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死について考える

今日で7月が終わりますね
8月は夏休み
お盆で帰省して墓参りをしたり
テレビでは終戦について報道やジブリ映画が流れ
死について考える月だとも思います

ある性教育を推進する会議で

助産師さんは生を扱うが
死についても教えることで
いのちの大切さを教えることについて
どのように考えるか?

といった質問があった

助産師は「生」だけを扱うのではなく
たくさんの「死」にも立ち会っていること

自死も含めてどのように死にたいかを考えることは
どのように生きたいかを考えることにつながる
と考えていることを伝えました

ある人が
私が死ぬときには誰も立ち会わなくていい
子どもたちも間に合わなかったね
というくらいがいいと

私も身近な方の死に直面して
誰にも立ち会われない死に方について考えた

病院で立ち会う死には
たくさんの家族に囲まれて亡くなる方も
一切面会がなくひとりで亡くなる方もいる

死に方はその人の人生だよね
って言い方をする人もいるけど

その方がどのように生きてきたかなんて
死に方で測れるはずもない

私は職業柄
死を科学的に捉えている
つまり死は無になることだと思っている

だから幽体離脱して
天井から自分の亡骸を見下ろし
家族に囲まれて涙されている状況を
知る由もない

ただただその場から心も身体も
無くなるだけだと考えている

このコロナ禍が後押しした形で
結婚や葬儀の儀式が
社会でのお付き合いや接待に使われるのではなく
個と個、家族という最小限の記念として扱われるようになった

家族は列席者に気を配ることなく
心から喜んだり、悲しんだりでき
自分なりのケジメをつけることができる

そうした中で
一人で亡くなる死は
寂しくも惨めでもない

亡くなる人のことも大事だが
やっぱり生きている人を最優先で考えたい

私は最後に
誰の手を煩わせることなく
今までありがとう
と言って亡くなっていきたい

お義母さん
今までたくさんありがとう
こちらのことはご心配なく
どうぞ安らかにお眠り下さい



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