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なぜ、どうしてなのか

 今はもう昔のことになってしまったが、「アンタッチャブル」というお笑いコンビのコントに「息子が万引き」というタイトルのものがあった。ツッコミ担当が高校生に扮し、デパートで万引きをしたためにその事務所で話を聴かれている。そこにボケ担当が父親役で駆けつける。息子は「なんで来たんだよ」と反抗的な態度で父親に問う。父親は「電車で来たんだよ」と返す。息子は「手段じゃねぇよ」とツッコミを入れる。会場が沸く。定番ではあるが、安定の笑いがある。単なるお笑い好きとしては、「やっぱアンタッチャブル、最高」と流しておけばいい。ただ、国語に携わる人間としては注目したくなる点がある。「なんで」の用法だ。口語的な砕けた言い方なので、別の言い方を挙げると「どうして」が同じ用法で用いられる。「なんで」「どうして」は、原因・理由と問う表現である。別の日本語では「なぜ」、英語では「why」に該当する。一方で、手段・方法を問うこともできる。別の日本では「どのようにして」「どうやって」、英語では「how」に当たる。したがって、「原因・理由」が問われているのか、「手段・方法」を問われているのかは、問いの受け手が発言の趣旨を踏まえて判断しなければならない。前述のコントは、この判断の食い違いによって笑いを生み出している。
 ではなぜ、そもそも「原因・理由」と「手段・方法」が同じ言葉で表現されているのだろうか。あくまで私見であるが、考察を披露したい。それは、「原因・理由」と「手段・方法」は、もともと別の概念ではなかったのではないか、というものだ。正確に言うと、もともとは漠然とした疑問を示していたが、そこに「手段・方法」を問う意味が込められるようになり、その後に「原因・理由」も表すようになったのではないか、ということだ。実は、理由も手段も意味する表現は、現代語に限ったものではない。古文の「いかに」、漢文の「以」も両方の意味を持っている。よって、昔から理由と手段は同じ言葉で表現されていたと考えてよいだろう。古語には、複数の意味を持つものが多い。古文の助動詞で有名な「る」「らる」は、受身・可能・自発・尊敬という4つの意味を持つ。ただしこれは、現代語で考えた場合に4つになるのであって、当時の人はこの4つの意味を区別しないで使っていたはずだ。だから同じ表現を用いていたのだ。よって私は、「どうして」も同様だと考える。つまり、「どうして」は、ある事柄が現在そのような状態になるに至る経緯・過程を問う表現だったのではないかということだ。その「経緯・過程」が「手段・方法」、「原因・理由」に細分化されて把握されていった、と考えている。ただし、「手段・方法」の意味の方が「原因・理由」よりも先に発達したはずだ。その理由は「手段・方法」は目に見えやすい、認識しやすいからだ。それを問い、その答えを知ることで、問を発した側がその手段や方法を使うことができる。非常に具体的な利益をもたらしてくれる。一方、「原因・理由」は、基本的に目に見えない。問いを発した側がその答えを知っても、理解や納得にしかつながらないことが多いのではないか。利益が抽象的なのだ。生物にとっては生き残ることが最優先である。人類は集団で協力することによって生き残ってきた。集団での協力を支えるのは複数人の間でのコミュニケーションだが、そこで交換されていた重要な情報の一つが「手段・方法」だったのではないだろうか。食物を得る方法、家族を増やす方法、強力な武器を作る方法…。様々な手段や方法を交換、共有することで集団を強くし、拡大していったはずだ。もちろん、中には、「原因・理由」を共有することが集団の結束を強めることはあるにしても、緊急性や切実さという意味では「手段・方法」に軍配が上がる。使用頻度は圧倒的に「手段・方法」の方が多かったはずだ。しかし、時代が進むにつれて、多くの人が目に見えないものに注目するようになる。なぜ、人は死ぬのか。なぜ、雷は鳴るのか。なぜ、凶作なのか。身に付けた「手段・方法」を可能な限り適切に実践しても、よい結果を得られないことはあっただろう。そのような状態に対しては「原因・理由」を問いたくなる。うまくいかなかった理由を知って納得したいからだ。また、目に見えないものには、人の考えや心も含まれる。いつのことかは寡聞にして知らないが、「人の内面」が発見、もしくは発明された時期があったはずだ。それ以降は、外から確認できる発言や行動が、当人の内面が指図して生じさせている、と考えたはずだ。そうなると、「手段・理由」に負けないくらい「原因・理由」も大事な情報になる。相手の行動の意図を知ることで、相手の行動が納得できるからだ。このようにして、「どうして」は「手段・方法」という意味と、「原因・理由」という意味の両方を獲得していったのではないかと考えている。
 まとめにかかろう。「どうして」には「手段・方法」と「原因・理由」の両方を尋ねる意味があった。そして、特に「原因・理由」を問う場合、それは問う側が納得感を得ることが目的であった可能性が高い、と推測した。大事なことは、この納得感である。心理学の用語に「構成概念」という言葉がある。「人の行動のメカニズムを説明するため、人為的に構成された概念」という風に説明される。例としては「思いやり」「リーダーシップ」などが挙がる。心理学の研究では、これらがあると仮定して、様々な調査や実験を行い、その仮定が正しいかどうかを検証していく。科学的な調査などを勉強すると痛感することだが、現実世界における「因果関係」なるものは基本的に、その存在を実証することができない。「あるはずだ」とか「論理的にはある」程度にとどまる。実は、とある結果を引き起こす原因は無数に想定できる。そのため、AがBの原因だ、と確定できる状況はほとんどない。あくまでも、論理的に考えたらAがBの理由であるとするのが妥当だ、といった認識になる。簡単に言うと、「原因・理由」は思い込みだ。それが実際に特定の結果を引き起こしていることを確定させることは人類にはできない。では、「原因・理由」は無意味なのか。いや、まったくそうではない。納得感を与えられる、という点で非常に大きな意味を持っている。まずは個人レベルで考える。自分の選んだ大学、職業、恋人が、なぜそれなのか。その理由が分からないまま生きるよりも、本当の理由ではなかったとしても、それなりに確からしい理由があった方が、人生を納得しながら生きることができる。次に集団レベルで考える。人類は一人では生きられない。集団での協力が不可欠だ。そのためには、その集団の構成員に協力を促す「理由」が求められる。それが宗教であり、王の権威であり、自由と平等の思想だった。さらに現在のグローバル化した世界では、全人類規模での協力が求められるようになっている。しかし、個人や国家や文化ごとに考えは様々であり、それらを一つの集団としてまとめるのは至難の業だ。よって、全人類に協力を促す「理由」が求められる。環境保護、平和、格差の是正 …。そう、かの有名な「SDGs」だ。これらは、人類に協力への納得感を与える。このように、「原因・理由」の存在意義は絶大だ。そして、人々は、納得感のあるものを正しいと考えがちである。巷で「エビデンス」や「それってあなたの感想ですよね」という言葉が一時的に流行したのも、納得感のある理由を求める気持ちからであろう。したがって、何かを主張したい人間、何かを理解してほしい人間は、納得感のある理由を述べることが多い。聞き手である私たちは、理由を述べたことの理由に意識を向けた上で、彼の誘いに乗るかどうかを判断するのがよいだろう。

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