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私の知っているビルゲイツ、その3

本稿は、2008年6月に記した古川ブログの再投稿です。
1986年5月1日、いまから20年前のこと、マイクロソフトは8年間に及ぶ㈱アスキーとの代理店契約を解消して、日本法人マイクロソフト株式会社を設立しました。会社登記は、1986年の2月26日なのだけれど、実際のオフィス開設、会社としてのオペレーションを開始したのは5月1日で、私が初代の代表取締役社長に就任しました。(カルトQ的には、2月26日から4月31日まではマイクロソフトJapanという会社名で、シアトル本社に勤務するロナルド(Ron)細木という日系人が会社登記のために就任した初代社長なのでした。私は第2代社長でしたと言うと話が混乱するので、5月1日に会社の登記簿を変更し、”マイクロソフト株式会社”の初代社長と名乗っておりますが...)。

5月の連休中に会社をスタートして、まず最初に実施したことは社員とその家族向け保護者会(?!)、若い社員が多くご両親にとっては息子・娘が外資系の聞いたことも無い会社に就職して不安に感じておられるとか、結婚したばかりでパートナーが転職に不安を感じておられるのではないかと考えたので、家族を連れて会社見学会をしようと5月の連休中に企画したのが家族のためのオープン・オフィスでありました。1日オフィスを家族のみなさんに開放して自分の子供やパートナーがどのような会社に勤めているか見学をして頂く、私から会社概要なり、経営方針を家族の皆さんに説明をする、なんてことをいたしました。

㈱アスキーから出向扱いで参加してくれた18人と新規採用の数人でスタートを切ったマイクロソフト㈱の最初のお仕事は、1986年5月12日(月)に帝国ホテルで開催された「設立記念パーティ」でした。 連休明けの5月12日に業界のトップの方々に出席をお願いにあがり、失礼の無いおもてなしを準備するのは大変な作業で連休返上で全員が頑張っておりました。

ビルゲイツは5月11日(日)に日本法人設立後初めての来日を果たし、1泊2日の日程で「設立記念パーティ」に参加してくれました。 当時より、ビルゲイツは会社の中で日常的に発生したこと、出張中の出来事を詳細なメモに自ら記して社内回覧しておりました。会社の社長が自ら出張報告書を書いて社内回覧するなんて文化は、多分日本の社長には無いスタイルと当時から思っておりました。たまたま、私の退職にあたり昔の書類を整理していたら、ビルゲイツの出張報告書がファイルに入っているのを発見。会社の秘密に触れるというような要素は避けるとして、その報告書/メモに書かれているビルゲイツの思考と行動パターンから、彼がどのように30年間毎日どのようなテンションで仕事をしてきたかを読み取ってください。

