見出し画像

鈴木さんを締め出したい!

「うっっわ、なんこれ?」
わたしは思わず大声をあげた。下腹部の左側に巨大なアザができていたのだ。アザの大きさは直径10センチぐらいあろうか。皮下には大きなしこりができている。

前回の診察から、3日が経過していた。診察のとき、3ヶ月に一度のリュープリン注射を打った。リュープリンは上腕部、腹部、臀部のいずれかの皮下に注射する。別府病院では下腹部に注射することになっていた。

皮下に入った薬剤は、身体から異物と認識され、周りに肉芽腫(にくげしゅ)が形成される。これがしこりの正体だ。薬剤は皮下にとどまり、3ヶ月かけてじわじわ体内に溶け出す。

3ヶ月前にリュープリンを注射したときも、しこりはできた。でも今回のしこりはその時よりはるかに大きい。触ると痛いし、腫れているような感じがする。
アザの色も気になる。青アザというより、血が溜まって赤黒くなっているのだ。注射の跡がアザになりやすい人がいる。このアザもそういったものだろうか。それなら放っておいても問題はない。しかし。

(注射した部分が腫れる副作用があると、治療説明で貰った冊子に書いとったな)

わたしは柴石(しばせき)温泉の脱衣所で、鏡に映った自分の下腹部のぜい肉を、アザと一緒につかんだ。
(腫れすぎちゃう?これ…)

柴石温泉は、亀川と鉄輪の間ぐらいにある。県道218号線沿いに、柴石温泉への分岐の目印が立っている。分岐から山道を少し進むと、柴石温泉の駐車場とお風呂の建物が見えてくる。

柴石温泉は別府市の市営温泉のひとつだ。その歴史は古く、895年に醍醐天皇、1044年に後冷泉天皇が病気療養のために入湯したと伝えられている。江戸時代に「柴の化石」が見つかったことから「柴石」と呼ばれるようになった。

柴石温泉には、温泉のミストサウナがある。内湯から外に出ると、露天風呂と木造のサウナ小屋がある。女湯のサウナは、床下から高温の温泉が湧いている。サウナの中で深呼吸をすると、肺の中にまで温泉の蒸気が入ってくる。体の中から健康になる感じが良い。
柴石温泉は露天風呂もおすすめだ。別府ではめずらしい“超ぬる湯”である。サウナの水風呂代わりに設けられている。水ほど冷たくはない。1時間ぐらいなら余裕で入っていられる。別府の共同浴場でぬる湯があるのは、柴石温泉だけだ。

内湯には普通の温度の湯船のほかに、“あつ湯”の浴槽がある。あつ湯はしっかり熱い。45℃以上あるだろう。ぬるい露天と熱い内湯の交互浴も最高だ。
わたしは露天風呂につかりながら、競輪温泉の常連さんの言葉を思い出していた。
「しんどいなら、お医者さんにちゃんと言わんと。“そんなことわざわざ聞きに来たんか”って笑われてもな」
明日の朝一に、別府病院に電話しよう。

「これはね、別にいいの」
大谷先生が言った。
「でもすごい腫れてるし、色もどす黒いし…」
わたしがそう言うと、大谷先生はにっこりした。
「黒いのは血が固まっているんだよ。薬の副作用なら、もっと真っ赤になるからね」
なるほど、そうなんだ。
「このままホルモン治療を進める方向で問題ないかな?」
大谷先生に尋ねられ、わたしは「はい」と返事をした。

前回の診察のとき、大谷先生はかなり緊張しているように見えた。普段と変わらぬわたしの様子を確認し、安心したのだろう。今日はニコニコと機嫌がよい。大谷先生のそんな表情を目にして、わたしは捨てたはずの気持ちが蘇ってしまった。

(はぁ~…先生、かわええ。好き)

やっぱり先生のこと、この先もずっと好きでいよう。わたしはそう心に決めた。

「大したことなくてよかったですね」
わたしの隣で鈴木さんが言った。一気に現実に引き戻される。

以前、電話で鈴木さんは「次の診察は私も同席しましょうか?」とわたしに言った。しかし、今回の診察は”次の次”である。「今回も同席したほうがいいですか?」と、診察の前に鈴木さんは確認を取ってくれると思っていた。しかし、わたしの気持ちを確かめる様子もなく、当たり前のように鈴木さんは診察に同席した。

(大谷先生から「次も同席してほしい」って言われたんかな?)

それなら仕方がない。先生にだって、どんな形で治療を進めるか決める権利はある。でも鈴木さんが診察に同席するのは、あくまで“わたしのため”だったのではないか。もし、大谷先生に頼まれたのだとしたら「先生が同席を望んでいる」と、わたしに一言伝えるのが筋だろう。

今日の鈴木さんはお面のような顔をしていなかった。しかしわたしのモヤモヤは晴れない。
この日も診察が終わってから、鈴木さんは姿を消した。そして5分ほど経って、フラッと待合室に戻ってきた。鈴木さんはわたしに世間話的な話題をいくつかした後、帰って行った。
(私に隠れて先生と話してるのを、この人はうまく隠せているつもりなんやな)
わたしは呆れてしまった。子供でも分かるで、なめられたもんやな。他の人にも同じことしてんの?患者のことバカにしすぎやろ。

鈴木さんが間に入ったことで、何だかおかしなことになってしまった。
(何とかして、鈴木さんを間に入れない方法を考えないと…)
わたしは帰宅後、大谷先生に手紙を書き始めた。

温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。