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読解力とは何か、読解力とはどのように磨くのか――。

読解力とは何か、読解力とはどのように磨くのか――。

おそらく、私が生涯にわたって取り組み、考え続けるテーマだ。自分の頭の中に対する疑問でもあるし、大学受験生と日々向き合うという自分の職業における永遠の課題でもある。ある人は言う。「国語は受験産業の鬼門。読解力は、簡単には上がらないし、下がりもしない」。実際、そうなのかもしれない。あの手この手で、受験生たちの読解力を高めようとはしている。ただ、それが「できた」とか「報われた」と思えたことは一度もない。もちろん、成長して大学に合格していく受験生は多い。ただそれが、こちらのアプローチによるのか、本人の努力によるのか、はたまた、試験の難易度によるのか、正直わからない。話を聞いてみても、こちらの提示する技法を駆使して読み解いているわけではないようだ。かといって、選んだ選択肢を見るに、その技法が無意識下で駆動しているとも思えない。だから、毎年度毎年度、受験が終わるこのシーズンは、「また今年もか…」とため息をつくことになる。やはり「鬼門」なのかもしれない。いや、まだ解明できていない「方法論」があるはずだ。そんな葛藤の毎日だ。

自分の中に迷いがあるのは確かだ。参考書などを見るに、「どのように解くか」については、ある程度の法則化が可能であり、それは自分としても体得できており、それを授業を通して提示もできている、という自負はある。問題は、「どのように読むか」である。ここに関して、参考書上で共通の見解はないし、明確な法則化もなされていないように思える。現代文の読み方の解説を行う動画を見ても、やはり同じ。「読む」という行為は、読む側の人間と読まれる側の文章に依存する点が多い。どのような人間や文章にも当てはまる法則を抽出することは難しいのかもしれない。だから、現代文の読み方を教える側は、どうしても「自分の読み方を紹介する」「自分の読み方を実践させる」という方向に流れてしまう。それも仕方ないのだろうか。
しかし、ともう一人の私が言う。それによってどれだけ「スゴそう」に見せたとしても、受験生が実践できなければ意味がない。受験生が「できたつもりになる」ような対策など意味がない。実際に受験生が「できるようになる」ものでなければ意味がない。正直、「自分の読み方」の披露なんて、そんなナルシスティックなこと、やりたくもない。そもそも、その「自分の読み方」の一般性や受験生適合性の判断はどのように行うのか。
我ながら、その通りだと思う。こんな問答を日々続けている。ただ、「文章の読み方」の確立、つまり、読解力を向上させる方法の確立、これこそが私が生涯をかけていい仕事だと考えている。仕事、という言い方はあまりそぐわない。生涯をかけて取り組む趣味、いや、作品、くらいがちょうどいい。

そんな日々を過ごす中で、素敵な文章に出会った。私の文章は、結局は備忘録としての役割が主なので、忠実にその役割をこなしたいと思う。今回、備忘したい文章は、菅原克也『英語と日本語のあいだ』だ。滋賀大学の2022年度後期試験の国語の文章だ。一部改変があるようなので、原本とは少々異なる点があるかもしれないが、引用する。

「読む力を養うことは、「聞く」「書く」「話す」をふくめて、総合的な英語力を伸ばしてゆくための、大事な基礎を固めることになる。英語を学ぶ手段、回路としての読む力は、あらためて見直されてよい」

英語の勉強についての話であり、これが文章における中心的な主張だ。そして、これは「英語」に限らず、「国語」でも当てはまると考える。話はこの後、「読む力」と「語彙力」の関係に進む。さらに引用する。

「「単語の意味さえわかれば英語が読める」ことはけっしてないし、「単語の意味を覚えれば英語を読めるようになる」こともない。これは断言してよい。英文を読むためには、文法の力や、構文を把握する力、さらには文脈を読みとる力など、さまざまな力が要求される、とくに、文法と構文に関する知識、それを目の前の英文に適応しつつ読み解く力が不足していては、いくら厖大な量の単語の意味を知っていても、英語が読めるようにはならない。ある単語がどのような文法的機能をはたし、各々の単語がどのような構文上の要素を成しているかを把握できなければ、文全体の意味はわからない。」
「語彙力とは、ある単語の文脈上の意味を見定める力のことである。ある単語がどのような意味の広がりを持ち、同じような意味を持つ単語とどのような関係にあって、どう使い分けるのか、またどのような表現のなかで用いるのか、といったことに関する知識である。そのような知識を自分自身の表現のなかに生かしてゆける能力である。語形を変化させる力(たとえばsocietyという名詞からsocialという形容詞を導く力)も必要になる。そのような応用力をともなう知識があってはじめて、真の語彙力が身についたと言える。」
「語彙力をふやすために必要となるのは、英語と日本語の訳語の一対一の対応を暗記することではない。ある単語が実際に用いられる例になるべく触れる努力をすることである。要するに、たくさん読むことだと言える。」
「文章を読むなかで語彙力をふやすことにより、実際に使える力も身についてくる。読むことは、単に情報を受けとる能力(理解力)にのみ関わることではない。情報を送りだす能力(表現力)を養うことにもつながる。応用力をともなった語彙力を身につけることで、書く力も話す力も身につけることができる。」

長くなってしまったが、以上がだいたいの内容だ。文章は、「英語」という教科がこの「語彙力」や「読む力」を軽視する方向に動いていることに警鐘を鳴らす、という締めくくりだった。「英語」の実情には詳しくないが、「国語」に置き換えて、多くの点で「そのとおりです」と納得させられる点ばかりだった。磨くべきは、彼のいう「語彙力」である。ただ、どのようなアプローチをすれば、時間のない受験生たちがこの力を効果的に磨けるのか、これが私が乗り越えるべき課題なのだろう。生きることは、自分なりの課題を見つけ、それを乗り越えていくことだと考えている。目の前に課題があるのは当然のことだ。把握し、分析し、対応策を考えればいい。幸い、私の人生はまだ続きそうだから、時間はある。時間のない受験生の代わりにまずは私が「たくさん読む」を実践するべきだ。「自分の」ではなく、「受験生が実践可能な」語彙力の磨き方、文章の理解の仕方を見つけるために。

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