同人誌「異世界博物学図譜」について

 従容体は洞窟の裂け目から差し込む薄い光を感じながら物思いにふけっていた。
「この物体は本来どういうものなのか?」
 今運び込まれたばかりの樹木の破片を体の下に、従容体(と、ここでこの個体を呼ぶのは便宜的な名付けで、スライムは互いを分泌液の臭いで認識している)は思考を巡らせる。表面は隆起し細かい粒子を付着させて苦い味わいである。所々に菌類や昆虫の味が付着しており、食欲を刺激する。内側は層状に繊維が重なっており、粘度の高い液体がにじみ出たところには糖分の気配もある。従容体は生まれてこの方洞窟から一度も離れたことがなく、親から受け継いだ記憶の他に、外界への知識を持たない。ささくれた断面から、この物体がより大きな何かから一部だけ剥ぎ取られてきたものと理解できたが、それの本来の姿については想像もつかなかった。 
「そもそも本来あるべき姿とは何か?」
 従容体は仮足を薄く延ばして木片の輪郭を辿る。繊維はほころびがなく、ちょっと触れた程度では剥がれる気配がない。肥料とするには少し消化して、分解を進めておいた方がよかろう。従容体は輪郭をなぞっていた仮足を大きく広げ、木片を呑み込んだ。食胞に取り込まれて木片がゆるやかに溶解し始める。その外見からは想像しづらいが、スライムは地衣類を栽培して栄養源とする農耕種族なのだ。
「この物体は従容体の体内にあって未だ同一性を保っているか?」
 従容体はぼってりと膨らんで重くなった体をひきずりながら、なおもとりとめなく思考を巡らせた。弱い光が直接皮膚に触れ、従容体の眼点を強く刺激した。光刺激は大抵の個体を落ち着かない気分にさせるものだが、従容体は自己の思慮の内側に沈み込んでおり、気にも止めなかった。
「なぜこの物体はここに存在するのか?」
「それは逍遥体が運び込んだからである」
 従容体は大いに驚き、木片を吐き出して警告臭を発した。
「外敵!外敵!」
 逍遥体も大いに驚き、儀礼臭を放出した。逍遥体の年齢やら生殖機能やら栄養状態やら、その他細々とした情報が空間を圧して大きく広がり、もうもうと立ちこめた。
「逍遥体は儀礼臭を放たずに従容体と接触した。他意があると考えられても仕方がない行為である」
 従容体は取り乱してしまった決まり悪さに不機嫌になり、苛立ちを逍遥体にぶつけた。
「逍遥体はそれを運び込んだ後しばらくの間、ここで食事をしていた」
 逍遥体は仮足を一度に複数個形成しながら弁解した。従容体は逍遥体の運んできた物品をいじり回していたために、間近な臭いに気づかなかったのだ。
「申し訳ないと考えている。謝罪したい」
 逍遥体は形成した仮足の一本をゆっくりと伸ばし、従容体にじわじわとすり寄った。その分泌液から性衝動を感知し、従容体は嫌悪感をあらわにして体を縮めた。
「逍遥体の性質は衝動的に過ぎる。礼を失する性質が子世代に現れては困る」
「しかしこの性質は生存に有利である」
 逍遥体はぬけぬけと返答を放った。実際この個体は従容体とさして年齢は変わらないにも関わらず、もう3個体も子を設けている。とはいえ逍遥体ほど盛んな個体は多くないにしても、あらゆるスライムは、自己保存と繁殖を第一目的に動く生物である。むしろ従容体のように一度も生殖行動に臨んでいない個体の方が珍しい。
「であれば従容体の性質は生存に不利である。より生存確率の高い個体と生殖せよ」
 従容体は怒りを込めて返答を放出し、再び木片を呑み込んで移動しはじめた。逍遥体の感情の臭いが追いかけてきたが、それは意識の外に追いやった。

 その日従容体がいつものように畑にうずくまっていると、近くに他者の臭いを感じた。どの個体と特定するには至らないが、覚えのある臭いのような気がする。誰何の意味を込め、儀礼臭を放出した。返答はない。
「肥料の搬入か?食事を求めるか?」
 やはり返答はない。臭いの変化もない。漠然とした不安感が従容体を覆った。親個体が残した不確かな記憶が分泌液に絡まって取れない尖った破片のように意識の隅を刺激する。従容体は不安の臭いをわざと散布し、可能な限り速やかに去ってくれることを望んだ。
「留まる理由がないなら立ち去るとよい、従容体は接触を望まない」
 敵意はないと相手の臭いは語る。そうでありながらじわじわと距離を詰めてくる。従容体は怯え、逃避を考えて仮足を形成しようとした。
 と、相手はその方向にするりと先回りした。スライムにはあり得ない速度。従容体は延ばしかけた仮足を痙攣させ、警告臭を放った。
「危険!危険!」
 途端同族の気配はぱちんとはじけた。無害な臭いを怖気の立つ毒液の悪臭が上塗りする。地面を這うあるかなしかの振動は、脚が地面を掻く不気味なふるえに取って代わる。
 従容体の親の記憶が突然焦点をなした。これは肉食のハイダニの一種。皮膚感覚で世界を認識するスライムには、同族に擬態する天敵がいるのだ。
「危険!」
 警告臭が虚しく爆ぜて流れた。外敵の口器が従容体の核を狙って突き出される。外敵に遭遇した経験のない従容体は、うまく防御行動を取ることができずに混乱し、その場に留まったまま小さく体を縮めた。
 奇跡的な幸運が従容体を救い、攻撃は体の致命的でない部位に食い込んで流れた。従容体は傷ついた部位を即座に切り離して捨て、恐怖の悲鳴を点々と垂れ流しながら逃避する。敵は従容体を追いながら、顎にこびりついた粘液と肉をこすり落とそうとして幾分足取りを緩めた。
「逍遥体は警告臭を受け取った、救護を試みる」
 この幸運が従容体を救った。今し方引きずってきた肥料を吐き捨て、逍遥体が猛然と襲いかかった。興奮の臭いがしぶく。新たに現れた獲物にまごついて、敵は不用意に足を踏み出した。逍遥体は突き出された脚にからみつき、食胞に取り込んで消化しようとする。タンパク質の溶解する臭い。敵はもがき、大きく脚を振るって逍遥体を振り回した。
「加勢を願う!」
 飛び散る分泌液の臭いに、従容体ははっと我に帰った。動きを妨害しようと敵の後肢に絡みつき、胴体へと這い上がろうと体を伸ばしてみる。脚を覆う剛毛は同族の臭いがする油に包まれていて、攻撃の意思を鈍らせる。敵は従容体の頼りない攻撃を煩わしがって苛立ち、脚を振るって逍遥体を跳ね飛ばすと逃げ出した。
 逍遥体は身震いした。従容体は間近にまき散らされた逍遥体の臭いを味わい、その接近にたった今気づいたとでもいうようにぼたぼたと儀礼臭を垂れ流した。逍遥体は儀礼臭を返し、問いかけた。
「状態は万全か?」
「負傷は軽微である」
 従容体は自己の器官を点検しながら答えた。逍遥体は仮足を突き出し、馴れ馴れしく擦り寄ってきた。
「逍遥体の性質は生存に有利であることが証明されたと考えるが如何」
 従容体は仮足を延ばし、接触を受け入れた。逍遥体の匂いがこれまでにないほど近くにあった。

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