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エッセイ:ホワイト社会? Paint It, Black


動画『コロナ戦争とホワイト革命』

評論家の岡田斗司夫氏は現代社会をホワイト社会と呼びます。ホワイト社会では、美しいは正しく、汚いは悪であると。不倫も不潔も不快な言動もいけない、「いい」人と思われるように振る舞うのがホワイト社会においては生存戦略として正しいという。今だけの話ではなく、過去の発言も「いい」か「悪い」かの判断材料となる。だからネガティブな発言やそういった呟きのリツイートやらは今すぐに削除した方がいいと氏は提案します。
キャンセルカルチャー、例えば東京五輪の開会式に携わった某ミュージシャンの過去のいじめ自慢は記憶に新しいですね。岡田氏によればこれからは、汚いものの中にこそ真実があると思い込んでいる昭和・平成世代から、美しいは正しいとする令和世代へと価値観は移行していき、さらにAIが発達し、「悪い」人間は社会から排除、淘汰されていくのだそうです。
芸能界の下半身のスキャンダルを想起するまでもなく、実感できる話かと思います。岡田氏の提起は処世術としては意義があるでしょう。しかしどうにもモヤモヤするので吐き出して参ります。お付き合い頂ければ幸いです。


二元論

美しいは正しい、汚いは悪って単純過ぎませんでしょうか。確かに風潮としてはそうだなとも思うのですが、違和感の原因は快不快と善悪との混同ではないでしょうか。
ルッキズムにも触れておりましたが、見栄えが「いい」か「悪い」かを判断する基準と、戦争は「いい」か「悪い」かを判断する基準は同じではあり得ません。戦争の見栄えを判断するのであれば話は別ですが、政治の決断と個人の判断は別物であります。
何かについての批判、言動、その他、あらゆる行為の良し悪しを個人は必ずしも善悪で判断しているわけではありません。善悪の判断はむしろ稀でしょう。
岡田氏はダウンタウン松本人志氏と女子高生とのやり取りを引いております。いわく、

松本氏「俺が不倫したらどう思う」
女子高生「きしょ(気色悪い)」

気色が悪いとは多分に感覚的で、つまり恣意的な反応ですが、判断が感覚的なのは現代人の特徴という意図があっての引用かも知れません。例えば「ヤバイ」という言葉には汎用性があるといえますが、この汎用性とは恣意的に使えるという意味です。宝くじに当選しても「ヤバイ」ですし、クマに襲われても「ヤバイ」し、美味しい物を食べても「ヤバイ」、お腹を壊してもやっぱり「ヤバイ」です。それでも通じてしまうという、空気でしょうか。山本七平が臨在感的把握ということをいっておりましたが、ものや言葉に何かが宿るという。エンガチョってご存知でしょうか。不倫を気色悪いという心情と似ていると思います。
正しい、悪い。善悪というものは単純な二元論で語り得るものではなく、時と場所に依って移ろうのだと筆者は考えますが、諸行無常と言ってみたところで出家でもしない限り、ホワイト社会にあっては生存戦略の意味をなさない。しかし環境という観点からすると、ホワイト社会だけを語るのは片手落ちです。


インフラとスープラ

インフラ(下部構造)とは道路や電気や水道などのライフライン、光ケーブルといった生活の基盤で、スープラ(上部構造)はごく簡単にいえば生活ですが、岡田氏の「ホワイト社会」にはインフラへの言及がなく、自明となっているのだとしたら疑義を挟まざるを得ません。一昨日の積雪で首都圏では一部停電がありましたし、数年前北海道ではブラックアウトが起こりましたね。エネルギーを自前で賄えず、国民に節電をお願いするような、脆弱な国です。武装アレルギーに加えて、核兵器を持つ複数の隣国は独裁国家であります。冗長になるのでもう止めますが、ホワイト社会での生存戦略も結構だが、この国の生存戦略も考えないと。

エネルギー? 自然のやつで。
公共事業? だっせ。
戦争? キモ。

快か不快かの判断ではあかんのです。インフラは中長期的に考えなければなりませんし、安全保障は相手があることですので、やられないようにするべきですが、「ホワイト社会」には平和主義的(戦争や危機の可能性を考えない)な、リベラルな価値観しかない。不快な現実を見ずに心地よい綺麗事を語り、他者への眼差しがありません。いくらキモくてもミサイルは飛んできます。


リベラルと保守

ホワイト社会とは、美しいもの、清潔なものが正しく、醜く汚れたものは悪として排除するという潔癖社会ですね。いわゆるポリコレ、政治的に正しいとされる言動が、政治という文脈(公の立場)を離れ、個人にも求められるのがホワイト社会であるともいえるのではないでしょうか。
ポリコレは確かに立場の弱い者を救う契機となるでしょうが、人とは他者との関係性において有るので、正義はやはり相対的であると捉えるべきだと思います。アメリカのリベラルと保守との分断は行き過ぎたリベラリズムを因とする果でありましょうが、言挙げしない日本人の間では分断ではなく、「悪い」人は機械的に排除されていくような気が致します。Xのミュート機能のように、あるいは戦後すぐに教科書を黒く塗りつぶしたように。しかし「悪い」他者は排除すればいいという考えはいずれ反動を生むでしょう。暴力団を社会から排除しても半グレなる輩が蔓延るように。


そろそろまとめろよ

既に延べましたが、ホワイト社会では「いい」人だと思わせるのが生存戦略として正しいと岡田氏は言います。言い換えると、「いい」人になる必要はないのです。
「いい」人の振りをすればいいわけですが、零れ落ちる人は必ずいるので、この社会に必要なのは受け皿です。
最後までお読み頂きましてありがとうございました。

(追記)
ホワイト革命と聞いて、文化大革命を想起しました。ファッショは人に安心を与える。
そうして人をものを考えない馬鹿にする。
「悪い」人と認定されたら、出家でもしようかなあ。
あ、あとこんなホワイト社会に批判的な記事には、スキは押さないでくださいね。認定されてしまいます。どうかくれぐれも。