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詩誌「三」73号掲載【詩の座談会】

ーー新しい企画『詩の座談会』です。
詩にまつわる話題を一つ、一人のメンバーが決め、それについてリレー形式で一人ずつ自分の考えを述べていくコーナーです。

水谷 「詩を書きたくなる時/書ける時はどんな時ですか?」というテーマで話しましょう。

私は「書きたくなる」のは圧倒的に、合評をした後です。「三」の他にも詩を書く会を定期的に持っていますが、身近な人の作品を読んだり、自分の作品を読んでもらった時に、「詩ってやっぱりすごい」と毎回新鮮に思い、また書きたくなります。
「書ける」の方は難しいのですが、大きく分けてニパターン。
1つは、締切が決まっている時。
誰もがどの瞬間もオリジナルだから、という信念があるので、今この時に私がただ見たことだけを書いても成り立つはずなのだから、と覚悟するというか、諦めるというか…、それで書けます。
他人からして分かりやすいか、良いと思ってもらえるか、自分もまた納得しているのか、は別として。
もう1つは、日常を過ごす中でふとした時に、「あ、コレ書ける」とピンと来ることがあって、それが形にまで持っていけた時です。
ただそれは、「ふと頭の中で光った、この言葉の組み合わせ」「なんか、今感じた、この感じ」がピンと来るだけのことが多く、それは詩の断片なので、断片のまま十年くらい持ち続けていたりします。
夢を見ていたとは覚えているのに起きたら忘れてしまうように、断片にさえ出来ず消えてしまったりも。
 
飯塚 書きたくなる時は、小説であったり映画であったり、他人の創作物に触れた時が一番多い気がします。読んだり、見たりしている瞬間、ある一つのフレーズから発想が広がる印象です。
凄く曖昧な説明なのですが、その作中、水平方向(→)に広がっていく言葉が、垂直方向(↑)に広がっていくイメージが見えた瞬間。それが一番書きたいと思う時です。
ただ、実際そう思って書き始めても、何か違うという時が少なくありません。水谷さんの話を聞いて思い出したのですが、「発明」の概念に対する説明で、水を入れたコップに石を入れていき、水が溢れたところが発明、という話を聞いたことがあります。詩も同じように、最初の着想はあくまで水の入ったコップで、そこに普段の生活で見たことや聞いたことが石となってコップに放り込まれ、水があふれた瞬間が作品として書ける時なのかなと思います。
 
石山 締切の時期が近づくと、アイディア探しのため、これまでの三を十冊くらい読み返します。師匠である梅田先生の詩集や、先輩や同期からもらった卒業制作を引っ張り出してきたり、その他、著名な詩集を読んだりも。飯塚くんも、映画や小説に触れた時と書いてたね。私は、詩や音楽に触れると何か書けるかなと思う。
日々のあれこれに追われていると、あまり書ける気がしません。心を静かにして、固くなった心の結び目をほどいて、自分をゆるめてみると、ふとアイディアが浮かんだりします。一人になって、静かな空間に身を置いて、リラックスして・・・。そういうことも必要です。今の私には、それが難しかったりしますが。
あとは、良い作品に出会った時。好きな詩人のもそうだけど、いちばん刺激を受けるのは、三のみんなの作品。身近な存在だからか、良い作品が出ると、自分も! と奮い立ったりします。作品を一編書き終わると、次号私は書けるんだろうか…と思うのですが、次の締切がやってくると、何か書いてる自分がいて、それをもう十八年も続けてるのか、と驚きます。水谷さんも書いてたけれど、やっぱり締切が大事だね。これが無ければ書けません。
 
正村 「書ける」ときは、私も締切が何よりのガソリン状態です…。「書ける」というより締切によって「書くぞ」としないと書けな
い状態というか…。そのタイミングで自分の心の中にとどめておいた言葉とか情景とかをさらって、ひっぱり出してこねくり回して書いています。
「書きたい」について話そうとすると、テーマから少しそれますが、「書けない」くらい強い感情があるときです。怒りとか悲しみとかもちろん喜びとか…強く感情が揺さぶられると「この気持ちをぜったい詩にしたい!」と思うのですが、私の場合、そういう時は納得のいく詩になりません。時間が経ってその強い感情から距離をおけるようになって、客観視できたとき、ようやくちゃんと詩にすることができます。「書きたい」=「書ける」ではないのが悲しいところです。

水谷 「締切」があると書ける、という現実的な話になってしまいましたが、「読んでもらえる場」があること、というのは大切かなと思うね。
大勢に読まれるというのが全てではないけれど、でも誰にも読まれない事ってなかなか書けない。
読まれなきゃ価値がないとは思えないけれど、読まれなくてもいいけど、もしも万が一、誰かに読まれた時に読むに値するものではありたいなと。
飯塚さんの水の入ったコップの話、発明は石を少しずつ入れていくんだ。水をどんどん足すんじゃないんだね。
石山さんの、何もしない時間が必要な感じもとてもわかる。
正村さんの言ってることにも通じるけれど、日々の雑務にしろ自分の感情にしろ、何かに必死な時のそのほんとの渦中の時には、無理だよね。
感情が動いた時なんて確かに、書ける気がしてしまうけど。書けたとして、夜中に書いた恥ずかしいラブレターみたいになりそう。
心がなきゃ書けないけど、書くことはどこか冷めた部分がないとね。

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