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當麻寺、小宇宙を旅して

當麻寺は612年、聖徳太子の弟・麻呂子親王によって創建された。681年に孫の當麻国見が現在の場所に遷造し、豪族當麻氏の氏寺となった。現存する天平建築で、東・西に二基の三重塔が残っているのはここだけである。金堂・講堂は鎌倉時代の再建だが、白鳳(奈良時代)建築を今に伝える重要な建造物だ。

「當麻寺は中将姫の伝説が残っているんや」
車の中で母が教えてくれた。でも“中将姫”って言われても、ほとんど人はピンとこないと思う。わたしもこの日まで中将姫を知らなかった。幼少期に當麻寺に来た記憶はあるので、名前ぐらいは聞いたことはあったかもしれない。しかし忘却の彼方である。

中将姫は、當麻寺に残る「當麻曼陀羅」(国宝)を作ったとされる人物である。悲劇のヒロインで、数々の物語の題材に取り上げられた。能や歌舞伎、浄瑠璃の演目にもなっている。中将姫の伝説は、要約すると以下のような感じだ。

藤原鎌足の曽孫、藤原豊成には中将姫という美しい娘がいた。中将姫は幼いころに実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。継母から執拗ないじめを受けた中将姫は、無実の罪で豊成の従者に殺されかける。しかし、極楽往生を願い一心に読経する姫に、従者は刀を振り下ろすことができなかった。山の中に置き去りされた中将姫は、父・豊成との再会を果たす。その後、都に戻った中将姫は當麻寺で出家した。彼女が五色の蓮糸を用いて一夜にして織り上げたのが「当麻曼荼羅」である。蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染まったと伝えられる。中将姫は29歳で阿弥陀仏と二十五菩薩に迎えられ、西方極楽浄土へ旅立った。

當麻寺の本尊は、「当麻曼荼羅」である。山門(東大門)から入って正面に見えるのが、「曼荼羅堂」だ。当麻曼荼羅が祀られている建物である。

曼荼羅堂の左右には、金堂と講堂が向かい合って建っている。金堂と講堂は扉が閉まっていたので、わたしたちは曼荼羅堂へと向かった。

曼荼羅堂の中には授与所と、曼荼羅を祀る本堂がある。本堂には目隠しの布がかけられていた。当麻曼荼羅を直接拝むには、拝観料500円(令和6年4月現在)が必要だ。

本堂左手の授与所で御朱印帳を書いてもらう。ついでに曼荼羅も拝んで行くことにしよう。“ついで”なんて言ったら、中将姫に怒られそうだが。

拝観料を払い、靴を脱いで本堂に上がった。祀られているのは写本の「文亀曼荼羅(重文)」だ。原本は損傷が激しいので公開されていない。

文亀曼荼羅もかなり古いものだ。全体的に黒ずんでいて、何が描かれているのかよく分からない。デカさには圧倒された。織物なのに4メートル四方もある。曼荼羅を収めている須弥壇も巨大である。須弥壇は国宝で、鎌倉時代の作らしい。源頼朝から寄贈されたと伝えられている。
「おお~すごい~」
そんなことを口々に言いながら、わたしたちは須弥壇をぐるっと一周した。ざっと見るだけである。なんせ、曼荼羅の絵が判別不能なのだから。5分ほどで拝観は終了した。

本堂を出ると、授与所から人が出てきた。
「これから講堂にご案内しますね」
えっ?ほかにもあるの?見られるのは曼荼羅だけだと思ったけど、それだけではないらしい。

係の人について曼荼羅堂の外にある講堂の前に来た。係の人は鍵を取り出し、入口を開けてくれた。中に入ると、薄暗い室内に、スポットライトに照らされた仏像が浮かび上がった。

講堂の本尊は阿弥陀如来である。丈六の堂々たる坐像だ。作成年代は藤原時代末期と伝えられる。ふくよかな円満相と、豊かな肉付き、優麗な衣文の流れが特徴である。わたしは思わず大声をあげた。

