「人の最期」に正解はあるか
お久し振りに自力ネタで帰ってまいりました。その前に、大阪北部地震で亡くなられた方々に深く哀悼の意を申し上げますとともに、負傷者の皆様、また被災された皆様へお見舞い申し上げます。
そんな中、今日気になったのはこちら。
痛ましい。
なんともやりきれない気持ちになる事件である。こういった「承諾殺人」は単に医療制度であるとか福祉問題であるとかではなくて、実は「尊厳死」に関わってくるところが非常に難しいのだ。
そもそも「尊厳死」とは何か、と言うことについて。語義は辞書でも引けばすぐにわかるだろうが、語義が示す「尊厳」と言うのは抽象概念であり、実際の「尊厳」は個々人のフィールドまで一度引きずり下ろさないと見えて来ない。つまり「個人の意を厳かに尊重する最期」こそが「尊厳死」と言うシニフィエに対するシニフィアン以上でも以下でもないことが。この問題をより難しくしている。
私は母親をがんで亡くしているから、肉親が最期をどう迎えるのかに当たってはセンシティブなところが有る。がんは徐々に進行し、ある一点を超えたところで急速に悪くなって逝ってしまうのだが、母はその点非常に我慢強かったのか、疼痛に苦悶することも目前に迫った死に臆することもなく彼岸へと旅立っていった。もっと早くから病院に行けと言い続けていたけれども、結局それは母の尊厳を毀損することでしかなかったし、母は自ら望むべくして望む結果になったのだと言わざるを得ず、従ってその尊厳は保たれたのだと考えるべきなのだろう、か。
して、今回の「承諾殺人」事件であるが、いろいろと考えさせられるところが有るが、唯一母と似ているのが「入院や終末医療を嫌がっていた」と言うところだ。結局母は最終的に入院し、それから10日を経たずして最期を迎えたのであるが、本事件における「被害者」も恐らくはそれに近い状態だったことは想像に難くない。しかしなぜ被害者は、そこまでして入院を拒んだのであろうか。真相はもう誰にも、本件の被告でさえも、わからない。
「人の最期」の瞬間を自ら選ぶことができる、そのことが実はもっとも尊厳的なのかも知れない。自然災害や事故によって生じた犠牲者を思うと、その思いは尚更募る。自らが選び、自らが信じて託した相手に最期を委ねられることができた、そのことは決して公に正しいとは言い難いが、被害者にとっては最後の救済足り得たのかも知れない。そう思うと、胸が痛む。
正解なんてものはないのだけれど、自らの最期を自らで選ぶことができるのは、正解よりも幸せなことなのかも知れない。