産む百合について

 百合に関わる仕事に就いてから気が付けば数年も経っていて、詳しい訳じゃないですが百合好きですよというスタンスだったのが、ここ二・三年は特に百合の仕事の色が強くなって行き、普段読んだり見る物も圧倒的に百合に偏向しており、毎月必ず百合漫画を数冊買う様になった。

 懇意にしている書泉の百合棚も最初は知らない作品知らない作家しか居ないとなっていたのが年単位でなんとかあれも持ってるこれも持ってる。これは持ってないが知っているという所まで来れた。ある程度の知識はつけれたんじゃないかと思うが、所詮入り口の扉を開いただけで、知らない事ばかりという状態だ。運よく当時偶々手に取った作品が百合作品の有名な作品だったりと、百合であることを意識せずに読みインプットしていたという作品があるのは幸いだが。

 百合の仕事をしていても所謂産みの百合は無かったように思う。自分がやっていることは0から1を産む仕事ではなく1を10にする仕事だからだ。ライティングをしたいと思い、いくつかの作品は書いてきたが商業ベースに乗せれる物では無く、産む場に参加する事は殆ど無かったが、いつか自分から百合を産みたいを常々思いながら生活をしていた。

 ふとしたタイミングで年に数回ショートショートを書く機会に恵まれた。何も無い状態であれば本当に年に一本書くか書かないかという様なペースに落ちていた自分にとってはアウトプットが出来るというのは非常にうれしく思う。そんなものだからずっと商業ベースの仕事が出来ないのだが。
 知人が定期的に発行している本に寄稿する所から始まり、初めて自分から百合を産む行為が出来た。百合出産がその瞬間に起こった。ようやく数年も百合の仕事をしていながらサポートだと思い続けていた心の棘が一つとれた気がした。内容や出来はどうあれ、僕も百合を産んでいますと胸を張れるという事実自体が心を軽くしてくれる。百合が僕を救った瞬間なのだ。

 百合ってなんだ。百合という言葉はあまりに解釈が広い。レズビアンは割と明確ではあるのだが、百合とレズは違うという人も居る。それは百合が恋愛感情を持ち合わせていない状態でも百合を内包していると感じる所が原因だろうと思う。レズビアンは言葉の通り女性の同性愛者であり、ホモセクシャルな訳だ。恋愛感情が最低でもそこに存在している。友人同士ではそれは同性愛とは言えないのだろう。片方がヘテロセクシュアリティであったとしても、片方が恋愛感情を持ち合わせていればそれはジャンル作品としては成立しているとは思う。個人的には両想いでイチャイチャしてくれるのが一番うれしいのだが。
 ことカテゴリ論争で言うのであれば、共感性を求めない場合正直どうだっていいしなんだって良いと思う。これは”百合”であると楽しめるならそれはその人間にとって全てが百合作品であり、正しいと思う。だがアウトプットする以上はある程度の共感性とジャンル作品である前提をテーマに置いた物が要求される。自称するのであればなおさらだ。世の中には同性愛をテーマにしていないが物語として必要な物を書いていた結果そうなった作品がいくつも存在しており、私は百合作品を書いたつもりは無いと作家が言っても世間では百合作品として扱われるという物もある。ユーザの同調と共感がそこに存在しており、ジャンル作品として成立する訳だ。

 百合が書きたい。どんな百合が書きたい。なんかいい感じの。
 大げさな事を言いながらもスタートラインはいつもそうであり、エレクトロを聞きながらストロングゼロを飲み相方に口移しをしながらセックスをして、仕事の帰り道にフォーナインを飲んでは投げてそれを蹴り上げてみる。これが僕の書く百合だ。同性愛を描く場合、ネガティブな要素が必ずついて回ってくる。その理由は明白でそういった教育を受けてきたからだ。こと同じ国に生きて義務教育を受けた人間なら共有できる認識である。この認識を利用して描くポジティブでネガティブで幽玄的でアイロニカルな物が百合だと思う。なんせ男性だろうが女性だろうが共通して持っている問題として子を残す事が出来ないという圧倒的な壁が存在しているからだ。だからこそ儚く美しい。

 百合は美しいのだ。だからこそ美しい百合を産みたいと思う。

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