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#21 ダルマが選べないのはどうしてか

ナマステー、さみです。

この場所にお立ち寄り頂きありがとうございます。

このブログでは、「ダルマ(調和)を選ぶ」ことの大切さを繰り返しお伝えしています。(それしか書いていないかも^^;)

『ヨーガ・スートラ』でも、ダルマの代表例としてヤマ・ニヤマが八支則のはじめに語られ、『バガヴァッド・ギーター』13章でも私たちが身につけるべき20の資質が語られるなど、ダルマはヨーガの生き方の土台です。

「ダルマが優先される生き方に入れば、道は8割達成されている」

とまで言われるほどです。

しかもそれほど大切なダルマの価値を、私たちの誰もが生まれながらに知っています。

「傷付けられたくない」
「嘘をつかれたくない」
「奪われたくない」
「優しくしてもらいたい」
「愛されたい」

私たちは誰に教わることもなく、こうしたことを知っています。

その通りに、自分がして欲しいことを他者にもしてあげて、自分がされたくないことは他者にもしなければ、基本的にはそれがダルマを選ぶことになります。

(日常での状況はもう少し複雑で、個人の習性や好き嫌いが関わるので、必ずしも自分にとって嬉しいことが相手も嬉しいとは限りませんが、アヒムサー、サッテャなど、根本的なダルマは普遍です。)

ではそれが選べないのはどうしてなのか。

「ダルマが大切なのはわかるけど、そうは言ってもね…」

「選べるものなら選びたいけど、今はそんな場合じゃない!」

そうした考えに妨げられてしまうのは、私たちはダルマという価値は学ばなくても知っているけれど、「ダルマの価値の価値」「どれほど大切か」は学ばなければ知ることができないからだと言います。

私たちは誰もが自分なりに価値があると思うことを選んで生きています。

その選択が自分を幸せにすると思うから選んでいます。

誰も好き好んで不幸せになる選択をしませんし、価値がないと思うものをあえて選んだりしません。

ただ、「価値の価値」がわからないため、価値構造が混乱してしまっているため、駆け引きや目先の損得がダルマより大切に見えてしまいます。

お金の価値を知らない子どもの目には、きらきら光る100円玉が、紙切れの1,000円札より価値があるように見えてしまうように。

そのように混乱した価値構造を整えて、考えをきれいにしていくことがヨーガです。

ここまで丁寧に読んで頂いた方はあることに気づくかもしれません。

「ダルマを選ぶには整った考えが必要で、考えを整える(ヨーガ)にはダルマを選ぶことが必要なら、私は永遠にダルマを選べない!」

と。

実はその通りなんです(笑)

でもどうかガッカリしないでください。

そのような状況を、「アンニョンニャ・アーシュラヤ(相互依存の関係)」と呼びます。

「自己尊厳のない私にダルマは選べず、ダルマを選べない私は自己尊厳を持てない」

と表現されることもあります。

では自分には何もできることはないのか。

ダルマが大切と知りつつ、ダルマを選べない私として生きていくしかないのか。

そこで働くのが祈りです。

「どうか私がダルマを選べますように」

「駆け引きや意地悪な考えから自由に、ダルマを選べる私でありますように」

そんなこと下らないと思うかもしれませんが、どのような努力にももう一つ付け加えることができる努力が祈りとされ、ヴェーダの文化では祈りをとても大切にします。

もう一つは、与えることの実践です。

「私には特別な才能も能力もお金もないし、与えられるものはありません」

と思うかもしれませんが、誰かの話を聴いてあげることや、悲しんでいる人の側にいてあげることなど、誰にでも何かしらできる貢献、与えられるものがあります。

祈ることと与えることを繰り返し練習していると、ある日なぜかはわからないけれど、ダルマを自然に優先できている私に気がつくかもしれません。

ダルマ・アダルマ・ヴィヴェーカと言われる識別、価値構造の変換が起こるのです。

それは祈りによって引き起こされるイーシュワラの恩恵かもしれません。

今までダルマを選べなかった状況でダルマを選べたら、そんな自分を嬉しく誇らしく感じると思います。

その感情はダルマを選べている、イーシュワラと調和できているサイン。

自分自身がそのことを教えてくれています。

身近にお手本になるような人を持つこともよいとされます。

「あの人ならどのように振る舞うか、どんな選択をするか」

迷った時、心の中で自分をダルマに導いてくれるような先生、先輩、友人がいれば、大きな助けになるはずです。

ダルマを丁寧に選ぶ練習を続けていると、自動的にダルマを選べるようになり、選択肢や選択自体が少なくなっていきます。

選択が少ないので選択に集中できるようになり、間違いも少なくなるという好循環が生まれます。

菜食・ベジタリアンもアヒムサーの実践として推奨されますが、外食の選択肢が一気に減るので選択がとても楽になります。
(私たち夫婦の外食は、ほぼベジカレー一択です 笑)

最後に、ヨイショするわけではありませんが、このような地味で分別くさいブログを最後まで読んで頂ける方というのは、すでにダルマ・アダルマの識別がだいぶ起こっており、ヨーガの生き方に入りつつある方だと思います。

ダルモー・ラクシャティ・ラクシタハ

「ダルマを守るものはダルマによって守られる」

私たちがダルマを守り、ダルマに守られますように。

ダルマによって正しい時に、正しい場所に運ばれますように。

ナマステー🙏

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