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『おれはどっちかって言ったら怒られたら逆ギレするタイプ』の回

生きてたら怒られることもある。そんなときに怒られてへこむタイプとキレるタイプの2つがあると思う。そりゃあキレるかどうかは怒られる内容によるかもしれない。でも内容によらずに、いつもムカムカしてしまう人っているんじゃないでしょうか?

会社の同僚のひとりがムカムカするタイプの性格をしている。その同僚は怒っている場合、お昼ご飯を食べるときにプリプリしながら食堂に来るから、一目で『あ、午前中に何か腹立つことがあってんな』と分かる。そして席に着くや否や上司と揉めた報告をしてくる。BINGO☆。ご飯を食べながらよくよく話を聞いてみると、そんなに上司の言っていることはおかしくない。なんなら『え、そんなことで怒る? ってか、どっちかって言ったらあなたが悪いんではないか?』と思うこともしばしばある。そんな気持ちはご飯と一緒に飲み込んで、決して彼に告げることはないけれど。

でも不思議と、逆ギレをしている彼が輝いて見えるときがある。『ああ、コイツは自分の人生を主人公として生きているな』と思うときがある。もっと言えば、怒っている彼を見ていて、なんだか嬉しいというか、笑いそうになるときがある。彼には怒っていてほしい。怒っている彼からは一生懸命に生きている素晴らしさを感じる。怒りの感情を抱くのは、その対象に対して本気で取り組んでいるからに他ならないのではないか。怒ることをやめないでほしい。そう思うのは、自分が怒れるほど物事に熱心に取り組めていないことにも関係していると思う。

怒るという行為それ自体は、生きている証のように思える。そして、そんな風に他人が怒りの感情を表出している瞬間を目の当たりにしているときに、こちらに伝わってくる生のエネルギーたるや凄まじいものがある。悪趣味とは自分でも思うが、そんなエネルギーを感じられるから、わたしは誰かが怒っているところを見るとなんだかワクワクしてしまう。クーーッてなる。うわあああああってなる。何なんだ、あのゾクゾクする感じは。たまらねえ。

怒りに限らず、目の前で誰かの感情を受け取るのは、とてつもないリアリティを感じることではないだろうか。リアルよりリアリティ。例えば、映画を観て泣くという行為。「あの映画観て泣いたわ〜」という報告を受けるだけだと、『な〜にが映画観て泣いたやねん。まずそもそも第一声として出てくる感想が泣いたってなんやねん。泣きに行ってるだけやろ』とひねくれた考えを抱いてしまう。もう余命〇〇ヶ月なんてものは食傷気味で、CMを見ただけでも胸がムカムカしてしまう。まだそんなフィクション映画を作ろうとする人の神経が分からない。けれども、一緒にそんな映画を観に行って目の前で泣かれたときには、泣くという行為のエネルギーがストレートに感じられて、『この人はこの映画を観て、本当に泣いているんだな』と信じることができる。泣いた報告だけを聞いたときにはあんなに薄っぺらく感じるのに、いざ目の前で泣かれると嘘じゃないんだと思える。そして、人が怒っているところを見たときと同じように、なんでか嬉しくなってくるのと同時に、羨ましいという感情も抱いてしまう。

わたしは本当はもっと感情的に生きたいのかもしれない。楽しいときにはもっと笑って、悲しいときにはもっと泣いて、そんな風に生きたいのかもしれない。なんならいっそのこと、腹立つ相手には後先考えずにドロップキックをかましたいのかもしれない。「うるせえ」って言いながらぶっ飛ばしたいのかもしれない。そんな場面を想像するとたまらなく爽快だろうなと思う。ってね、いざ実際にそんな行動をとることはないけれど、みんな思ってはいるのだろう。みんな我慢してるだけでそうだよね?


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