者などない。
私が悪いのでもなければ、私が選べるわけでも、変えられるものでもない。
だから宿命である。

宿命は、どうにもならない事は、罪ではない。
罰でもない。
したがって赦しもない。
赦しを請うことではないのに、これが苦となり、苛むのだとしたら知るべきである。
苦しみの因は、赦しを得られぬことではない。
赦しなど無いのに、赦しを求める錯誤にある。
赦す者など無い。
裁く者も無い。
宿命とは、肯定さるべきものである。



生まれつきという、どうにもならない事はだれにでもありますが、世の中が画一化していけば「正しさ」も画一化していき、多様性が名ばかりでは、零れ落ちる人は増える一方でしょう。
同じ絵を観ても感じ方は人それぞれ。
夜中に空腹をおぼえてとる行動も然り。
人それぞれである。
これが自明でない罪と罰の世界では、正しさは己のうちにではなく外に求められるものとなる。あたかも免罪符のように、それを与えるのは強者でありますが、強者とは絶対ではない。ゆえに正しさもまた移ろうもの。無常である。

赦せる者など無い、
このことは自由という気づきを与える。
自由とは、だれのせいでもないという気づきである。

望んでうまれる者はない。
気づいたときには生きて有り、時は流れる、いずれ死ぬ。
それでも明滅をくりかえし、この世界はつづいていくらしい。


つまり、夜中のラーメンとは自由の証である。