5月10日、イタリアに滞在したビルゲイツは、ロンドン、アンカレッジ経由で成田空港に午後3時に到着しました。もちろん、直行便ではない乗り継ぎの連続で16時間ちかくのフライトに疲れも見せず、空港では2つのバッグ(黒いバリーのカバンと、代々家族で使ってきた年代モノの革鞄)を一つ私が受け取り、もう一つは自ら持ってワゴン・タクシーに乗り込んだのでした。(当時、黒塗りのハイヤーなど用意すると、なんでそんな無駄な金を使うのだ、とビル君は不機嫌になったので) 成田空港から東京へ向かう道の中で、会社が無事オフィス開設、営業を開始したこと、アスキーからの業務移管のステータス、組織構成、採用計画などなど説明をしておりました。長時間のフライトで成田に着き、なおかつその日は日曜日、そのままホテルに直行して休養するかと訪ねたのですが、ビルゲイツは「他にオプションはあるのか?」と聞くので、「開設したオフィスの見学をするなら今日しかないかも、明日はスケジュールが詰まっているから」と言うと、ビルゲイツは「オフィスを見たい」と言うではないですか...ホテルにチェックインする間もなく、そのまま千代田区三番町のオフィスへ5月10日(日)の夕刻オフィスに訪問となりました。
当時のビルゲイツの出張メモ(自筆)によれば、
- 日曜にも関わらず何人もの人間が働いており、モラルも非常に高いようだ、安心した。
- 働いている人間たちは、マイクロソフトの平均年齢と比べても若いし、経験も浅いので、中堅どころのマネージャーをどうやってリクルートするかが、大きな課題だろう。採用計画を具体的に示し、どの役職をいつまでに充足するか詳細なプランを提出するように..
- オフィスとして綺麗に設営がなされているが、各個人のパソコン設置、ネットワークの設定などまだ完了していないこともあるので、シアトル側からも支援をするべし
- これから名刺や社内用の封筒などを印刷すると聞いているが、マイクロソフト本社は数ヶ月後に会社ロゴを新しいモノに変更するので、日本法人が今のロゴで印刷したものを数ヶ月後に全部廃棄して、捨てるとなると大きな無駄になる。ついては、米国本社から日本だけは先行して新ロゴを使ってオフィス用品を印刷し、名刺に使ってよいから本社マーケティング部からロゴの使用条件やロゴの印刷原稿を送るように。
- オフィスの賃貸料が高いのはSamの責任ではなく、選定したシアトル側のスタッフが選択したということは理解する..しかしながら、今後の採用計画に対してこのオフィスは広すぎないのか? フロアプランの中で、会議室の占めるスペースが何故こんなに広く、沢山の会議室を用意する必要があるのか、具体的に説明して欲しい。
- 電子メールの設定が旨くいっていないようなので、シアトルと相談して早急に解決するように..
- 経理処理のためにシアトル本社からの指定でニックスドルフ(独シーメンスの系列会社)を各国の子会社で導入していたのだけれど、ビルゲイツ:「これからパソコンで業務処理をしていこうという提案をしながら、何で身内は経理処理のためにオフコンみたいなモノを使っているのだ?」「値段も高いし、何で自らの業務システムにパソコンを使わない?」、おいおいビルゲイツ君、それは私の判断ではなく本社の経理部門が決めたことでしょ、怒る相手が違うってば..私はビルに 絶縁状を叩きつけられた時に、UNIXを日本語化し、informixの上で(株)アスキーの在庫システム、経理システムをDECのVAX11/780で運用した経験もあったので、「MS-DOSでもできると啖呵を切ってXENIXを捨てたから、こんなことになったのではないか?」「おいビル君、そのような業務はOS/2にお任せください、って外に語りながら社内ではオフコン使って経理処理かい?」と私が煽ってしまったものだから、出張メモには拳骨の飛ぶ方向が本社に向けて「身内がパソコンの未来を信じて、社内業務システムの構築にパソコン使わなくてどうすんの!!」という激が飛んだのでした。

16時間ものフライト時間で成田に着いたビルゲイツ、日曜の夕方からホテルにチェックインする前にこのピッチで仕事始めて、なおかつこんな詳細な出張報告書を本社のマネージャとも情報共有しているってことに…あれぇ、この会社の社長になると決して楽はさせてもらえないのだなぁ、と就任当時真っ黒だった私の髪はその日を境に白髪へと変わり始めたのでありました。

さて、1日明けて今日は帝国ホテルで「設立記念パーティ」の開催です。夕方の時間では、既に招待者の皆さんは既にスケジュールを埋めておられるだろう、と昼食の時間に合わせて開催(12時から午後2時)を企画しました。その前にビルゲイツは3本の取材をこなし、ソフトバンクの孫さんと会談しています。 当時、パソコン流通組織のチャンピオンとして一太郎の総販売代理権を持ち、ロータス1-2-3の日本上陸にも直接深い関わりを持っていたソフトバンクの孫さんとどのようなお付き合いをしていくか、アスキーからマイクロソフト㈱へのスムースな業務移管をどのように実施するか、その際にソフトバンクとマイクロソフトはどのような関係を確立すべきか、トップ会談の話が弾みました。そして、ビルゲイツは出張メモの中で「日本の代理店計画は日本のマイクロソフトに任せるけれど、我々は孫さんとはこのような付き合い方をしていきたい」と記し社内の情報共有を図っているのです。

