さよなら、すべてのエヴァンゲリオン

観劇1回目の雑感です。ネタバレを大いに含み、個人の感想である事をご了承ください。

なんだ?このポスターは。

ずっと楽しみにしていました。これからどうなるのか、どういう結末を迎えるのか。果たして監督はこの大きな大きな風呂敷をどうやって畳もうというのか。

先に公開されたポスターの中で『さよなら、すべてのエヴァンゲリオン』この一文とともに、子供たちは空を見上げています。白い砂浜と蒼い海と共に。

私がなんだ?と言ったのはその一言もさることながら白波立つ海についてですね。

ニアサードインパクト以後失われたと思われるものがそこに存在している違和感ですね。世界は少なくとも青い色を取り戻すのか。というのがこのポスターを見た時の感想でした。そして意味深な一言。

見た後だから言えることですが、この意味を私なりに解釈して述べるなら

『卒業』という言葉が適当かと思います。

シン・本編において、碇シンジという少年は失われた14年を少しずつ取り戻していきます。失われたというか、彼だけが取り残された14年を。

すごくシンプルに捉えるなら大人になり損ねた少年が、青年、そして大人へとなるまでの物語であったと思います。この『大人になる』という行為ですが、私個人は「何かや誰かを喪う事を認める向き合う」というものだと認識しています。

旧劇、シン・までの劇場版3作品を通して、少年は喪う事に怯えまた失ったものの方ばかりを見つめ続けます。

「もう何もしたくない、何も聞きたくない、誰も失いたくない」

旧劇でもそうですが、彼が望んでいたのはいつも『変わらない』という選択でした。でも人はいつか、変わらなければいけない。

さて、彼はシン・でのたくさんの大人たちとの対話、そして生き方を通してひとつの答えに辿り着きます。そして、それを突きつける相手こそが誰でない碇ゲンドウという男です。

私がこの作品を通して、もう1人大人になり切ることが出来ずに取り残された人物がいるなぁと思ったのが碇ゲンドウという人でした。

彼の目的は全ての作品通してついに最期まで変わる事はありませんでした。「もう一度会いたい」ただ、そのちっぽけな気持ちだけを胸に世界を巻き込み運命を欺き、神さえ殺そうとしたわけです。まるで母親を探し回る子供のように、碇ユイという自分にとって絶対的な存在を失った悲しみをユイのいない世界を、否定し続けて生きてきた彼が、初めて自分の息子に目を向けます。

この親子としての対話を、庵野監督は描きたかったのでは?と私は思います。親子という体ではありますがある種、自己との対話でもあるようです。

この時になってようやく、碇ゲンドウというひとりの少年が人の親になれたのではないか。

随分と長くなってしまいましたが、先に私が『卒業』という言葉を選んだのは語弊を顧みずに言うなら母親からの卒業、別離だと感じたからです。碇ゲンドウにとってのユイ、シンジにとってはずっと不在だったもっと抽象的な母親という存在、アスカにとってのママもそうかもしれません。

余談ですが、エヴァンゲリオン。EVA

あまりにも有名すぎるというか、本当に今更ですがイブ。原初の母なる存在ですね。母親という絶対的な存在から、色々な形で巣立っていく子どもたちという印象を強く受けた作品でした。

この作品には、たくさんの母親たちが出てきますね。ユイにはじまり、ミサト、ヒカリもそうでした。母はただ無垢に、子のゆく明るい未来だけを願っていました。

「お母さん、これしかあなたに出来なかった」

誰にも聞かれることのない台詞に全てが詰まっている気がします。

大人になる事を選んだシンジにも、一足先に大人になるしかなかったアスカやトウジ、ケンスケにももうエヴァンゲリオンは「要らない」

産み落とされ、庇護される存在から生み出し、育む側へ。

大人になるという選択自体がエヴァンゲリオンとの別れを意味するのでしょうか。

碇シンジ、彼は最後には『変わること、変わっていくこと』を望みました。それがたとえ出会いと別れを繰り返す世界だとしても。

あの頃から、大人になるしかなかった

全ての子供だった大人たちへの鎮魂歌とでも言ってお茶を濁しておきましょうか。

全ては私が、個人的にひと息に感じた事をざっと吐き出したに過ぎません。書きたかったので書きました。

まだ全然書き足りませんが、今日はここまで。

読んでくださった奇特な方はありがとうございました。是非、あなたの感想も聞かせてください。

またまた余談ですが、シンジとくっついた(?)のがマリであるというのも中々粋な計らいですね。

イスカリオテのマリア、聖書に出てくるキリストの復活の生き証人です。興味のある方は是非ご自分で調べてみてください。面白いので。それではまたの機会に。

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