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『趣味なに?って質問から盛り上がったためしあるか?』の回

「趣味なに?」っていう質問がたまに鬱陶しいときがある。ていうか「趣味なに?」って質問は結構博打ではないかと思うのだが。質問をして自分と趣味が合えばそのときは盛り上がるかもしれないが、合わなかったときには「趣味なに?」に対する相手の返答が受け止めきれずに宙にフワーっと浮いた状態になってしまい、大変いたたまれない。自分は「趣味なに?」と聞いて、返ってきたものが全く自分の興味のないものであった場合のことが怖くて、こんな質問をとてもかませない。

まあ最悪なのは趣味に正解があると思っている人にこの質問をされたときであり、わたしの身の回りではパチンコ、競馬、車が趣味と言う人は趣味に正解があると思っている傾向が強い。そもそもわたしは人の趣味を聞いて、『その趣味いいなあ』などと思った試しが一度もない。別にそんなに急いで趣味を聞いて仲良くなろうとせずとも、ゆっくりお互いのことを知って仲良くなればいいじゃないか。そんな風に思ってしまう。

と散々悪態をついたけれども、自分に趣味と言えるほどの夢中になれるものがないことが、わたし自身をこういった思考に至らしめているんじゃないかとも思う。本を読むのも、音楽を聴くのも、お笑いを見るのも好きなだけれど、それらを趣味とする人たちと比較すれば、まだまだ浅いところにいるような気がする。そんな気がして、自信を持って自分の趣味を発表することができない。

ていうか、これを書いていて気がついた。本当は「趣味なに?」という会話から趣味が一致しないときを怖がっているのではなくて、趣味が一致したときを恐れているのだということに。趣味が一致したとしても、その趣味に対する深さ、のめり込み方が一致しないときをわたしは恐れているのだ。それは自分の方が浅い場合でも、深い場合でも、そのどちらの場合においてもだ。自分の方が浅い場合は「え、それだけしか知らないのに趣味って言ってんの?」と相手に思われるのが怖いし、自分の方が深い場合は「うわっ、おれはもうちょっと詳しいとこまで話し合えると思っていたのに」と勝手にガッカリしてしまうのが怖い。仮に映画鑑賞や音楽、読書など、この時点で趣味が一致したとしても、そこからさらにそれぞれの趣味の世界は広大に広がっている。果たしてわたしたちは出会うことができるのであろうか、共通の好きな映画、音楽、読書を携えて。自分は趣味に対する想いが強すぎるのだろうか。

「喜びを他の誰かと分かりあう!それだけがこの世の中を熱くする!」が叶わなかったときのほうが怖くて、叶うほうにBETできない情けなさ。そんな風にわたしが勝手に感じているハードルを、みんなは易々と飛び越えて「趣味なに?」と聞けているんだと思うと、なんだかもう首が回らないような気持ちになってくる。パチンコも競馬も趣味ではないから借金なんて背負うこともないのに、得体の知れない何かを背負っているような気持ちになるのです。『なぜ無理に分かりあおうとするのだ』といった考え方ではなく、『分かりあえたら素晴らしいけど、分かりあえなくてもそれはそれでいいよね』と受け入れられたらいい。そうは思いながらも、なれそうにはない。オザケンが遠くに霞んでいる・・・。


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