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6月22日(水)より連続セミナー「死と看取りセミナー」スタートします!

皆さんこんにちは。サンガ新社の川島です。
6月22日(水)から、サンガ新社の新しい連続セミナーを開催します。


この企画はサンガ新社が立ち上る前、昨年の6月に企画していました。
登壇していただきた先生方にはその時に打診して、ご快諾いただいましたが、ほかのセミナーを走らせたり、スケジュール調整だったりで、このタイミングになりました。

6月から9月の3カ月にわたって全5回です。

是非ご参加いただきたく、このnoteを書いています。
この企画は個人的な体験に端を発していて、父を自宅で看取ったことで、その体験から得たことをシェアしたいと思って企画しました。

看取りの体験についても以前、私個人のnoteに書いたのでよろしければ。https://note.com/eisanxxx/n/n618a334c3449


父は84歳で亡くなりましたが、70歳の時に脳梗塞をやり、ぎりぎり命を取り留め、しぶとくリハビリを重ねて趣味のハーレーで徒党を組んでツーリングに行くまで快復した強者です。(ヤンチャ小僧が老人になったんです)

■以下少々くどくどしい話なので読み飛ばしていただいても結構です。

数年前から私も両親の家で同居するようになり、半分介護生活のような感じでいましたが、82歳の時に腸閉塞で入院したのをきっかけに、胆管がんが見つかり、そのあとは基本自宅のベッドと車いすとデイサービスの往復と訪問診療という生活になっていきました。

2018年でまだコロナ前ということもあり、がん治療のための入院生活も家族で面倒を見るとができて、今から思えば恵まれたタイミングだったなと思います。術後のQOLを測るADLの数値が悪く手術を諦め、標準治療で対応できないことがわかって、先端治療に切り替えたり、あれこれ調べて連れて行ったりで、けっこう世話を焼くことができて、疎遠だった親子関係がこのときだいぶ密になったなと思います。口数多い人じゃないので会話ではなく、阿吽の呼吸の感じができてきた。

一応、一時は寛解に近い感じで、デイサービス往復したり安定の介護生活を1年以上続けていたのですが、コロナ禍の2020年9月に腫瘍マーカーの数値が一気に悪くなり、これはやばいかも、と。

入院も選択肢としてはあったのだけど、医師から余命を聞かされ、コロナ禍で病室に見舞えないことを考えると、在宅で看取るのがよいと判断したのでした。

それでも亡くなる1週間前までは割と元気で、自力で風呂にも入っていたのが、最期に向けてカウントダウンするように本当に寝たきり状態になったのが、ほぼ最後の4日くらい。僕もコロナ禍で在宅で仕事をしていたこともあり、「看病の合間に仕事」という時間の使い方ができたのは良かった。

以前のnoteにも書いたことですけど、介護生活の中でYouTubeでスマナサーラ長老の法話を聞かせたりして、聞いているんだかわからないけど、仏教は平気で死の話をするので、僕自身の準備もかねてだった今となっては思うけど、死を当たり前のこととするような環境づくりをしていたのかもしれない。

あるいは父がすでにその方向に意識を向けていたのかもしれないとは、今になって思う。なぜなら、現在同居の母92歳には、まったくその気配がないから。認知はかなり怪しいけど健康そのもので、毎日生きることへの強い意志を宣言している。

口癖は「わたし、生きて、生きて、生き抜くわ! よろしくね」である。

仏教の法話を聴かせるスキがない。


■大事なこと、共通する問題意識

父は自ら準備をしていたのかもしれません。
最期に向けての時間で、スマナサーラ長老の法話を求めた父に、仏教的な価値観、生命観を聞かせて、ぎりぎりまでコミュニケーションをとっていた数日、数十時間は、とても濃密なものでした。

父を送った後、私には、「看取りきった」という感覚がありました。
それは僕の人生を豊かにしているというか、今も心にしっかりとあるものです。
この心の状態は父が残してくれたものなのかもしれません。

この経験から私が思うのは、「看取り」の経験は、逝く人にとっても、見送る人にとっても、その期間を豊かなものにできるということです。
そしてその智慧を仏教は持っているし、仏教に限らずとも、そのための準備を私たちはできるのだな、ということです。

とても個人的な思いですが、これを何らかの形で形にしたいということで、企画したのが今回のセミナーシリーズです。ぜひお話をお聞きしたい方にお声掛けしました。ご登壇いただき本当にありがたいです。

皆様よろしければ、どうぞご参加ください。

2022年6月22日(水)~9月20日(火)


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