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学ぶことの意味と意義

なぜ学ぶ必要があるのか。

教育の世界では教師や講師が生徒に「どうして勉強しなくちゃいけないの?」と問われることがよくあるらしい。しかし、どのような想いでこの問いを発するのかはその人によって、またその時によって違う。だから私が誰かにそれを問われたら、その人がなぜその問いを発したのかを聞いて、それによって答えを変えるだろうと思う。問いが変われば答えもまた変わるものだからだ。

問いの背景としては、たとえば次のようなものが考えられる。

1.勉強をするのは非常に苦痛である。大人が自分にこのような苦痛を味わわせるのはいったいなぜなのか。やめてしまってもいいのではないか。
2.因数分解やら地中海性気候やらは将来どのような点で役に立つのか。そのようなことを知らなくても生活上は困らないように思えるが、大人の生活においてそれらが役に立つ場面があるのか知りたい。
3.この知識を得ると、将来どのくらい儲かるだろうか。勉強するのは時間や労力というコストを支払うことなのだから、それにどれくらいのリターンが見込めるのか知りたい。
4.いま現在学んでいることが、学問の中でどのように位置づけられるのか、その体系的な位置が知りたい。これを学ぶことによってどのような展望が開けるのか見せてほしい。

唐突だが、人はなぜ生きるのだろう。よく言われるのは「人はなぜ生きるのかという、その答えを見つけるために生きるのだ」というものだ。しかし20歳ごろの私にはそんな答えは言葉遊びだとしか思えなかった。生きる目的を探すことが生きる目的なら、その先にある実際の(?)生きる目的などはないということなのか。たとえば素晴らしい仕事をするとか、誰かを愛するとか、毎日穏やかに過ごすとか、そういうことは生きる目的ではありえないということだろうか。

仮に生きる目的を探すことが生きる目的だとすると、生きる目的はこれだと思うものが見つかったら、その瞬間(もう探す必要はないのだから)生きる目的は消滅することになる。それならそのとき見つけたものはいったい何なのか。おかしいではないか。

「なぜ学ぶのか」という問いは「なぜ生きるのか」という問いと似ている。どちらも漠としてとらえようがない。そして、学ぶことも生きることも自明視されている。あなたが大人と問答をして「なるほど、それなら学ぶ必要はないよね」という結論になる可能性はほとんどない。「学ぶことは大切だ」との結論は確定していて、あとはその理由をごちゃごちゃと言われるだけである。そのような経験をあなたはすでに何度もしていることだろう。

結局のところ大人の言う「結論めいたもの」をご無理ごもっともと受け入れなければならないのだとしたら、そして理由とは押し付けられる結論の正当化に過ぎないのだとしたら、「なぜ」と問うことに意味は感じられない。

しかし、それゆえに。大人の結論をご無理ごもっともと受け入れるのは嫌だと思うからこそ、人は学ぶのだと考えてはどうだろうか。

「大人の言うことは間違っている。自分はこう思う」と言ったとしよう。たしかに、大人の言うことはしばしば間違っている。親や教師はなんでもわかっているかのような顔をしてあなたの前に立つかもしれないが、実を言うとそんなに何もかもわかっているわけではない。それどころかわかっていないことがほとんどで、日常生活に最低限必要なことをかろうじて把握して毎日をしのいでいる、といったほうが実情にあっているかもしれない。

だから、大人の言うことが間違っているというところまでは正しいかもしれない。しかし、それならあなたの「大人の言うことは間違いで、本当はこうなのだ」と考えたことは正しいのだろうか。大人の考えが間違っていることは見抜けたとしても、別の間違ったことを言っているだけだとしたら意味がないのではないか。もっと正しいこと、もっと妥当なことに辿り着くにはどうしたらいいのか。

私にもわからない。だが「わからない。せめてもう少しだけでもわかりたい」と思った人間が無数にいて、彼らは自分のわかったことを書きとめ、他の人に発信し、他の人もそれに賛同したり反論したりしてきた。教科書や参考書に書いてあることは、その中で比較的多数の人間が何らかの根拠を持って「たぶんこれは正しいだろう」と考えていることである。

教師は教科書に書いてあることが自明の事実であるかのように教える。しかしもともと自明だったことなどはない。誰かが「こうじゃないだろうか」と考え、あれこれ調べ、賛同や反論を経て辿り着いたものが学問になっている。あなたが学問を学ぶとき、知識や内容だけでなく、どうすればより上手く学べるかも学んでいってほしい。

