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スワミジカレンダー 09【自由意志、自己尊厳】

願望を持てることは恩恵で人の喜びです。
願望が問題となるのは、自己尊厳の無い私がそれを使うときです。

「認められなきゃ、結果を出さなきゃ」と願望は抑圧を作ります。
抑圧と私の間の距離を保つことができず、自由意志は自由を失い、ダルマに反する行いに私は目をつぶります。
こうして、ますます私は自己尊厳を失います。
自己尊厳がないので、ダルマとの調和が選べません。
ダルマとの調和が選べない自分に、自己尊厳は持てません。
このジレンマ、この抜け道のない相互依存は、アンニョーンニャ・アーシュラヤと呼ばれます。
自由意志は罪悪感に支配され悲しみの手の内にあり、衰弱していて骨と皮だけが残っています。
助けが必要です。祈りは、イーシュワラの助けを汲み上げる行いです。
たった一つの完璧な行いが祈りなのです。
つまり、何一つ自由意志が抑圧に妨げられていない完全に自由な行いが祈りなのです。
そうでなければ祈りは心に現れません。
ですから、祈りは自己尊厳の発見に人を導く大切な2つの道具の1つなのです。


願望そのものは恩恵

食欲、睡眠欲といった欲求も願望であり、そうした願望があるので、私たちは食べたり眠ったりすることができます。

願望がなかったら、この体を維持することさえできません。

ですので願望は生きる上で必要で、それは恩恵です。

動物よりも自意識のある人間は、生存のための願望(欲求)だけでなく、「◯◯を得たい」という所有の願望、「◯◯を知りたい」という知る願望、「◯◯になりたい」という自己実現の願望さえ持つことができます。

ダルマ(秩序・調和)の中でそれらの願望が適切に叶えられることは、自分自身の喜びだけでなく、周囲や社会への貢献にも繋がります。

ヴェーダやヨーガの知識もまた、それを「教えたい」という願望を持つ聖者や賢者たちがいたから、教えの伝統が途絶えることなく続き、今私たちも学ぶことができています。

人間に願望があったから、私たちは個人としても社会全体としても成長し、発展し、豊かになることができました。

願望は喜びをもたらすもので、決して悪者ではありません。


束縛のない願望と束縛する願望

願望が問題となるのは、願望が「叶ったら嬉しい」を通り越して、「これが叶わないと私は不幸せ!」というプレッシャーをはらむ時です。

叶ったら嬉しいけど、叶わなくても大丈夫な願望は私たちを束縛していません。

願望が束縛のない願望である時、私たちは結果にとらわれず穏やかでいられます。

一方で、「絶対これを得なきゃ!」「これになれなかったら私はおしまい!」というような願望は私たちを束縛します。

そのように願望が強力なプレッシャーを伴う時、私たちはダルマに反してでもその願望を叶えようとします。

ダルマを選ぼうとする自由意志はプレッシャーに抑圧され、ダルマに反する行いに目を瞑ります。

その時、願望によって叶う(かもしれない)結果がダルマの価値より大切に見えており、どうしてもそれを叶えなければならないと思っています。

けれど、傷つけたり騙したりといったすべきでないことして、望んだ物や地位を得たとしても、決して心から満たされることはありません。

人間には「サーマンニャ・ダルマ(普遍のダルマ)」と呼ばれる「良心・善悪のセンス」があるので、そんな自分が惨めになり、「私は卑怯者」という低い自己評価に苛まれ、幸せでいることはできません。

低い自己評価を埋め合わせるため、さらに何かを得なきゃ、何かにならなきゃというプレッシャーのある願望が私たちを行いに駆り立てます。

「〜〜しなきゃ」という願望のプレッシャーは、ダルマを選べない自己尊厳(自己評価)の低さに基づいています。


祈りがアンニョーンニャ・アーシュラヤ(抜け道のない相互依存)を超える

自己尊厳のない私は願望のプレッシャーの支配下にあり、ダルマの価値を最優先に選べません。

ダルマを選べない自分自身を立派だと思うことはできず、自己尊厳は低いままです。

このような状況を、アンニョーンニャ・アーシュラヤと言います。

「AであるためにはBが必要」
「しかし、BであるためにはAが必要」

例えば、「病人が体力を回復するには手術が必要だけれど、手術をするにはもっと体力が必要」というような状況がアンニョーンニャ・アーシュラヤです。

人間の成長は、どの場面を見てもアンニョーンニャ・アーシュラヤだと言われます。

それまでの習性・ルーティーンでは決して起こるはずのない成長が、誰にでも起こり得ます。

動物は100%習性(プログラム)通りの行いを続けますが、人間だけは習性通りでない選択をすることがあります。

それが人間の自由意志であり、その時に働いているものは、「祈り」だと言われます。

「どうか◯◯(期待の結果)を叶えてください」

というプレッシャーの延長にある祈りではなく、自分が完全に相互依存の行き詰まった状況にあることを理解し、そこからの脱出を願う祈りです。

「ああ、イーシュワラ。私は完全に行き詰まっています。ダルマに反して何を得たとしても私はそんな自分自身に満足して寛ぐことはできません。どうか私が自分自身をダルマに反して進ませようとする願望のプレッシャーから自由に、ダルマを選べる内面の強さを持てますように。」

そのような言葉でなかったとしても、何かしらの祈りが働いた結果、私たちは習性を超えた選択、プログラム通りではない選択をすることができ、心を成長させることができます。

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