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『生まれ変わったら京都の大学生になりたい 』の回

生まれ変わったら次はどんな人生を送りたいか考えることがある。あんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけど。そんな次の人生にかける思いを友人に話したところ、「自分、もしかして来世も人間に生まれると思ってる?」と言われたことがある。衝撃、走る。まさに青天の霹靂。完全に自分は来世も人間に生まれることができると思い込んでいた。そう言われれば、来世はハトの可能性もあるし、セミの可能性だってある。人間に生まれる保証なんてどこにもない。戸愚呂に「おまえもしかしてまだ自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と言われた幽助もこれぐらいの衝撃を受けたのだろうか。友人が一瞬、戸愚呂100%に見えた。

人間は何でも勝手に都合の良い方向に解釈をして物事を進めることがある。わたしは生まれ変わったら京都の大学生になりたいと思っている。何となく楽しそうだから。でも、そうなるためにはまず、人間に生まれ変わらなければならない。そしてその次には、日本に生まれなければならない。それってかなり運が必要じゃないか? もちろん、日本以外の国に生まれたとしても、京都の大学生になれる可能性はある。だが、わたしは日本人として京都の大学生になりたいのだ。そう思うと、京都の大学生になるのはかなり難しいことのように思えてきた。なんなら、今世が一番そのチャンスに恵まれていた人生だったんじゃないかとすら思う。そもそも、ずっと生まれ変わりがあるという前提で話を進めているけれど。

しかし、日本人として京都の大学生になるよりも楽しい人生は世界のどこかにあるのだろう。そもそも京都のあらゆる大学生の幸せが全て一律なはずはないのだが。日本を出たことのないわたしには、この国以外で暮らす人々の人生の幸せを想像することができない。パリにもロンドンにもホーチミンにもそれぞれの人々の幸せがあるのだろうが、それらがどんな暮らしの上に成り立つものなのかは全くピンと来ないのだ。そう思うと何も知らないのはとても損をしているように思えてきた。想像すら出来ないほどの無知。

さらには、それぞれの人生にはそれぞれの満たされなさもあるのだろう。わたしが憧れている京都の大学生は沖縄で生活することに憧れているかもしれないし、沖縄の少年は上京を夢見ているかもしれない。そんな沖縄の少年が憧れる東京の若者はどこか遠くの国に行きたいと思っているかもしれないし、その国に住む人々はまた別の国に行きたいと思っているかもしれない。みんながみんな、ここではないどこかに行きたい、自分ではない何者かになりたいと思っているかもしれない。そんなここではないどこかはどこにあって、何者かになるにはどうすればいいのか。

たまに、わたしの人生は世界で何番目に幸せ?なんて分かるわけのないしょうもないことを考えてしまうときがある。幸、不幸は人間それぞれが抱えており定量化できないものであるため、単純に比較することはできない。それでも今の人生よりも幸せな人生がどこかにあるはずだと考えては、その理想と現実との違いに悶々とする夜がある。もしかしたらわたしの生い立ちを聞いて憧れる人がいるかもしれないのに、それでも自分の人生を受け入れられずに京都の大学生になってみたいと憧れてしまうときがある。

でも、その度にわたしの心の中の戸愚呂がこう言うのだ。「おまえもしかしてまだ京都の大学生に生まれ変われるとでも思ってるんじゃないかね?」と。思ってないけど、夢は見ている。いや、夢を見ているのはもう、生まれ変われると思っているようなものなのか? 京都の大学生になれば神社のイベントとかのバイトをして、色んな他大学の人たちと出会って、春は円山公園で花見をして、秋には嵐山のトロッコに乗って・・・。ええやん。絶対に楽しいやん。そんなことをいつまでも妄想するのは、生まれ変われることを諦め切れていないからなのか? ああ、京都の大学生楽しそう。今日寝て明日目が覚めたら、京都の大学生になった人生が始まってないかな。マジで。


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