#11 執着の問題
ナマステー、さみです。
本日もこの場所を訪れて頂きありがとうございます。
今日は、「執着」についてお話したいと思います。
精神的な探究において、「執着を手放しなさい」というメッセージに触れることは多いように思います。
婚約者のさとこさんとの間でも、しばしば話題になるテーマです。
お互いを愛しく想い、側にいたいと願うことも手放すべき執着なのか?
共にヴェーダーンタを学び、ヨーガの生き方を志す者同士ゆえの不安と言えるかもしれません。
こんなことを真面目に話し合うこと自体、側から見ればお花畑なカップルなのかもしれませんがww
だけど、そもそもこれは執着なのだろうか?
そんな疑問が湧いてきたので、そのことについて言葉にしてみたいと思います。
伝統の教えというよりは、私の個人的な考えが強い文章だと思うので、そのつもりで読んで頂けたら幸いです。
まずは執着(=愛着)とはどんなものなのか、ギーターを見てみましょう。
何かを思う人に、それに関しての執着が生まれます。執着から欲求が生まれ、欲求から怒りが生まれます。怒りから、妄想が生まれて、妄想から記憶が失われます。記憶がなくなってしまうので、考えは無能になります。考えが無能であるとき、その人が破壊されます。(B.G.2-62,63)
執着の果てに、記憶が失われ、考えが無能になり、その人が破壊されるというのです。
恐ろしいですね(笑)
恋愛に例えるとわかりやすいかもしれません。
片想いが盛り上がり(執着)、相手も自分を好きになってくれることを望み(欲求)、叶わないことで怒りが生まれ、他に好きな人がいるのではないかと勘繰り(妄想)、善悪の分別を失い(記憶を失い)、正常な判断ができなくなり(考えが無能に)、ストーカーまがいのことをしてしまう。。
過去にそれに近いことをしてしまっていたかもしれません。(遠い目)
端的に言うと、執着が問題なのはダルマを選ぶ妨げとなるからです。
依存心から、為すべきこと(ダルマ)を為さず、為すべきでないこと(アダルマ)を為してしまうことが問題なのです。
好きな相手とずっと一緒に居たいからといって、仕事にも行かず、家事もせず、人との約束もすっぽかすようではマズイですよね。
各々の暮らしにおける自身のダルマを滞りなく果たした上で、自由な時間に好きな相手と一緒に過ごすことはダルマの範囲内での喜び(カーマ)であり、あえて手放さなければいけないものではありません。
睡眠欲、食欲といった根源的な欲求が、生存のための行動を促すように、あらゆる行いは何らかの願望によって起こります。
誰かに手を差し伸べることができるのも、「助けたい」という願望があればこそです。
ギーターの教えでさえ、クリシュナの「教えたい」という願望によって語られました。
人や生き物を助けること、与えること、学ぶことなど、自分を高めてくれる願望は大切です。
見返りなく与えたいと思える相手、その人の痛みが自分の痛みで、その人の幸せが自分の幸せと思える相手。
自分を愛するのと同じように愛することができる相手、愛とは何かを学び合う相手。
そのような相手と一緒にいたいと願うことは、むしろ自分を成長させる願望ではないかと思います。
長々と自己弁護をしてしまった感もありますが(笑)、私たちがダルマに留まった上で、プレッシャーのない願望を叶えていければと思います。
最後までお付き合い頂きありがとうございます。
namaste.
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