「ええ!こんな凄いモンが500円で見られるん?」

仏さまを拝むときの第一声が金の話とは、あまりにも下世話だろう。しかし欲がなさすぎるのではないか、當麻寺は。曼荼羅堂と講堂のそれぞれで500円ぐらい取ってもいいと思う。

阿弥陀如来像の周囲には、地蔵菩薩立像(重要文化財)や千手観音立像が並ぶ。聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)を思わせるレイアウトである。昔の人は、自分が亡くなったときのことを想像しながらこれらを拝んでいたのだろう。現代人のわたしでさえも、言葉を失うほどの荘厳さだ。

「次は金堂をご案内します」
講堂の向かいが金堂である。當麻寺の創建時、本堂だった建物だ。當麻曼荼羅が織られる以前の本尊だった「弥勒仏座像」(国宝)や「四天王立像」(重要文化財)が祀られている。

弥勒菩薩座像は、塑像(粘土や石膏でつくられた像)の表面に布をはり、漆をほどこして金箔を推した珍しい造りだ。當麻寺の弥勒菩薩座像は、日本最古の塑像であり、初期塑像の異例としても注目されている。座像本体は白凰時代(奈良時代)に作られた。台座や光背は藤原時代の作だ。

須弥壇の四隅を守るのが、四天王立像である。持国天像・増長天像・広目天像は白鳳時代の乾漆造だが、多聞天像だけは鎌倉時代に補作された木造である。四天王像としては法隆寺金堂に次ぐ、国内2番目の古像だ。百済方面から将来したものと伝えられ、容貌や衣文には大陸的雰囲気が感じられる。

こちらも語彙を失うほどの大迫力だ。博物館なら、ガラス越しにしか見られないだろう。生身の仏像からは、神聖な空気がビシビシ伝わってくる。

わたしは子供の頃、お寺が大好きだった。神社よりお寺派だった。仏像や絵画、装飾品などを見るのが好きだったのだ。年寄りにくっついていろんなお寺に行った。

だがわたしは、大人になるにつれ神社派になっていった。

お寺はチャラい。ゴテゴテしてる。神社は洗練されている。ミニマルデザインっぽい。お寺より神社が好きになったのは、わたしが大人になったということだったのかもしれない。ツーリング中の神秘体験の影響も大きかった。

今日、當麻寺に参拝したわたしは、お寺の良さにふたたびめざめた。一周まわって戻ってきた感じだ。

今回の帰省は、祖父の墓参りから始まり、那智の滝・熊野本宮大社などにも行った。神社には人知を超えた大きな力がある。しかしそれは、どこか冷たさを感じる力だ。お寺には、人間らしい温かさを感じることができる。人間のダメなところや弱さも包括する懐の深さだ。

乳がんの検査のとき、MRIやCTなどの大掛かりな機材を使った。知らない誰かが考えて設計し、組み立てた機材だ。部品のネジのひとつまで、どこかの誰かが作っている。わたしを病気から救うために、顔も知らない人たちの技術や知識が生かされているのだ。検査を受けながら、感動して泣きそうになった。

當麻寺の仏像たちを見ていると、その時と似た気持ちが沸いてくる。人間の智慧は途方もない。

金色に輝く仏像たちは、きらきら瞬く天の川のようだった。仏とはなんぞや。それはもしかすると、宇宙なのかもしれない。わたしはそんなことを思った。亡くなった人を「仏さん」という。人間も小さな宇宙なのだ。

「今日、来てホンマ良かったな」
山門前の茶屋で柿の葉寿司を食べながら、わたしは母と話をした。母と観光に出かけるなんて何年振りだろうか。18歳で東京に出たわたしは、地元のことを意外と知らない。

「しゅうちゃんとは上手く行ってるん?」
母の問いかけに、わたしは口ごもってしまった。
「まあ、そうやな…」
その様子を見て、母は言った。
「我慢でけへんかったらいつでも帰っておいで」
たまに会う母はとてもいい人だ。大人だな~と思う。しかし今の心境はそういうことではなかった。わたしはちいさくため息をついた。

温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。