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未来2022年3月号評(陸から海へ欄)

未来短歌会「陸から海へ」欄は私が所属して毎月歌を送っているところです。選者は黒瀬珂瀾さんです。いつもお世話になっております。
「2022年はなるべく『未来』の評を書きたい!」と今年のお正月に思いまして、4月にして第1弾です。どうなってるんだ。では始めていきます。敬称は略しました。


人生はとてもシンプル アマゾンの箱を開けたら望みは叶う(正岡純子)
アマゾンには本だけでなくあらゆるものがあって、欲しい物を買うことができます。およそ私たちが欲しいと思う物はすべてアマゾンの箱で送られうるともいえます。とてもシンプルです。
しかし本当にそうなのか。「人生はとてもシンプル」と言うには人生は複雑すぎるし、それを念頭において詠まれた歌なのではないか。しかしそれは読者の勝手な感想かもしれず、主体が本当に「人生はとてもシンプル」と思っているのか、それとも「アマゾンの箱に入っていない何かが欲しい」と思っているのかはわかりません。
「人生はとてもシンプル」と二句までで言いきって、「そんなことないでしょ、人生はそれだけでは割り切れないんじゃないですか、あなたも本当はそう思ってるんでしょ」とつい言いたくなってしまう外野から距離を置いているようにも読めます。それが主体の人生に対する「わたしは人生をシンプルなものと捉えるのだ」とのスタンスというか、決意を表しているのかもしれません。


冬を待つ 一本は葉を付けたまま一本は葉をすべて落として(坂名かな)
冬を待っている木を詠んでいる、のかな。主体が冬を待っていて、それとは別に木があるとも読めますが、一応、木が冬を待っていて、主体はそれを見ていると読んでおきたいと思います。
「一本の木には葉が付いていて、一本には付いていなかった実景を詠んだ」とも取れますし、木の姿の違いに冬を待つ態度の違いを読み取ることもできるでしょう。
もう一つ気になるのは、冬は待ち遠しい、楽しみなものとして待たれているのか、憂鬱だが避けがたいものとして待たれているのかです。それによって歌の意味も変わってきそうですが、あえて明確にしなかったところがいいのかな。「この木は冬をどう思っているんだろう」と思いながら主体が木を見ているのかもしれません。


舗装路の烏の羽根の一枚の轢かれるほどに白へ近づく(二宮史佳)
舗装路に烏の羽根が落ちていて、烏の羽根だから黒いんですが、車に轢かれてだんだん白くなっていくところを詠んだ歌、と読みました。
実際に烏の羽根が轢かれると白くなるのかどうか私ははっきりわからないんですが、そうなんだろうな、と思わせるところがあります。いや、そうじゃないのだろうか。「白くなりゆく」とか「白くなりたり」とかではないから、「近づいてはいるけど黒いのだ」ということでしょうか。
「赤は情熱の色」みたいに色にはそれぞれイメージがあるわけですが、ここではあまり色のイメージに囚われずに読むのがいいように思います。「ほそうろ」「はね」「ひかれる」「ほどに」のhの音が羽根が舞うようなイメージを生み出しているのもいいなと思いました。


山奥で一人で暮らしたいと書きし七歳の吾よそれでも生きよ(八木清子)
「山奥で一人で暮らしたい」と書く七歳すごいな。そこにはかなり大きな絶望があったような気がします。単純に山が好きで暮らしたいのだったら、「一人で」とは書かないように思えます。
「山奥に一人で」の方が「で」が重ならなくてよい、という判断もありえたでしょうが、これは「山奥で一人で」とする方が七歳の「吾」の叫びが聞こえるようでいいと思います。濁音が二回重なるのがいいんだな。
主体は子供の頃を回想し「山奥で一人で暮らせるわけではない」と思いつつ、それでもそう思う気持ち自体は否定せずに自分のこととして(自分のことなのですが)その気持ちに寄り添っています。その上で「それでも生きよ」と言っています。それは過去の自分に向けた励ましの言葉であると同時に「それでも生きてきた」自分に対する誇りでもあり、将来に向けての決意でもあるでしょう。そのように読めるのは結句の「それでも」がきいているからだと思います。


熱を君のからだ全部に送り出す心臓めざしつららが伸びる(早川夏馬)
とても熱のこもった連作で、たくさんの方に全部読んでほしいと思ったのですが、今回はこの歌を取り上げたいと思います。
初句の「熱を君の」のリズムが好きです。あえて音数の短い単語を初めに使うことで間延びせずに歌を組み立てています。「送り出す」は終止形の可能性もありますが、ここは連体形で「送り出す心臓」と続けて読むんだろうな。心臓をめざすつららは実際にあるものではなく主体が見たと感じているもので、心臓の熱とつららの冷たさが強い緊張感を生んでいます。


ネオン満つる聖都ザイオンたりし歌舞伎町鬼城ゴーストタウンなればかなしも(桜井夕也)
歌舞伎町は東京の繁華街です。SF的な、遠い未来の光景を描いているようでもありますが、最近のコロナ禍で人通りがなくなった様子が重ねられているようでもあります。文語と横文字の融合した表現は作者独自のもので、ひとつの作品世界を成立させています。歌舞伎町は繁華街ですから聖っぽくはないのですが、逆説的に現代の精神性を象徴する街ということでしょうか。現代人が「聖」と無意識に思っているものは、たしかに静謐な森の中や壮麗な神殿より、歌舞伎町のような街という気がします。そしてその歌舞伎町が鬼城になったところを、主体は眺めています。


