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エッセイ:時は金なり(嘘)


平日の昼ひなか、地下鉄駅プラットフォームで女性が部下とおぼしき若い男性をおおきな声で威圧し、叱りつけている。
人前で叱るのも憚られる昨今、衆人環視のなかでであり、われを忘れているのか。
はぁあ? だから? それで?
と相手の説明を頭ごなしに否定する。怒りの発散はときに心地いい。
が、上司であれなんであれビジネスでご立腹など一円の得にもならない、どころか損である。若いほうからすれば時間のむだであろう。
と、こんなことを考えるのもまた、時間のむだかも知れない。
以下、功利主義について少々。


Well, time is money
And money is no man's friend

『Rae Street』Courtney Barnett



ひとは環境を内面化することで価値観をはぐくむものですが、もとい、価値観を最適化するとでもいったほうが、資本主義社会においては適切かも知れません。封建時代の武家であれば忠孝という人間関係が価値観であり倫理観でもあったでしょうが、現代にいきる私たちにとっての倫理を功利主義にもとめるとすれば、価値(倫理的正しさ)とは効用の最大化であり、時間・費用対効果、すなわち生産性という、人の外部にある計量可能な概念が倫理的な判断基準ものさしとなる。
功利主義とは、影響を受けるすべての個人の幸福を最大化する行為を指令する規範倫理学の理論」とのことですが、功利主義における正義を論じる思考実験として、しばしば引き合いにだされるのがトロッコ問題です。



トロッコ問題


 線路を走っていたトロッコが制御不能になった。このままでは、前方の作業員5人が轢き殺されてしまう。
 この時、たまたまAは線路の分岐器のすぐ側にいた。Aがトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもBが1人で作業しており、5人の代わりにBがトロッコに轢かれて確実に死ぬ。Aはトロッコを別路線に引き込むべきか?

Wikipedia



トロッコ問題における功利主義的観点では、五人の生命のためなら一人の犠牲を選ぶのが効用の最大化となります。ひとはただの計量可能な記号であり、一よりも五のほうが多いから五人を助けるのが正しい。
であるのなら、少数派の声はかき消されることになりますし、トロッコ問題には六人全員が助かるという発想がそもそもない。この考えかたは優生思想の根ともなりえます。



計量可能なひと

すこし前、高齢者は集団自決しろといった経済学者がありましたが、同根でしょう。喩えとして集団自決といったのかも知れませんが、無神経にすぎる。
六十五年、七十五年生きたからといって望んでもいない自殺を強要するのであれば、ホロコーストと変わらないのですが、そんなことは気にもかけず、支持する向きもあるらしい。やまゆり園の事件のときも犯人に賛同する声がありましたが、ひとを人とも思わぬ世を象徴しているといっていいでしょう。
社会保障費や年金のことはお金で解決する問題であり、経済学者であればみなが豊かになる(と当然税収も増える)政策を提言すべきですが、長引く停滞で思考停止しているのでしょうか。パイはかぎられている、ゆえに生産性のないものは斬り捨てよと。
生産性というものさしでひとを斬り捨てる、疎外にほかなりません。
ひととは現に今、生きて有るものであります。



疎外ということ

個人主義が個人の視点から世をとらえる立場であるとすると、資本主義は資本家の視点からの立場となりますが、資本家にとってひとの価値とは生産性によって計られるもの。
時は金なりといいますが、ひとはたとえば生涯賃金でその価値を計られるものではありません。時間もひとも金のように計量できるというのは錯誤であるというのが本稿の立場であります。
コスパ、タイパとやたらにやかましい世にあって、「この私」の疎外とは人の外部にある計量可能な「時間」というものさしに、現に今生き、そして死につつある己の持続という唯一無二の時間を差し替えるということでありましょう。




常なるもの

時間とは持続であり、生存とはこの私の持続であり、時の流れという現象として今ここに生きて有るということです。時間は計量できるものではありません。
人生百年時代などというようですが、だれがこの百年を計測しうるでしょうか。百年生きたのち、ストップウォッチを見せられ誕生の瞬間から計っていたと聞いたとしても、認識できるのはつねにうつろうストップウォッチの数字のならびと、ここに生きて有るという今だけであります。
これまで生きてきた時間が飴の様に延びてあるわけもなく、ひとには今しかない。
つねに今である。
百年生きようが五十年生きようが、十年生きようが、高齢者であれ幼児であれ、ひとにはそれぞれの今しかない。地下鉄駅で人目も憚らず怒れる女性さながらに、今感じていることがそのひとのすべてであります。
ビジネスの語源は busy であるといいますが、忙しさにかまけて、誰もが唯一無二の今を生きていることを、私たちは忘れてしまったらしい。


現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

『無常という事』小林秀雄





時は金なりは嘘であり
時は今なり
今は常なり