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「並びたがり」の日本人

右頬に、突如シミが現れた。

今までも小さなシミはあったが、これはかなり存在感がある。

鏡に映る自分の姿にうなだれながら、これを知人(日本人)に相談したらどうなるだろうと考えた。きっと、こうなるだろう。

「そんなの全然気にならないって、大丈夫。○○さんなんて、もっと大きなシミがあったり・・・」
「私たちの年代だったら普通だから。私もココやココにも・・・」

気遣いはありがたいが、本音のところ、○○さんや知人本人や、ひいては同世代のシミ事情などに興味はない。私には、私の頬にこのシミがあることが問題なのだ。

だから、理想的な答えとしては、

・「そのレベルのシミを隠すには、花王の△△が良い」と具体的な対策を示してくれる
・「肌トラブルのストレスは、スポーツで解決しよう」と現実逃避に誘ってくれる
・「そんなシミもかわいいよ」とものすごく前向きに解釈してくれる

のいずれか。

でもそんな返しをしてくれる人は少数で、一般的な日本人は「私にもあるから大丈夫」的なことで片付けると思う。

なぜなら、日本人は横並びが大好きだから。

他人と同じだと思うことで、安心して自己肯定してしまうのだ。何の解決にもならないのに。

横並びと言えば、狭い道で3、4人が横に広がって歩いているケースもよく目にする。そして、彼・彼女らは、相手の顔を見ながらお話ししている。

他人からすれば「邪魔」の一言だが、これも「追い越さず、抜かされず」の精神で、相手の立ち位置を確認しつつ、絶妙な均衡が図られた結果なのだと最近気付いた。

日本人は、他人からどう見られているかに執着する。トイレによくある「いつもきれいに使っていただいて、ありがとうございます」の掲示も、第三者からの視点を交えながら、利用者に緊張感を与えているのにすぎない。

◇             ◇

最近読んだ『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』 (大橋幸泰著、講談社学術文庫) では、近世の村社会の構成員が、どれほど相互に支え合って生活してきたかが描かれていた。

ここでは、村社会の一員であるために、キリシタンであることが隠し続けられたというロジックなのだが、つまりその村は、「誰かの失敗=みんなの失敗」の緊張感でつながれた社会であり、日本人がよく言う「他人に迷惑をかけてはいけません」も、こんな村社会のなかば”公約”だったのだと思った。

もちろん、他人に迷惑をかけないのは良いことなのだが、他人の迷惑基準が分からない場合、他人に合わせておけば問題ないことになる。そうして、「超横並び社会」が形成されていったのだろう。後ろ指を指されないために。

そして昨今、SNSの普及によって、他人の迷惑基準が多種多様化してしまったため、合わすべき基準がどんどん下方修正され、何もしない・言わないが無難とされるようになった。

◆             ◆

さて今回は、今の日本社会が窮屈でたまらない私が、そればかりを考えていたら、シミを見ただけでその発想に至ってしまったという、悲しいお話を紹介しました。

ちなみに、上述の『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』は、なんとなくそうかなと思っていたことを、史料をもとに丁寧に探り、説得力をもって明らかにしており、歴史学はこうあるべきだと思った一冊でした。参考文献の記載がないなんて、歴史学でも歴史小説でもありませんから。

#日本人 #潜伏キリシタン #大橋幸泰