見出し画像

晩夏

 新宿にて、飲み会の後、悪友2人とその後輩君とでポオカアなどという軟派な博打を打ち、そのあと誰が言い出したのかもう一杯引っかけることになって、わらわらと小料理屋へ押し掛けて好き勝手に暴飲暴食すれば、気がつけば電車はとうに終わっている時間になっていた。

 悪友らに連行されるように私と後輩君はタクシイに押し込まれ、嗚呼さらば新宿、と車窓を流れてゆく歌舞伎町のネオンに別れを告げ、彼らの住む西東京へと向かった。タクシイ・ドライバアは初老の男だった。
「運転手さん、新宿ではもう長いんですか」
「そうですねえ」
「何年くらい?」
「10年くらいですかねえ」
「嗚呼、そこまで長くねえや」などと運転手に無礼な絡み方をしていた悪友はすぐに飽きたのか、矛先を後輩君に向け、なんやかんやと喚きたてていた。
 そのタクシイ・ドライバアは案外やくざな野郎で、乱暴な運転だな、妙に車が左右に振れるなと思っていたら、後で、助手席に乗っていた悪友が言うには、時折睡眠の淵に落ちながら運転していたそうな。桑原桑原。死の危険は、いつだって結構身近なところに、ある。

 家に着くと、悪友の一人はそそくさと寝てしまい、残った三人でサメ映画鑑賞会が始まった。ディープ・ブルーというその映画を、学生時代の私は非常に好んでおり、レポオトなどを書くときに、バック・グラウンド・ミュウジックとして流していたから、もう何度見たかもわからないのだが、何度見たって、やっぱり良い映画は良い映画なのだ。知性を得たサメが研究所で暴れまわる話なのだが、特に、投資家の男がご立派な演説をした後に派手に喰われるシインと、すべての元凶であるヒロインが派手に喰われるシインが私のお気に召すところで、見るたびににやにやと爽やかな笑顔が溢れてしまうのだが、しかし、ふと、そんなシインでにやにやしている自分を一度でも客観的に考えてしまうと、自分の底意地の悪さを自覚させられて、途端にしょんぼりとしてしまうのである。
 その日も、にやにやしたりしょんぼりしたりしながら見ていると、隣でうつらうつらしていた悪友が到頭根を上げて、俺ァ先に寝るぜと呟いて寝室に消え、その場には、私と後輩君だけが取り残されて、後輩君とはその日が初対面だったものだから、奇妙な組み合わせで奇妙な状況になったなと思い、とうにアルコオルは抜けていたけれども、何だか愉快な気分になってきたのであった。

 翌朝、十分な朝寝をして昼前にダイニングへ行けば、悪友がオムライスを作っていた。そこは、たまねぎを炒めるいい匂いで満たされていた。
 とろとろの卵が乗ったオムライスを前に、みなで手を合わせて食べ始めると、悪友は後輩君にしつこく味の感想を求め、すると、後輩君は観念して、おもむろに口をひらいた。
「夏の終わりに、湿原に足を踏み入れたときの感触のような……」
 風が吹いた、ような気がした。記憶の扉が開き、目の前には、何年か前に訪れた釧路湿原の雄大な景色が広がって、高緯度地域の夏特有の、澄んだ空と心地よい風を思い出し、得も言われぬ郷愁がこみあげてきた。
「そんな、濃厚な味がします」
 オムライスの感想に湿原なんて単語が出てくるとは思ってもいなかったから、悪友らと私は顔を見合わせて、こいつぁ傑作だぜなんてげらげら笑ったけれども、私の心はいまだ夏の終わりの湿原に取り残されて、スプウンに掬っていたその濃厚なオムライスをひと口食べれば、いよいよ酩酊したかのように何も分からなくなり、しかし、走馬灯のように、4年間過ごしたあの北の大地の風の記憶に心を占められ、どうやってオムライスの残りを食べきったのかどうにも思い出せない。

 食後には、みなでその家の近くを流れる玉川上水のほとりへぶらりと出向き、そのきらきらと輝くせせらぎを眺め、そう言えば昔ここで妻以外の女と心中したやくざな色男がいたなあなんて考えながら、平和の名を冠する煙草を吸った。露出していた脚を、十ヶ所ほど蚊に刺された。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?