教科書に載っている知識のいくつかは間違っているかもしれない。いや、おそらく間違っているだろう。しかしそれに「本当だろうか。これはおかしいのではないか」と気づくためには、少なくとも教科書に載っていることの意味はわかる必要がある。まったく何も知らない人が地頭のよさだけで学問を根底から覆してしまうなどということは普通起こらない。そういうことができると言っている人がいたら、それはその人が勘違いしているか、あなたを騙そうとしているか、どちらかの可能性が高い。

「何も知らないからこそ自分独自の考えが持てる」という考えをあなたが持っているとしたら、それは捨てた方がよいと思う。逆に、学問や知識を身につけることはあなたの考えを邪魔したりはしない。あなたが今考えていることのいくつかは、学んでいくうちに間違いであることが判明するかもしれない。しかし、それはそれでよいことだ。間違いを見つけることを繰り返すことで、わたしたちはより正しい認識に向けて進んでいけるからだ。

勉強することがどうしようもなく苦しく感じられることがあるかもしれない。暗記するのはしんどい。問題が解けないのはつらい。テストに向けて同じことをひたすら反復するのは退屈だし、自分の暗記力や理解力の乏しさにがっかりすることもあるかもしれない。自分ほど努力していない(ように見える)人が自分より成果を出していくことに焦りや悔しさを感じることもあるだろう。

しかしそう焦りなさんな、と伝えたい。そもそも、当たり前のように教科書に載っていることも、誰かが生涯をかけて見つけたことかもしれないのだ。どんな知識も、かつてはほとんどの人が知らない最先端の発見だったはずだ。見た瞬間に理解しなくてはだめだなどと思う必要はない。勉強をするときは「ぜひとも今日理解してやろう」と「別に今日理解できなくてもいい。明日にはわかるかもしれない」の双方の気持ちを自分の中に置いておくことが大切だ。すぐにわからなくても焦る必要はない。だが、教科書や本に載っていることを注意深く読み、そこに出てくる概念と親しくなってほしい。問題を解いたり基本概念を暗記したりすることはそのための手段と言ってもよいだろう。

それから、世間にはそのとき主流とされている価値観がある。勉強ができないやつはダメだとか、真面目に働かないやつは生きるに値しないとか、結婚しない人間は魅力的でないとか、そのほかあなたが「どうやらみんなそう思っているようだぞ」と思う価値観があると思う。そのうちのいくつかはあなたをひどく傷つけるかもしれない。しかし世の中には色々な価値観を持った社会がある。ある社会で当然とされる見解も別の社会では変わり者の考えとみなされる。日本ひとつとっても、全てが単一の価値観の人間によって運営されているわけでもない。

そのことを知らなければ「この価値観に適応できない自分はだめだ」と思ってしまうかもしれない。「これが全てではない」。そう思うためにも知ることは有効だ。あなたの学びがあなた自身を自由に、豊かにしてくれることを心から望んでいる。なぜなら、私も自由で豊かに生きたいと思っているからだ。

ここで述べたことは、「なぜ学ぶのか」に対する答えの一つである。重要なことは、私の考えに賛同したらこの先一生迷わずに学んでいけるなどということはないだろう、ということだ。仮にあなたが上に述べた考えに賛同してくれたとする。しかしこの先「なぜ学ぶのか、学ばなくてはならないのだろうか」と考えたり悩んだりすることは何度もあるだろう。

あなたが得た答えは、どんなものであれ暫定的なものであると考えた方がよい。これまで妥当だと思ってきた答えが納得できないと思ったら、それはあなたが新しい状況に出会い、新しい答えを必要としているときだ。立ち止まり、新しい答えを探すとよい。あるいはとりあえず問いのことは忘れて生きていくのもよい。しばらく問いから離れることによって見つかる答えもあるからだ。そのようなときでも、あなたが学ぶ姿勢を身につけていれば、やがて新しい答えを見つけることができるだろう。暫定的で、それでもあなただけの答えだ。

人は学び続ける限り、別の社会に暮らしている人や、過去や未来に学んでいる人とつながっている。その意味で、あなたがひとりで学ぶとき、あなたは決してひとりではない。それはけっこう楽しいことだぞ、とお伝えして、私からの(暫定的な)お答えとしたい。もしあなたが何か答えを見つけたら、私や、周りの人にそれを話してください。そのときあなたは学問の流れに連なることになるのだから。

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