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25歳の自分が書いた物との再会

 異常な人と正常な人の違いとはなんでしょうか。

 ふふ、予想以上にオマエラシイ悩みだの。

 理解できない事というのは、落ち着かない気持ちになります。そうですね、そうする事によって、不安が募ります。

 お前は世界の事を理解しているのか?

 その返答は不定です。
 ですが、そうですね、せめて、身の回りの物事は理解したいと思います。

 うむ
 その不安こそが、正常や異常を生み出したのだよ。そうだな、レッテルを貼ると言うのかな。そうやって理解した事にしてしまう、理解したつもりになる。

 正常と異常というのも、単なるレッテルなのでしょうか?

 ふぅ、こんな話を続けても、何も得る物がないと思うがの。

 いえ、私は得る物があります。

 ほう、何を得るというのだ。

 貴方の言葉です。

 ふむ、気の利いた口説き文句だ。
 今から話す事は、私の思想でも信念という訳ではない詰まらん話だ、それでも良いなら耳を傾けていてくれ。

 わかりました。

 お前は、自然界に観測される、元来の発散制。そうだな、ばらつきと言う物の存在を認めるか?

 はい。

 そのばらつきと言う物を、人間と言う物はカテゴライズしようとする。何故だかわかるか?

 先ほどのレッテル、の話でしょうか。

 うむ、その通りだ。人間は、そういった物を単純化、記号化する。そうしなければ、気が済まないようだ。それは、私も同じなのだが、まぁこの話は不問にしよう。
 人間は、できる限り、共有可能な認識を見つけ出し、それを手早く記号化し、単純化させる。
 それが、すなわちアナライズだ。ここまでの話に理解はできるか?できんようなら、ここで終わらせよう。

 いえ、大丈夫です。解ります。

 うむ。
 そうやって、分析をしていくに連れ。当たり前の事だが、人間が人間を分類するようになる。
 そうだな、最初は目に付きやすい身体や、大きさなど形のある物から分類していったのだろう。極単純に、背が高いという事や小さいといった事かの。それにつれ、自分達の行動すら分類を始める。
 そして、感情の分類だ。同じように観察される種別の物が仕切られて名づけられる。あれは、笑っている、怒っている、憎らしい、泣いている、悲しい、などだ。
 しかしの、そんな分類がされる前から、人間は笑ったり、泣いたりしていたのだよ。どうも、そういった事を忘れてしまう事がある。
 鳥や、魚、そして植物なども、生物学上で分類化される前から今と変わらず、生活をしてきた。それと同じだ。
 そうだな?

 はい、そうだと思います。

 そうやって、感情と思考も分類化され、大多数に共通する平均的イメージに名称がつけられた。そして、その大多数には存在しない、分類から漏れてしまった物を例外、というレッテルを張るのだ。

 それが、異常なのですか?

 違う、そうじゃない。
 例外はただの例外でしかない。ここで問題なのは、思考も感情も、人間の意識化にあって、コントロールされているという特異性だ。

 何にとって、特異なのでしょうか?

 良いか?
 生態で言うと、哺乳類と鳥類のどちらからも漏れてしまったカモノハシや、植物と動物の中間に位置するミドリムシなどは、私達が考えた分類という物を知らない。だから、影響など無いのだよ。カモノハシが、自分がそのどちらにも類しない事を異常だと考えるか?

 いえ、そんな事は、無いと思います。

 そう、その通り。
 では、何故人間が、怒ると楽しむという中間の感情を抱くと、又は観測すると、異常だと思うのかわかるか?

 ええと、それは。例外だから、ですか?

 例外は、異常では無いと言ったはずだが。

 ああ、そうか、そうですね。では、何故ですか?

 良いか?
 人間は、自分達が作った分類システムというものを知っているわけだ。そもそも、そのシステムこそが、文化や社会のバックグラウンドであるのだから。笑う、泣く、怒るという平均的なパターンを成長の過程で教え込まれる。本来の複雑さと言う物も、成長するにしたがって、必然的にコントロールされ、単純化へ向かう。
 赤ん坊の頃には、笑うと泣くの中間や怒ると笑うの中間の感情が確かに存在していたのに、いつの間にかどちらかへ、離散化され個別化される。
 解るか?大人になればなるほどそれが単純化されていくのだよ。

 なるほど、そうですね。

 そういったバックグラウンドが存在する世界を生きていると、感情の起伏に、何かしらスイッチが無くてはならなくなる。

 スイッチ、ですか?
 例えば、笑う為のスイッチや、泣くための。

 そうだ。
 何か、面白い事があったり、誰かが面白い言葉を放つと人は笑う。何も無い状態で突然笑い出すと、他人も自らも疑問に思うだろう?

 そうですね。

 その疑問に思うこと事態が、そうだな、間違っているとは言わんが自然な事ではないのだよ。

 それは、システムが存在する上に僕達が立っているからという事ですね。

 その通りだ。
 それにの、集団社会を合理的に存続させる為に生まれたルールも、個人の感情に干渉する。あるときは積極的に介入してくる。殺し合いや、自殺を喜ぶ社会な存在せんだろう。
 それは、社会が一つの生命体だと考えると、個人の生命が失われるという事は、全体の生命力、戦闘力と言っても良いかもしれん。それが、低下する事になる。だから、それを防ぐためのルールやネットワークが築かれる。そして、それを悲しむ感情が作られ、単純化し、更に強化される。誰にでも解る様により単純な概念に投影されるのだよ。
 そしての、そうなると、そういった反社会的行為に対して、喜びを得たり、考えたり、口にしたりする事すら規制する。単純化が熱狂的にエスカレートする。そうなると、それは個人のレベルで抑制するかもしくは、社会的に抑制するといった違いがあるかもしれんが。正常と異常の区分がある程度だが、現れるようになる

 はい。

 そもそもな、個人と社会などという単位を認識する過程において本来、大きな近似があるのだよ。それには、どこにも個人と社会を区別できるような明確な境界は存在せんからな。それを、大きく近似させ、単純化としたわけだ。

 現代の社会というのは、大人になるにつれ、更に単純化されていくのですか?

 わからん、だが、そうなっていくだろうの。正直、私がそれを完全に把握した所で、なにかできるわけではない。
 どうだ、満足したかい?

 はい、ありがとうございます。また人生レベルが一つ上がりましたよ。

 良くわからない事を言うな。君は。

 僕の持論です。

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