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エッセイ:国をかえるもの


日本人女性カップルがカナダで難民認定されたという記事〈🔗〉を読みまして、同性愛者という理由で日本では迫害されたとか。迫害という表現は穏やかではありませんが、渡航したのはこの国に見切りをつけたということでしょう。
「ニッポンオワコン」という言説も、実際に海外へ出稼ぎにいく「ニッポン離れ」ももはや珍しくない。
ここではないどこかへ。
ひとは自由を求める。


鉄砲も兵隊も
政治家さえもいらないよ
君たちが望むのは
自由だけでいいよ

『ブルーハーツより愛をこめて』
ザ・ブルーハーツ



自由とは、文脈によりますのでいちがいにはいえませんが、一般的には抑圧からの解放といえばおおむね首肯されることでしょう。上述の日本人女性の文脈でいえばマイノリティに不寛容なこの国の社会からの解放であり、海外へ出稼ぎにいくひとでいえば低賃金労働からの解放でありますが、根因たる「抑圧」は置き去りにされたままであることをかんがみるに、自由とは逃走であるともいえましょう。闘争によって勝ちとるのではない、さりとて批判したいわけではありません。


福田恆存は、自由とは全体のなかにあって適切な位置をしめる能力であるといいます。だれしも自由を求めているのだとすれば、沈みかかっている船から余力のあるひとが脱出をこころみるのは当然のことであるといえます。この国に魅力がなければべつの国へ行けばいい、そういう時代といったらそれまでですが、このようなマインドも昨今のニッポンの体たらくからすれば致しかたありますまい。
「新自由主義からの脱却」とのたまった御仁がありましたが、空論でしかなく、「自助、共助、公助、そして絆」などといえども、自己責任論はいまだ根づよい。政治には期待できないので、国を変えるのではなく、国を替えればいいという発想がでてくるのも当然でありますが、国を変えるものとは、はたして何でありましょうか。





国のありかたを変えるものとしてしばしば指摘されるのが「外圧」ということでありますが、外部からの圧力、すなわち外来の文化文明のことでありまして、黒船といえばわかりやすいでしょう。


この国には「黒船」がいくたびもやってきたのは皆様ご承知のとおりです。鉄、稲、漢字、儒教、仏教、律令、茶、元寇、鉄砲、宣教師と枚挙にいとまがない。これら外来の文物と日本人は上手に向きあい、独自のやりかたで取りいれてきたとはよくいわれることですが、「上手に」とはあくまでも日本が「主」であり、外来の文物が「従」である関係性といたしますと、グローバリズムの席巻するこんにち、カーボンニュートラル、GX、LGBTQなどと列挙せずとも、戦後ニッポンはあきらかに異質であるといわざるをえません。「主」がないのです。


冗長になるのでくだくだとは申しませんが、八十年の長きにわたり外国の軍隊が駐留しつづけ、自国の「軍隊」を憲法で明確に否定しつづけているだけでなく、経済、食料、エネルギーといったもろもろの安全保障の問題においても、この国が主導権をにぎっていると考えるひとは皆無でしょう。国を変えるためにはまず「主」を取り戻さねばならぬ。それもまた自由ということであります。


自らに由ってあるということ。これは全体という他者との関係性のなかにあって、唯一無二の己の位置を見さだめることであります。だれしも他者との関係性のうちにあり、他者と己との関係性を知ることでしか己を変えることは叶いません。知るとは、己が変わることである。己を変えるには自らに由ってあらねばならず、そのうえで他者と「上手に」向き合うということに尽きるのではないでしょうか。


以上、海外に脱出する「余力」などなくこの国に骨をうずめるほかない立場から、しまりのないことを書いてまいりました。お読みくださりありがとうございました。
ひとによっては、自由が逃走であってもいいはずです。しかし逃げられぬとあっては向き合うよりほかはない、戦うことであるやもしれません。どれいではなく、この国で暮らすひとりの人間として自由でありたいのであれば。


人間として在るためには、自分の位置を発見しなければならない。そこに居合わせる人たちとの関係を明確に意識して、あるいは無意識のうちに感じとってこそ、自分ははじめて存在するのです。

『教養について』
福田恆存






ここではないどこかとは、夢みる場所

どこへ行こうが畢竟、、、、、、、、、
己の今ある場所がここである、、、、、、、、、、、、、