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詩誌「三」73号掲載【On your mark】石山絵里

この日のために、何百キロもの距離を走ってきた。一年前、今日と同じここナゴヤドームでゴールゲートをくぐった時のことを思い返す。膝の痛みが不安だった私。痛み止めを飲んで、テーピングを巻いて。ゴール直後は、まともに歩くこともできなかった。足の爪が二枚はがれていた。倒れこんで動けなくなって、担架や車いすで運ばれている人もいた。なぜそうしてまで人は走るのだろう。フルマラソンは簡単ではない。それなのに、こんなにもたくさんの人が、こんなにも楽しそうに、チャレンジしようと集まってくるなんて、信じられないことだ。

「自分に勝つ」
「とりあえず、完走」
「自己ベストの更新」
「笑顔でフィニッシュ」

ゴールゲートの横にあるメッセージボードは、今日のランナー達の決意で埋め尽くされた。マラソンは個人競技だけれど、決してそれだけではない。
マラソンに出るたびに、フルに挑戦するのはもう終わりにしよう、これで最後にしよう、と思いながらも、やっぱり私はここに帰ってきてしまう。ここに来れば、これまでとは違う自分になれるような。ほんの一瞬でも、自分を解放できるような。そんなことを期待しているのかもしれない。
今回が最後のチャレンジ。そう思いながら練習を始めたが、来年も私はここにいるんじゃないか、とも思う。このレースが終わる時、私は何を感じるだろう。一年後、さらにその先の私はどこにいるだろう。
もうすぐ号砲が鳴る。この一年、今日のためにやれることはすべてやってきた。今年も私はここへ戻ってきた。信じられないけれど、信じていいことなんだ。背すじを伸ばして、まっすぐ前を見る。目の前には、スタートゲート。これまで走ってきた距離や時間を考えれば、四十二・一九五キロなんて、あっと言う間だ。怖がることはない。ゆっくりと深呼吸。大丈夫。大丈夫。自分に言い聞かせて、高鳴る鼓動を感じながら、今、走り出す。

2024年3月 三73号 石山絵里 作

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