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第10回 伝えたい想いが変わる

 原稿の締め切りと出版時期の延期理由として、新たに重要な情報を入手できたことを話すと、担当編集者は「納得するまで書き直して、いい作品にしてください」と発売を延期してくれました。

 原稿を書き直すにあたり、「鶴田櫻玉の琵琶活動」と「水藤錦穣の人生」という2つの穴を埋めるのと並行して、私はもう1つ、作品の質の向上に取り組みました。
 それは「作品から音(音楽)が聞こえてこない」という課題のクリアでした。

 小学館ノンフィクション大賞の選者の一人である二宮清純氏に厳しく批評されたように、私の原稿を読んでも音(音楽)が聞こえなかったのは、文章の拙さ、表現力の乏しさもあったでしょう。
 しかし、もう1つ、根本的な理由がありました。
 意図的に「音(音楽)」の言語化を避けたのです。

 私は小学1年生から10年、ピアノを習っていたおかげで、クラシック音楽を聴くようになりました。
 いわゆる「ドレミファソラシド」のような調性のない“無調”の現代音楽は苦手でしたが、武満徹の『鳥は星形の庭に降りる』だけは好きで、よく聴いていました。ですから、伝記の執筆を依頼された際、「鶴田錦史」という名前は初耳でしたが、「武満徹と小澤征爾が世界的な名声を得るきっかけとなった『ノベンバーステップス』のソリスト」という点には興味をひかれ、仕事を受ける動機の1つになったのです。

 中学の頃は吹奏楽部の助っ人としてドラムを叩き、高校に入ってからはロックに目覚めてバンドを組みます。大学ではサークル行事の一環でしたが、何度かライブ会場で演奏もしました。
 大学入学で東京に出て来てからは何度も引っ越しますが、その度、家の近くのジャズバーを探して、入り浸る程度のジャズ・ファンでもありました。
 そんな“音楽好き”の私には「音楽を文字で表すこと」に強い抵抗感がありました。そのため、鶴田錦史の伝記を書くときも、音楽を文章で表現するのは避けていました。

 正直に言うと、逃げていました。
 でも、もう逃げるのはやめました。

 私は、手当たり次第に集めたテープやCD、レコード、SPレコードを何度も聴き返し、ビデオやDVDの映像を何度も観返しながら、鶴田錦史の音(音楽)を体に染み込ませていきました。
 とりわけ『ノベンバーステップス』に関しては、傍らにスコアを置き、「指揮者:小澤征爾指揮、琵琶:鶴田錦史、尺八:横山勝也」の初演の組み合わせだけでなく、指揮者は違うがソリストは同じ作品も、何度も聴きました。
 「指揮者:小澤征爾指揮、琵琶:鶴田錦史、尺八:横山勝也」で『ノベンバーステップス』を演奏する映像資料に関しては何十回も観て、3人の挙動とそこから生み出される音楽との繊細かつ緻密な関係に目を凝らし、耳を澄ませました。
 そして、十分に消化して、自分なりの文章表現へと落とし込む自信がついたとき、昭和37年の『編曲 曲垣平九郎』や同38年の『春の宴』なども含めて、鶴田錦史の演奏を紹介する部分には、音(音楽)そのものの描写を加えていきました。

 原稿の構成も組み替えました。
 最も大きく変わったのは物語の始まり。
 私は冒頭6ページで『ノベンバーステップス』の初演当日の様子を描くことにしました。そのうちの3ページぶんは『ノベンバーステップス』の演奏そのものの表現に割いたのです。

 あとは出版目指して一直線……のはずでした。
 しかし、結局、この書き直しも最終的なものにはなりませんでした。
 受賞した原稿をイチから書き直し始めて半年後、もう1度、大きな方針転換が行われることになったからです。

 当時、原稿を書き進める私は傲慢な思いに毒されていました。
「関東大震災、第二次世界大戦を乗り越え、男尊女卑の風潮と戦い続けた鶴田錦史と水藤錦穣という2人の女性の凄まじい生き様を突きつけることで、現代の平和ボケした日本人の目を覚まさせてやる!」

 正直に言えば、授賞式で酷評されたことへのルサンチマンが、私の書き手としての心を歪めていました。
 そして、実際に目を覚まさせられたのは私の方でした。

 原稿の書き直しも半分あたりを超えた2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。

 東京にいた私は、被災した方々以外の日本人の誰もが抱いたように、深い悲しみと無力な自分に対する申し訳なさに打ちひしがれました。
 そのとき、ふと思ったのです。
「私にはやれることがある。関東大震災でも、第二次世界大戦でも、日本人は何とか立ち上がり、再生してきた。その象徴として、鶴田錦史と水藤錦穣という2人の女性の生き方を紹介することで、『大丈夫、きっと立ち上がり、乗り越えていくことができるはず』というメッセージを送れるかもしれない」

 私はまたイチから原稿を書き直し始めました。
 書き手の思いや考えは如実に文章に出るものです。攻撃的で威圧的な雰囲気は消え、淡々と、しかし、しっかりと2人の人生を描いていく文章に変わりました。
 時折、耐えきれずに涙を流しながらも、なんとか書き続け、秋には原稿を仕上げることができました。

 2011年11月、ついに『さわり - 女として愛に敗れ、子らを捨て、男として運命を組み伏せた天才琵琶師「鶴田錦史」その数奇な生涯』を上梓。

 「鶴田錦史の伝記を書いてみませんか」と小さな出版社の副社長兼編集長に依頼されてから、11年の歳月が流れていました。

第11回(最終回)につづく

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