そしてさらに、5月12日午前中のこと、次にお会いしたのがアルプス電気の山下事業部長、アルプス殿は8ビットBASICの時代からマイクロソフトの大事なお客様であったので、新規契約のサインをして意見交換をしました。(当時から、IBM、富士通、NEC,日立という企業とのお付き合いは既に確立していたのですが、それ以前からお付き合いのあった老舗の方々具体的には、SORD、国際電子、アルプス電気、ロジック・システムズ・インターナショナル、ワイ・イー・データ等の皆さんとの恩義を忘れずに人間関係を大事にしているのもビルゲイツ流でした)。

昼12時から開催された「設立記念パーティ」の会場では、氷の彫刻でパソコンとそれを操作する人間が削り出され鎮座しています。大塚商会の大塚実社長(当時)、東京大学の石田晴久教授、NECの水野常務、富士通の野沢取締役からお祝いのスピーチを頂き、会場にはパソコン企業から156名、ソフト会社113名、プレス47人、銀行・一般企業23名、その他17名の総勢356名のご来場者に参加いただきました。 私たちは、日本法人営業開始日から11日目、それも連休明けの月曜日の開催、ということで準備だけではなく、何人のエクゼクティブが実際に足を運んでくださるのか気がかりでしたが、当時のインテル・ジャパンの加茂社長、伝田取締役、アップル・コンピュータ・ジャパンのアレクサンダー・ヴァン・アイク社長、などなど多くの方々にご参集頂きました。 会場でにこやかに談笑するビルゲイツ君の写真、ブログでも既に公開済みなのだけど、その横に立つ私が神妙な顔というより、渋い顔をしているようにすら見える、その理由は..

その直前の会話を再現すると、
ビル「マイクロソフトが過去お付き合いしてきた大事な人と今後お付き合いしていきたい人、よくこれだけ短期間の間に集めたな、よくやってるね」
古川「そう言ってくれて報われるよ、ビル、今日のために会社設立から11日間、何人もの人間が徹夜の連続で頑張ったのだから」
ビル「ところで、総勢何人来場されているんだ?」
古川「現在、350人を超えたところ、と聞いてる」 (最終的には、356人)
ビル「お送りした招待状で、来場されなかった会社や個人は...誰かな」
古川「パソコン協会会長の小林英愛さん、富士通の山本卓真社長は欠席のお返事を頂いている」
ビル「ところで、今日はお食事の質も最高で、お寿司や天ぷらまで出ているけれど、このパーティ総額幾らかかった?」
古川「帝国ホテルからの見積もりは、350人で773万円、最終的に750万円でお願いしますと交渉した。」
ビル「なにぃ、来場者一人あたり2万円だとぉ..そんな金額をかけるパーティなんて聞いたことないぞ」
古川「おいおい、ここは銀座で、それも由緒ある帝国ホテルのバンケット・ルームだぞ、場所代だけではなく、せっかく昼休みに昼食を食べずに来場して頂くお客様にそれなりのおもてなしをするのが日本の流儀だろ..」
ビル「その全てを理解して実施したとしても、一人あたり12000円(当時の100ドル相当)が妥当なところだろう、それを何で2万円もかけるのだ、バカモン..」(具体的にはFから始まる単語でイキナリ罵倒されるのが、これまたビルゲイツ流)
古川「ビルおまえなぁ、俺に社長を任せるといったら日本でのオペレーション全てを俺に眼を瞑って委(ゆだ)ねるって気持ちはないのか?」
ビル「お前を個人的に信用しているってことと、会社のガイドラインとしてどのような規律を会社が保つかは別の話だ...その意味では一人あたり2万円の交際費は高い..これは経費で落ちない接待費だろ、ということは会社の利益の1500万円相当が半分はパーティに、半分は税金に持っていかれて、たった2時間のパーティのために使われるってことだぞ..1500万円の利益をあげるために、幾らの売り上げが必要か考えてみろ!!!」
古川「ビル、もしこのパーティを夕方やっていたら1000万円以上かかっているぞ、帝国ホテルで日本のエクゼクティブを集めてパーティするのに750万円は安い、よくその予算でやったと褒めて欲しいくらいだ」
ビル「でも、一人2万円は高い」
古川「ビル、これ以上この件で責めるなら俺は、やってられねぇ」
ビル「沈黙...」
そしてその直後の写真が これ...ね、ビルは笑顔で私が渋い顔をしているのはそんな背景なのでした。

