無我の果てに
ひとは誰しも一人では生きてはいけぬ、
とは当たり前ですが、
正確には、
一人では生きてはおらぬというべきではないでしょうか。
以下無我について。
お付き合い頂ければ幸いです。
津波で行方不明となっていた娘から手紙がとどいたとき、宛名書きを一瞥し、直筆のものであることを見て取った父親は、刹那であれ、もう亡きものと死亡届も出していた娘の生存を信じただろうか。
というのはその十年前、娘が旅先で訪れたテーマパークにて認めた未来への手紙が、行方不明の三年後に両親のもとへ届いたという新聞記事を基にした、想像である。
想いの中にひとは有る。
有るとは、
誰かの中に有るということ。
すべては、
他者との関係性の中に、仮に有る。
あなたが見、
聴き、
嗅ぎ、
味わい、
触れ感ずるもの、
想う対象はみんな他者であり、
他者に触れるとき、私というものが仮定される。
(私の眼、耳、鼻、舌、皮膚が、
私ではないやうに、
私の髪、臓器、肉、血液、
私の思惟さえも私ではないやうに、
私とはあらゆる透明な幽霊の複合体)
あなたを見、
触れ、
感じ、
思惟する主体として他者があり、
他者の中に、
あるひとつのまとまった像として、
私というものが仮定される。
他者なくしては、何もない。
この世界には他者しかいない。
(もしあなたに触れるのが、
あなたという像を結ぶのが、
あなた自身であったならば、
あなた自身もまた他者である)
今、
ここに、
ひとつの仮象として有るという果。
他者とはその因であり、
すべての因である。
(私といふ現象は、
他者と触れ、
あるいは離れることにより、
せはしく明滅する、
因果交流電燈)
因果という他者との関係性において、
我他彼此溶け合い、
みんな有る。
(あなたが私を象るやうに、
私があなたを象るやうに)
生存とは、
互いに溶け合い、
その中に今、有るということ。
そのようにしかあり得ぬ、
ひとりで生きている者はない。
私などない。
誰かの中に、
みんな有る。
無我の果てに溶けて有る。
(すべてが私の中のみんなであるやうに、
みんなの各々の中のすべてですから)
お読みいただきありがとうございました。