「他人のことなんか気にするな」なんか気にするな

人間は生きるために生きている。論理的には破綻しているが、これ以外に言いようがないと私は思う。
人類全てが悩んだことがあるであろう生きる意味。
例えばそれは成功するためと言う人もいるかもしれないしお金を稼ぐためと言う人もいるかも知れない。友達と遊ぶこと、趣味に没頭すること、大切な人を愛すること、様々な答えがあるだろう。しかしどれをとっても「それだけでいい」と自信を持って言える人はいないのではないだろうか。もちろん、私の欲が深すぎるのかも知れない。
しかし、あくまでも私個人の話だが、金さえあれば愛する人などいらないというような経済的動物になりきることもできないし、愛する人さえ存在していればこの世の全てが敵であっても構わないと言えるほど強くない。かといって今ある全てを受け入れて金銭欲や承認欲に踊らされることなく、自らの人生を心の底から肯定できるほど悟りきった思想に染まることもままならない。どこまで行っても中途半端な精神を内面でこねくり回している。
どこかの成功者が例によってYoutube チャンネルで行動することでしか人生は良くならない、というようなことを言っていた。確かにこの言葉は唯一絶対の心理であると言ってもいいくらい正しい言葉だがこの言葉が人生に不満を持っている人間の鬱屈した気分を晴らすか、あるいはその成功者の言う、行動と言うものに導くかと言うと疑問である。
と言うのも、心に不安を抱えている人間というのは、広い大海原でコンパスを失った人のようなものだからだ。
行動とはどの方向でも構わないからとりあえず漕ぎ出すことだ。それでさらにまずい海域に入り込もうが転覆してサメに食べられようが、先のことはわからないのだから今できることは自分を信じて進むことだけ。なんとも美しい理屈である。ただそれは、理屈として正しいだけで、あくまでも理想だ。変えようのない事実として、人間には未来を想像してしまう知性があるし、恐怖を遠ざけようとしてしまう本能がある。逆に言えば行動を起こして成功した人、失敗した人と言うのは、ある意味鈍感かつ恐怖を感じづらいと言った意味での人間らしさが欠如しているという可能性がある。お察しの通り、私は今この記事を読んでくださっているあなたと同じく、劣等感と自己への猜疑心、他者という圧倒的な不確実性への恐れの中にコンパスを飲み込まれた人間の一人である。
いや、恐怖を克服して実際に行動し、私が羨むような成功をおさめている本当に強い精神の持ち主も中にはいるのかも知れない。でも、ほとんどは人間性の一部と知性の大半を欠如した人たちがよくいう成功者と呼ばれる人たちの正体なのではなかろうか。いや、わかっている。これが単なる妬みであり、他者を祝福できない私の弱さゆえでた言葉であるということは嫌というほどよくわかっている。
しかし私の弱さは留まることを知らない。成功者を妬むばかりでなく、行動しない自己の正当化、さらにあろうことかこんな弱い自分をさらけ出し、あわよくば共感者を得て傷の舐めあいでも出来やしないかと卑しい期待までしている始末なのである。
昨今はテクノロジーの進歩であらゆる情報に瞬時にアクセスできるようになった。有用な情報から些末な情報まで意図せずともスマートフォンを開けば勝手に表示される。
自分が興味を持つ傾向をAIが分析してくれて、先手で提供してくれる。ある意味、自分はな何が好きなのか?などということすら、考えなくていい時代になっているのかも知れない。
そんな時代で大きな富を手にするのは、統計的に人間の欲求を把握し、そこにコミットした何かを提供する者だ。エンターテーメントしかりビジネスしかり、政治しかり、思想しかり。
そして自分が所属するコミュニティを自由に(人間性が欠落した人間にとっては)選べるようになった現代社会では他者の顔色を伺って生きることはデメリットでしかなく、弱さを捨てきれない多くの人類は一部の人間たちが肥えるための餌になる。
これはきっと進化の前兆なのだろう。これから先、テクノロジーが二次関数的に発達していけば、人間はかつて強大な敵であった自然界における飢餓やあらゆる生命の危機を完全に忘れる。そして生命の危機がそもそもない前提の上に成り立つ本能がDNAに上書きされていき、恐怖を感じる人体のシステムは不要になる。何年先のことになるかわからないし、社会がこのまま続いていけば、という前提の上であるがこれらは人類が滅亡しない限り必ず到達する地点である。ほとんどの人間が恐怖を克服して現代の成功者のようなマインドを獲得した時、現代で語られるような人間らしさ、文学的な情緒、芸術的な自己表現の意味は失われるだろうか。また、確率論に基づいた意思決定がなされるであろう未来社会ははたして人類の繁栄と言えるのだろうか。
例えばこれらの仮説未来における人間すべてを、合理的判断を下し続けるロボットと入れ替えたとして、何か違いはあるのだろうか。
混沌の中にコンパスを落とし、自己否定に苛まれる中で、行先のわからない嵐の中に光を見ることは果たしてできるのか、弱さを愛せるのか。
今自分の弱さが嫌いで、強い人間に憧れている人よ、本当はビクビクしている自分をあたかも恐怖など感じないかのように振る舞って偽りの中で苦しんでいる人よ。いろいろな形の弱さがある。あくまでも人間である私たちは弱いし、卑しい。自己保身が第一優先の、醜い動物だ。
私も自分をすぐ偽るし、言い訳をするし、行動しないし、弱さを克服できない。そして、そんな自分の側面が大嫌いである。そして、嫌いであることは差して問題ではない。
自分を嫌いだと思う自分を、「それはよくないことだ」と無理に社会の尺度に合わせようとすることが一番良くないのだと思う。「同い年の誰がどんな実績を残したことなどどうでもいい、自分のやるべきことをやる。」と思うのではなく「同い年の誰がどんな実績を残したのか、そんなことはどうでもいい」と”自分に言い聞かせることやめる”のである。悔しいものは悔しいし、妬ましいものは妬ましい。でいいんだと思う。それこそが弱さであり美しさであり、生きている、ということだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?