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「いき」な新聞記事の書き方

 日本人の美意識には「数寄」や「侘び」など様々なものがあるが、なかでも「いき」は格別に洒落ている。それはやはり、九鬼周造の定義「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」における、「媚態」と「意気地」の両立の美しさだろう。好意を抱く相手に対して限りなく近づこうとすることが「媚態」であり、その相手から離れようと強がるのが「意気地」である。そして、このような二項対立状態を維持し続けるのが「諦め」の力だ。相手に近づききった相手側への一元化に対する「諦め」、相手から離れきった自分側への一元化に対する「諦め」、これらが二項の間を絶妙に取り持つことで成り立つバランスこそが「いき」なのだ。
 九鬼は「いき」を恋愛の場面に限定して用いているが、ここに述べた「いき」の持つ複雑な力は、人間関係全般に敷衍して考えることができる。親子や兄弟、友人、職場の上司と部下、医師と患者、貧者と富者、多数派と少数派…。どのような関係においても、それぞれの意味で「媚態」「意気地」「諦め」が存在するだろうし、それらが関係維持の要になるはずだ。私は過去に新聞記者として働いていたことがある。取材相手から話を聞き、その内容を記事にするのが仕事だ。話を聞く際に大事なことは、相手の立場に立つことだ。事前に可能な限りの前提情報を収集し、その場で当人からも情報を得ながら、できる限り自分を相手と同じ状況に近づける。自分に相手を憑依(ひょうい)させるイメージだ。取材相手は、自分の内面を言語化することに慣れている人ばかりではない。そうである以上、相手の発言に全面的に委ねては真実をつかみそこなう。したがって、話を聞くという行為は2人の共同作業になる。可能な限り相手の身になって、同じ体験を味わい、そこでの喜びや苦しみを形にしていく。これこそが「媚態」だろう。一方で、聞いた話は、定式化された新聞記事という枠内で表現される。さらに、新聞記事の価値は、掲載される場所や大きさで視覚化される。価値が高い方がより大勢の目に触れる。大勢の目に触れる記事を書けば、記者としての評価は高まる。そのため、聞いた話をそのまま表現しても、「ボツ」になるか、極めて「小さい」扱いをされることが多い。そこでは、記者としての己を押し出すという「意気地」が求められる。ただし、この「媚態」と「意気地」どちらかに偏ると、記事としては「死ぬ」。そのような記事が批判や炎上の的になるのを目にする機会は多い。相手に寄せすぎても、自分に寄せすぎても、記事の価値は正確には伝わらない。大事なのは「諦め」だ。古語の「あきらむ」には「明らかにする」「心を明るくする」という意味がある。記事の価値を「明らかに」することで、相手にも自分にも寄せすぎない中庸を保つ。それは、取材相手も自分も読者も含めて「心を明るくさせる」。「客観報道」「中立報道」を旨とするマスコミの現状を嘆く声が大きい。「マスゴミ」という不名誉なあだ名もある。元記者として胸と耳が痛い。人間関係のあらゆる場面に「いき」の考え方は生かせる。ただ、報道では特に「諦め」が重要だ。これこそが本来的な意味での「報道の中立性」を担保するものなのではないか。

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