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何をしても、しなくても、拭えない「無力感」を超えていくために

今日は、日本時間の2024年1月2日。
バンクーバーは、2024年1月1日元日。

そんな一日の中で、前日飛び込んできた「能登半島地震」のニュースの続報に胸が痛むばかり。

このたびの地震被害に遭われている方々へ、心よりお見舞い申し上げます。亡くなられた方のご冥福をお祈りすると共に、被災された方々の平安を一心に祈っています。

・・・

元日、家族で過ごされる方も多かったであろう、この日になぜ・・・と頭によぎりましたが、ただただそこにあるのは、「自然の力」。

「何ができるか?」
と寄付をしたり、支援活動に動かれている方もいらっしゃるでしょう。
さらに、こんなときこそ、自身を守るために情報から距離を置く選択をしている方もいらっしゃるでしょう。

ただ、何をしても、しなくても、拭えないのが「無力感」だったりします。

そこで、伝えたかったのは、
この自動発動してしまう「力になれないもどかしさ」「心痛」に、どうか無自覚に嘆かないでほしい。ということでした。

・・・
冒頭にあるように、私は今、バンクーバーという太平洋越しの地にいて、「心からの祈り」を捧げています。

「祈るしかない」という言葉がありますが、手も足も出ない。何もできない。そんな時に私たちに残る手段でもある「祈ること」。

それは、無言だったとしても痛烈な「祈るだけでは何も解決しないじゃないか」という眼差しに晒されています。

しかし、東日本大震災から、1年後の2012年3月11日から12年ほど、毎年。
同日の日の出と共に、海岸線に立って黙祷をする。HumanBand という「祈り」を続けてきて確信していることがあります。

「祈ること」は、私たちが大きな大きな自然の力の前に無力でいないための私たちの中にある力だ、ということ。

※参考:「祈り」がいかに祈る人にとってよい効果があるかは中野信子さん著の『脳科学からみた「祈り」』に詳しいです。

(しかし、「祈り」がいかに祈る人にとってよい効果があるか、ではなく…)

私がいまこの瞬間に、「無力感」を持ってしまっている自分を含めた人たちに伝えたかったのは、『今一度、自分たちがすでに持っている力を思い出してほしい』ということ。

脳が「祈り」によって、いかに響き合うか、癒し合うか、現実すらも動かすか、は「本当か?」のような無粋な問いでなかったことにもされかねません。

ただ、確かなのは「どうしようもない」「手立てがない」と"無力感"を放置することは、よしとしてはならない、ということだけは留めていただきたいのです。

この無力感は、無自覚なうちに、心も体も視野も発想も、何もかもを縮こませて、ピンチをチャンスに変える、人間の深い理解に根差した伸びやかな私たちの潜在的なチカラをもなかったことにしてしまいます。

2004年の新潟中越地震、特に、その被災地の一つ、山古志に通い、その自覚的な私たちの力の発揮のし合いがありさえすれば、「配慮」を超えた「手立て」や「希望」を生み出すことを学びました。

そして、「祈りの力」を軽視しないこと、それが第一歩であることも。

当事者であるかどうかをさておき、絶望的な状況に「力になれないもどかしさ」「心痛」をどうか無自覚に嘆かないでほしい。

私たちには「祈る力」がある。
そのことを、一緒に思い出そう。

とまた、ここにも祈りを込めて、書き留めさせていただきました。


※この記事は、金銭的・物質的支援を否定するものでは決してありません。
自分を含めて「祈るしかない」と無自覚な無力感を抱えてしまうかもしれない、と想いがあふれての投稿でした。至らない言葉や表現があったとしたらご容赦ください。




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