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詩誌「三」71号掲載【メンバーによるオンライン合評会】

ーー71号では、石山絵里の作品「青」について合評しました。

正村 恋の詩と読みました。
「君のブルーハワイはサイダーみたいな味がした」は初キス…!と読みましたがどうでしょうか。
切ない言葉のあいまに微かに明るい言葉もでてきて、この恋が一体どこへ向かうのか、揺れている「私」の気持ちがまざまざと伝わってきました。
そしてさいご占いに頼っちゃうのがかわいい。
全体をとおして胸がきゅんとしました。
 
飯塚 率直に言って、読むのにすごく時間が掛かりました。
なんでだろうと色々考えて二つ思いついたのは、まず一つは単純に共感しづらい題材だったこと。
正村さんと同じように恋の詩だと思ったけど、言葉がすっと落ちてこない。
この詩に共感できる下地や経験が、自分には足りない気がしました。
もう一つは、いつもの石山さんの詩って論理的なところが特徴でそこが好きなのだけど、この作品はあえて完成したパズルをばらばらにして組み合わせたような、前後の流れがうまくつながらない感じがしました。
あえていつもと違うスタイルに挑戦しているのかな? そういう姿勢は見習いたいところです。
 
水谷 詩の中に直接青と書かれて出てこないけれど、青のものがたくさん並んでいく感じがイメージされて、その中にひとつだけある「イチゴ味」がきっと赤くて、ワンポイントなんだろうなと。夏の終わりの爽やかさとさみしさを感じました。
「二択まではしぼれるのに/結局いつも 間違った方を選んでしまう」というところ、人間関係に限らずかなり思い当たる節があって、心にひっかかりました。

石山 今回は、十代の女子視点の恋愛詩を書いてみました。
いつもと違うスタイルで書いたという自覚は無くて、いつものような感じで書いたつもりです。
数日前のデートを、自室で一人思い出してる設定だけど、前後の流れがうまくつながらない感じがするという指摘は私の力量の問題かな…。
でも、書いてて楽しかったです。
正村さんが、初キスと読んだということだけど、色んな読み方をしてもらって楽しんでくれたらいいなと思います。
色んな読み方ができるところが詩の面白さだと思うので。
二択まではしぼれるのに、というのは、私が普段の生活の中で、思うようにいかないと感じることを書きました。
共感してもらえて良かったです。
今年の夏も、やっぱり青い作品になったけど、夏はエネルギーがみなぎってて、私は結構好き。
三は季刊誌なので、季節感のある作品が毎回多い傾向があるのかな。
 
正村 二択まではしぼれるのに、というところ、私も好きです。
生きるうえでの選択において、百パーセントの正解はなかなかないと思う
ので、そう言う意味ではどんな選択も後悔があるのが普通なはず、とも思えるのは私が多少なりとも年齢を重ねてきたからかなあと思います。
十代のころだったら、今よりもっと心にのしかかるのだろうなぁと共感できました。
まさに、青ですね。
個人的には前後のつながりは気になりませんでした。
部屋でポツポツ思い出してる感じを受けました。
たぶん何度も何度も同じ
ことを思い出しては「ああ…」となってるのかなぁ、とか考えました。
 
飯塚 自分自身が行替え詩を書く時って、たいていこれは散文じゃないなっていうのが理由なんだけど、石山さんはどうなんだろう?
行替え詩の方がいいから行替え詩で書くのか、散文詩に向いてないから行替え詩で書くのか。
結構その辺のラインって感覚的なので、もし意識的に考えてるならぜひ聞いてみたいです。
 
石山 飯塚くんは、散文詩を書くことが多いよね。
私も、三のメンバーの中では、飯塚くんの次に散文詩を書くことが多いのかも。
私は飯塚くんとは逆で、まずは行替えで書こうと試みることが多い。
どちらかというと、行替えで書きたいと思ってる。
現実に近い・自分と近い世界を書く時は散文で、
空想、または今の自分とは違う世界を書く時は行替えを選ぶことが多いかもしれない。
明確な線引きではないけど、思い返すとそんなふうに書き分けてるような気がする。

飯塚 行替え詩ってリズム感というか、音楽的な素養がある程度求められると思ってて、それが散文のほうが書きやすい理由の一つかなと自分では感じます。
現実と空想で文体を分けるってことはあまりない(基本的に空想ばかりだから)ので、そういう分け方はちょっと新鮮な感じです。
 
水谷 私は基本的にあらすじのない抽象的なことを書くことが多いので、散文詩はほとんど書けないな。
正直に言ってしまうと、散文を書くのってめちゃくちゃエネルギーと配慮がいる。
 
飯塚 配慮とは? 良かったら詳しく聞いてみたいです。
 
水谷 荒川洋治さんが、「詩とことば」という著書の中で「散文は異常なもの」と書かれてて、それに気持ちが近いです。
「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」というのは散文。
詩はそれと同じ情景を書くときに「白が、いくつか」と書いたりする。
乱暴な表現だ。
しかし人はいつも白い屋根の家が~という順序で認識するだろうか?
実は「家だ。白い!」と知覚をしたのに、人に伝わりやすいように散文として順序を組み替えていることもあるはず。
というような事が書かれているんだけど。
確かに何かを、ぱっと見たときに人は文章をきちんと書いたときみたいに整理して入ってこなくて実際には「あ、白い」「家か」くらいの感じだし、行分けの詩だとそれをそのまま書くもやりやすい。
だけど散文で同じことをすると成り立たないことがあって整理し直さないといけないと思う。
荒川さんのは「散文詩と行分け詩」の話ではなくて「(いわゆる)散文と詩」の話だから、また少し違うとも思うけれど。
そして私の「エネルギーと配慮」がいるため書くの大変、と思ってるのは、私の精神的持久力のなさと怠惰的な生き方のせいだととても実感してはいます!

正村 私も散文詩を書くことが苦手だなぁと思ってたのですが、感覚的にしか思っていなかったものが、水谷さんの説明でとても明瞭になりました!! 
そういうことだったんだ!!!
白と家の間のなんやかんやが難しいです。
多分そこを一生懸命埋めている間に、詩(ポエジー?)がどこかいっちゃうのです・・・。
 
石山 私は、散文で書くことは好きだし、書きやすかったりするから、そんな考え方もあるんだとびっくりです。
散文は異常なもの…その言葉だけここに持ってくると、かなり強い印象が残るね。
前後を読むとまた受け取り方が変わるのかもしれないけどね。
私達の恩師である梅田卓夫先生は散文詩をよく書く人だったから、その影響で私も散文詩を書くようになったと思う。
昔、梅田先生から、「行替えの形に頼らなくても、散文の形で詩を作ることはできるんだよ。優れた詩というのは決して見かけだけの形にはとらわれないんだよ」というような話を聞いて、今でもその考えは私の中に根強く残ってる。
作品を書く時に、行替えか、散文か、どちらが適しているのかな、というのは考えて書くようにしてるよ。
 
水谷 散文と散文詩はまたちがうし、行分けにしたから必ずしもポエジー据え置き! という単純なことでもないのだろうし、得意な方が人によってあるのだろうけど。
どちらで書くか、どういうふうに書くか。自分の中にあるものをじっくり見るということ自体が必要なのかも。

 石山 ポエジー据え置き!(笑)


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