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#25 カルマ(選択)のない生き方とは

ナマステー。

お立ち寄り頂きありがとうございます。

ヨーガの聖典『バガヴァッド・ギーター』の主題の一つは、ヨーガの生き方=カルマヨーガです。

「あなたは行いの結果を出す人ではありませんので(結果はカルマ・パラの法則によって与えられるものなので)、行いの結果を心配することなく、自分の果たすべき役割・義務を果たしなさい」

ということが語られます。

ダルマを選ぶ練習の生き方=カルマヨーガが始まると徐々に、したいこと、していること、すべきことが一致した生き方になると言います。

ダルマは良心として全ての人に生まれつき備わっており、その状況でどのように振る舞うべきか、誰しも心の奥底ではわかっているのです。

本当はもっと与えることができたのに、不安がブレーキとなりそれ以上与えられなかった

そんな言い方をすべきでなかったのに、駆け引きから意地悪な言い方をしてしまった

自分がしてもらって嬉しいこと、されて嫌なことがわかるので、そうすべきでないと知りながらも、そのように振る舞ってしまうことがあります。

すべきとわかっていながらしていないことがある時、すべきでないことをしてしまっている時、後悔や罪悪感のような形で違和感を感じるように心はできています。

子供の頃に学校や習い事をズル休みして、一瞬は嬉しかったけど、何となくモヤモヤして結局楽しめなかった経験があるのではないでしょうか。

宇宙との調和を基準にして、この時この場所で、自分の行為を選ぶとき、そこには、選択肢は殆どありません。
宇宙の動きが、「自分のすべきこと」として、目の前に表れているのです。
ブログ『Medha Michikaの世界』より

ダルマの価値を理解するほど、ダルマを選べないことの損失の大きさが理解されます。

ここでヴェーダの伝統的なお話しをひとつ。

あるところに、ふたりの少年がいました。

ひとりの少年はヴェーダの教えの価値を大切にしており、日々の祈りを欠かしません。

もう一人の少年は、ヴェーダの価値を重視せず、祈ったことがありません。

ある時、ふたりの少年は一緒に旅をすることになりました。

寺院の前を通りかかった時、祈り深い少年は神様に祈るために寺院に入りました。

もう一人の少年は、外で待っていましたが、待っている間に金のコインを拾いました。

祈りにいった少年は、戻って来る時サソリに刺されてしまいました。

外で待っていた少年は言いました。

「見てごらん。僕は祈りにいかなかったけど、ここにいてコインを拾った。ところが君は祈りに行ったのにサソリに刺されてしまった!」

そこへ一人の聖者が通りかかり、少年たちから事情を聞きました。

聖者は占星術の専門家だったので、ふたりの少年の生まれを聞き出して鑑定してみました。

聖者は最初に、サソリに刺された少年に言いました。

「その程度で済んで君は運がいい。君は今日もっとひどい事故に遭うはずだったが、祈りが働いたのでサソリに刺される程度で済んだ」

次に聖者はコインを拾った少年に言いました。

「実にもったいないことをした。君は今日、莫大な富を手に入れるチャンスがあったが、祈りが働かずコイン一枚で終わってしまった」

ここで祈りは、目に見える結果・目に見えない結果の両方に働きかけるダルマな行いの象徴です。

価値の価値が見えていない時、目先の損得でアダルマを選んでしまうことは、とても損な買い物をしているようなものと言われます。

千円と百円の価値を知っていれば、迷いなく千円を選ぶように、ダルマの価値を理解するほど選択は自動的になります

考えがイーシュワラに解消した人は、選択のプレッシャー、結果への期待から自由に、淡々と為すべきことを為し、法則によって与えられるどのような結果も楽しみます。

肉体は日々行いに従事しながらも、好き嫌いによる駆け引きから自由に、迷いなくダルマを選べるように、それほどイーシュワラを当たり前に想える私でありますように。

オーム イーシュワラーヤ ナマハ🙏

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