迷ってはだめだと教えられたので深く差し込むパン切りナイフ(東こころ)
「迷ってはだめだ」と誰かに言われて、決意をこめてナイフで食パン(でしょうか)を切っているところです。「パンを切るとき迷ってはいけない」と言われたわけではなくて、何か別のことで「迷うな」と言われたんでしょう。そして「あのことも迷わないようにしよう」と思いながらパンを切っているわけです。しかし、本当に迷わない人間は「迷ってはだめだ」と言われたりしないでしょうし、何も考えずにパンをスパスパ切るでしょう。「深く差し込む」という内省的な動作には主体のためらいが色濃く残っています。そしてパンの手ごたえがそのためらいを読者に触れられる実体あるものにしています。


とんがらしは黄色いまんまの実の数多道連れにして枯れてゆきたり(佐藤せのか)
唐辛子について詳しくないので検索したところ、食用の唐辛子の他に色々な色のある観賞用唐辛子もあることがわかりました。
この歌の「とんがらし」はどういうものかわかりませんが、本来なら実が黄色から別の色に変化するはずのものでしょう。その実が黄色いまま枯れていった情景を詠んでいます。この歌の特徴というか、読むうえでのポイントは「道連れにして」だと思います。唐辛子の実は唐辛子そのものなのではないのか? しかしこの歌では実は唐辛子(の実体?)とは別のものとして把握されています。本来だったら食用にされて別の生き物の一部になったはずのものがそうならなかった不全感、ということなのでしょうか。
唐辛子という素材、そして「とんがらし」という言い方に、ひりひりとするリアリティがあるように感じます。


深い深い川をつかのま喉に飼う奥歯でぎゅっと梨を噛むとき(柳原恵津子)
「深い深い」川なら永続的に存在しそうに思いますが、この川はつかのま出現しています。「喉に飼う」という特徴的な言い方は梨をぎゅっと噛むことと関わりがありそうです。梨はふつうサクサク噛むものではないかと思うのですが、この歌の主体はぎゅっと噛んでいます。そこには何か口にできなかった思いのようなものがあるのでしょう。「深い深い」と「つかのま」、「ぎゅっと」と「梨を」など、少しずつ「ずらされた」表現が選択されることで、何かに立ち止まっている場面、そのときにふと生じる生の実感が巧みに描かれているように思います。結句の「とき」がいいです。


十六時の南の空に六日月家事のみなしし日々の長かり(佐々木せつ子)
下の句「家事のみなしし日々の長かり」は、どちらかといえば否定的にとらえているということかな。「家事しかできなかったなあ」という感覚でしょうか。その日々を回想しつつ、六日月を眺めている歌でしょう。「十六時の南の空には六日月が出ていたのだが、それをのんびり眺める時間もなく家事に追われていた日々」とも読めるかなと思ったんですが、月は今見ていると読んだ方が自然だと思います。「十六時の」「六日月」の選択が上手くて、主体の実感がこもっていると思います。何気ないときに実感されることってありますよね。


夕暮れのぶらぶら歩き商店街からあげやさんふえて三軒(竹内泰子)
商店街にからあげやさんが新しくできていて三軒になっている。その発見が詠まれています。からあげが美味しそう。夕暮れなら夕飯の買い物などで忙しい時間ですが、この主体は忙しくはなくて、のんびり散歩しているところです。三句目からの言葉運びが、読者が主体と一緒にお店を覗きながら商店街を歩いているように描かれていて楽しい歌です。


ほどかるる抱擁ののち夜の湾を照らすひかりを指さしあひぬ(文月郁葉)
親しい人と抱擁したあと、湾を照らしている街の明かりを指さしながら過ごした時間を詠んでいます。三句目は「よるのわんを」かな。「よのわんを」ではない気がします。一般的には字余りの歌はリズムを合わせるために早口に読むのですが、この歌の場合はむしろゆっくり読んだ方が内容に合うかもしれません。
「ほどかるる」とは何でしょう。「緊張をほどかれる」とか「仕事などで気を張っている自分をゆるめられる」ということでしょうか。「ほどかるる抱擁」という表現が魅力的です。
近しい人と(たぶん暗いところで)明るい光を互いに指さす、その時間を大事に思っている様子が感じられる歌だと思います。


完璧に乾かすための百円はことりと落ちて一〇分自由(星川郁乃)
コインランドリーで乾燥機を動かしていて、服の乾燥を待つ時間が自分の自由時間、ということなんだと思います。多忙な生活の中で(たぶん唐突に)現れた自由時間が「ことり」という擬音でリアリティあるものになっています。
「完璧に乾かす」という表現からは主体がきっちりした性格であることを読み取ることができるように思います。「かんぺき」「かわかす」「ことり」のKの音は硬質で、じっとりした感情を感じさせません。ですから主体は「忙しいのが本気でつらい」と思っているわけではなく、忙しい日々に充実を感じつつ、10分しかない、でも10分は確実に確保された自由時間を楽しんでいるのでしょう。


スープ煮て豚汁つくる今年また火の前に立つ鍋のふつふつ(野田かおり)
「とんじる」と読むのか「ぶたじる」と読むのかはともかく、豚汁を作っています。「今年また」だから、1年ぶりに作る豚汁なのでしょうか。「豚汁つくる」「火の前に立つ」と、おそらく自分の動作を2つ並べて、最終的に「鍋のふつふつ」に着地するのがいいなと思います。無心になって豚汁が煮えるのを見ているんだろうな。
「火の前に立つ」のは鍋である、という読みも一応可能なように思えますが、つまり「鍋が火にかけられる」ことを擬人法で表現したとも取れますが、その場合は「前に」という言い方はしないように思えるので、やはり火の前に立っているのは人間である主体でしょう。あえて主体の心情を描かないことで成功した歌だと思います。


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