パーティの後、ビルゲイツはもう一度三番町の会社に戻り、社員のみんなと話をしたいと言い出し全社員の前で「この会社の目指すこと、みんなに対する期待、技術動向、お客様とどのような関係を構築して欲しい」なんて話をして、その後何人かの人間と直接会話..そして出張の報告書には「各社員のモラルは非常に高い、しかしこの部門とこの担当者は英語のスキルはともかく経験が浅いので、シニアマネージャーの充足をすべし、このセクションからの要望を受けてをシアトル本社から支援するように」という具体的な内容が詳細にメモになっていました。それはたとえば、マルチプラン(エクセル以前の表計算ソフト)の開発担当者から「毎回英語版のソースが更新され提供さる度に、そのソースコードを繰り返し、繰り返し日本語化する作業をしている、なおかつ英語版にあるバグ修正をローカルでパッチ(修復)しているのでその改修作業が米国版に反映されていない。ついては、今回アスキーから返却された日本語版ソースコードをMS本社で受領するにあたり、その中に含まれる日本語版への改造、バグ修正を本社のオリジナル・ソースに反映させ今後本社からレリースされる次期製品においては、繰り返し日本語化の作業を日本でしなくて良いように配慮されたし。シアトルの担当者は、即効日本へビジネストリップを計画して日本の開発部隊と連携するように!!」なんて文章が多岐に渡り緻密に記されているのでありました。

滞在中にした、ちょっとした茶のみ話もビルゲイツは忘れずに、「PC-98に日本語XENIXを搭載すれば、オフコンの領域にもビジネス展開できるかも」という話を聞いたがその可能性は米国や他の国でもあるのか調べてくれとか、「任天堂は次期のファミコンでどのようなCPUを使うか調査を開始しろ>古川、そしてそのCPUの採択時にマイクロソフトのOSを採用してもらう可能性は無いのだろうか?誰か任天堂との関係を既に確立しているのか?」「中堅管理職の採用にあたって、リクルート会社へのアプローチはどこを使っていて、どのようなステータスにあるのか?」「アスキーがMSX-DOSを8ビット用に提供していると聞いたけれど、それをNECのPC-88に移植することえによってPC-88と(PC-98)+(MS-DOS)のブリッジができないか?それをキッカケにマイクロソフトとアスキーの関係を良いものに保つことができないだろうか?」などなど、ビルゲイツ君、よくまぁそんなテンションで毎日仕事していて頭がおかしくならないなぁ、と思われる怒涛のような滞在だったのでした。

5月12日の午後、ビルゲイツは成田発のフライトでシアトルに帰っていったのだけど、そう一泊2日の滞在でこなした仕事の内容、時間の使い方と密度、社内で情報共有をするための出張報告書、経費に対する考え方、企業・個人との付き合い方姿勢、それら全てを「これがマイクロソフトのDNAだ」と社員全員に叩き込んで帰っていったのでした。

私は、「ヤバイ会社を引き受けることになったなぁ、こんなこと続けたら早死にするかも」と思ったものでした。

先週2年後の引退を表明したビルゲイツ、会社と財団に割り当てる時間は少しずつ変化したものの、昔も今も同じスピードで30年間走り続けたのだろうなぁ、ご苦労様とつくづく思うのでした。

そして、そんなマイクロソフトのDNAを維持して、出張の報告書を真面目に書いて社内回覧している人間が、今のマイクロソフトの社員には何人いるのかなぁ、とOBとして余計な心配をしている私なのでありました。

そうそう、日本のマイクロソフトの接待費のガイドライン、一日一人あたり上限を2万円にするって、社内規約はこのビルゲイツのメモに端を発するもので、Samのいう通り、時には一人2万円かかることもあるだろうけれど、まさかそれ以上使わないよね?という理解と合意で決定されたものなのでした。誰だぁ、そんなこと無視してハチャメチャをやっているのは?

では、ふるかわでした

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